聖女になれず婚約白紙で追放です。それでも私は幸せですよ。
祈りを捧げる指先が、石畳よりも冷たく感じる。
クレアは目を閉じたまま、教えられた通りの文句をもう一度なぞった。
聖具に捧げた祈りが水晶にどれだけの光を灯すか。聖女候補の選定はそれだけで決まる。
今朝、屋敷を出る前に、父は何度も同じことを言った。
「背筋を伸ばせ。恥ずかしくない振る舞いをしなさい。お前は聖女となり、公爵家に嫁ぐのだ。私の顔に決して泥を塗るんじゃないぞ」
ホランド男爵家は宮廷勤めの文官の家柄で、領地を持たない。
父はいつも、爵位だけでは足りないのだと零していたが、娘が聖女候補の一人に名を連ねたと知った日、父はすぐさま各方面に声をかけて回った。
聖女候補という立場だけでも、十分な価値があるからだ。
そうして纏まったのが、アシュフォード公爵家との縁談だった。選定の儀を待たずに、婚約はすでに調っていた。
もし本当に聖女に選ばれれば、ホランド家はさらに王家に連なる格まで手にすることになる。
父の頭にあったのは、たぶんそれだけだった。
神殿の広間には、香の匂いが重く広がっていた。高い窓から差す光の帯の中に、埃がゆっくりと舞っている。
クレアを含めて五人の候補が並んでいた。どの令嬢も、この日のために誂えたとわかる装いをしている。
隣に立つ令嬢は、ひときわ豪奢な衣装をまとい、祈りの番を待つ間も、余裕たっぷりに口角を上げていた。
誰もが同じくらい、この一瞬に賭けていた。
神官長の合図で、一人ずつ聖具の前に進み出て祈りを捧げる。それだけの、単純な儀式だった。
一人目の令嬢が退がる。水晶の光は灯ったかどうかも分からないほど淡かった。二人目、三人目と、同じように光はかすかに灯るだけで終わった。
それぞれに控えめな拍手が広間に流れる。
クレアの番が来た。
聖具に触れると、指先に冷たさとは違う何かが通り抜けた気がした。目を閉じ、教わった通りの言葉を丁寧に紡いでいく。
すると水晶の芯に淡い光が灯った。控え目ながらも、これまでの誰よりも強い光を発しているのがわかる。しかし、何かが抵抗をするような違和感とともに、わずかな痛みを指先に感じた。すると、灯っていた明かりが萎むように光が消えていく。
それを見た神官の一人が、わずかに目を見開いたのが見えた気がした。
今までと違う反応があったが、しっかりとした明かりを発したことに先ほどよりも大きな拍手が起きる。父の顔にも期待の色が浮かんでいた。
隣に立つ令嬢の番になった瞬間、広間の空気が変わった。聖具に触れた瞬間に眩いほど輝き、神官たちが息を呑む音が聞こえた。
どうやら聖具がこれほどまでに光輝いたことはなかったらしい。
歓声が広間を満たしていく。聖女が確定した瞬間だった。
気づくとクレアは父に腕を引かれていた。
「残念だったな」
父の声に、落胆はあっても、動揺はなかった。
アシュフォード家との縁談は、すでに調っている。聖女になれなくても、我が家が失うものは何もない。
父にとっては、縁談のほうが重要だった可能性もある。
話は驚くほど早く進んでいた。数日後には公爵邸へ移り住む日取りが決まり、屋敷中が慌ただしく荷造りに追われた。
正式な婚礼はまだ先のことだが、しばらくは婚約者としてアシュフォード公爵邸で暮らすことになっていた。
その間にアシュフォード家次期当主であるヴィクターと顔を合わせたのは、二度だけだった。
一度目は両家の顔合わせ、二度目は短い茶会。二度とも彼は穏やかに微笑み、丁寧な言葉をくれた。茶会の別れ際には、小さな花束まで用意してくれていた。
「クレア嬢と一緒になれることを、光栄に思っています」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「緊張しなくていい。私たちは、もう家族になるのだから」
そう言った時の彼の表情に、クレアは何かひっかかるものを感じていた。理由は、自分でもうまく言葉にできなかった。
悪い人には見えなかった。クレアは、それで十分だと思うことにした。
公爵邸へ移る前夜、王宮で小さな婚約披露の場が設けられた。両家の親族が居並ぶ中、ヴィクターはクレアの手を取り、指輪をはめた。
控えめな拍手が起こり、父の顔が誇らしげに緩んでいるのが見えた。
出立の朝、クレアの部屋の前にノアが立っていた。
物心つく前からそこにいた顔。
使用人の子で、姓を持たない幼馴染。
子供の頃、庭の木に登って降りられなくなったクレアを、下から笑いながら見上げていたのもノアだった。あの時も、結局は誰かを呼びに走ってくれたのはノアだった。裏庭の井戸のそばで、二人だけの隠れ場所を作って遊んだこともあった。二人で盗み食いした厨房の焼き菓子も、思い出せばきりがなかった。
「行っちゃうんだな」
ノアはそれだけ言って黙った。何か言いたいことがあってうまく言葉にならない。そんな顔をしている。
クレアも笑いかけようとするが、うまく笑えなかった。
「本当に、もう会えなくなるのよね」
はにかむように笑って続けた。
「今までありがとう、ノア。会えなくなるのは、寂しいわ」
ノアの顔が、一瞬揺れた。
何かを堪えるように唇を噛んで俯く。何かを言おうと顔を上げかけたが、結局は小さく笑って「そうだな」と誤魔化した。
馬車に乗り込む間際、ノアが一歩だけ近づいた。
「クレア」
クレアはノアの方へ振り向くが、ノアは名前を呼んだきり、続きは出てこなかった。
馬車が動き出す直前、小さな窓から外をのぞき込む。
ノアの顔が見えるが、いつもの快活さがないことに気づいた。
私と会えなくなることを寂しく思ってくれているのか、それとも何か他に理由があるのか、クレアには判断がつかなかった。
気にはなったが、馬車を止められるわけもなく、そのままアシュフォード公爵邸へと向かうこととなったのだった。
◇◇◇
アシュフォード公爵邸での暮らしは、最初の数ヶ月、何の問題もなかった。
少なくとも、クレアにはそう見えていた。
朝の身支度につく侍女は三人。着る物も食べる物も、実家にいた頃より遥かに贅を尽くしていた。
ヴィクターは月に何度か、忙しい合間を縫って夕食の席についてくれた。ある晩などは、庭の温室で咲いた花を一輪、わざわざ食後に持ってきてくれたこともあった。
「気に入ってもらえるといいのだけれど」
そう言って微笑む顔からは、婚約披露の夜に感じたあの引っかかりは、もう見つけられなかった。
休日には、二人で庭を散歩することもあった。この結婚は、悪くないのかもしれない。そう思い始めていた矢先だった。
最初に変わったのは、季節が一つ過ぎた頃だった。
朝の挨拶に来る侍女の数が、いつの間にか一人減っていた。移り住んだ日から世話をしてくれていた、気心の知れた侍女だった。
「人手が足りなくて、別の仕事に回っていただきました」
侍女頭はそう説明した。理由があるならしょうがない、と納得していた。
頼んでおいた肖像画の話も、いつの間にか立ち消えになっていた。
婚約の記念にと、ヴィクター自身が言い出したことだったのに、画家の手配が進んでいるかを尋ねても、はっきりした返事はもらえなかった。
秋の初め、公爵家主催の夜会があった。招待客の名簿を見せてもらえなかったのは、初めてのことだった。
当日、クレアの席はヴィクターの隣ではなく、末席に近い場所に用意されていた。
「今日は来客が多いものだから」
ヴィクターはそう言って、微笑んだ。おかしな話ではない、とクレアは自分に言い聞かせた。
その夜会で、隣の席になった年配の夫人が、クレアの装いを一瞥して、それきり口を開かなかった。
何か話しかけようとするたび、当たり障りのない返事だけが返ってきて、会話はすぐに途切れた。
出会って半年目の記念にと、クレアは自分で刺繍したハンカチを用意していたが、結局その日には渡す機会はなかった。ヴィクターは急な来客の対応で夜遅くまで戻らず、翌朝には別の予定でまた出かけていった。ハンカチは、引き出しの奥にしまわれたままになった。
冬に入ると、実家に送った手紙への返事が、以前より間遠になった。父からの手紙には、近況を尋ねる言葉より先に、アシュフォード家との関係を良好に保つようにという注意が書かれていることが増えた。
夕食の席でヴィクターと交わす言葉が、日に日に短くなっていくことにも、クレアは気づいていた。仕事が忙しいのだろう、そう思うことにした。
廊下ですれ違う使用人たちの会釈が、少しずつ浅くなっていく。
頼んだ繕い物が、後回しにされることが増えた。
花を飾るように頼んでも、いつの間にか忘れられている。
一つ一つは、取り立てて騒ぐほどのことではない。
気のせいだ、とクレアは何度も自分に言い聞かせた。誰も、はっきりと態度を変えたわけではない。ただ、部屋の隅の空気が、前より冷たくなった気がするだけだ。
夜、眠りが浅くなり疲れが取れない日が増えていった。
理由を考えても、これといった答えは出なかった。食事の量も、いつの間にか減っていた。鏡に映る自分の顔から、血色が薄れていくのが分かった。
春が来る頃には、ヴィクターと二人で食事をする回数は、月に一度あるかないかになっていた。
一度だけ、思い切って尋ねたことがあった。
「最近、お忙しいようですね」
「ああ、色々とね」
ヴィクターは目を合わせず、書類に視線を落としたままだった。
「クレアには心配かけたくないんだ。任せておいてくれ」
任せておいてくれ、という言葉が、何を任されているのかも分からないまま、クレアの中に残った。
ある夜、湯あみの支度を頼もうと侍女を呼んだ。
来た侍女は、クレアの顔をまともに見なかった。用件だけを聞き、必要な言葉だけを返し、逃げるように部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、クレアは初めて、はっきりと思った。
何かが、おかしい...と。
◇◇◇
答えの一端を知ったのは、庭の生垣の向こうからだった。
「――だから言ったでしょう、あの方は」
侍女二人の声が、風に乗って届いた。クレアの足が、勝手に止まった。
「夜中にこっそり屋敷を抜け出して、殿方と会っているというお話、聞きました?」
「ええ。他にも噂があるようですけど...っ」
声は、クレアに気づいて途切れた。二人は慌てて頭を下げ、足早に去っていった。
その日から、クレアは注意深く周囲を見るようになった。
市場に買い物に出た侍女が、戻ってくるなり不自然に口をつぐんだこと。
玄関先で応対に出た執事が、来訪者の名を言い淀んだこと。
手紙を運ぶ従僕が、クレア宛の封筒を一瞬だけ躊躇うように見つめたこと。
先月、屋敷を訪ねてきた遠縁の夫人は、挨拶もそこそこに切り上げて帰っていった。あの時は用事があるのだろうと思っていたが、今思えば、クレアと目を合わせようとしなかった。
教会の礼拝でも、以前は挨拶を交わしていた令嬢たちが、目を伏せて通り過ぎるようになった。声をかけようとすると、決まって連れの誰かに袖を引かれ、そのまま離れていった。
何かが、屋敷の外にまで広がっている。
乳母として長く仕えてくれた老女に、思い切って尋ねたこともあった。
「近ごろ、何か聞いていることはある?」
老女は、一瞬だけ目を泳がせた。
「さあ、私は何も。奥様はお気になさらず、いつも通りお過ごしくださいませ」
そう言って、逃げるように下がっていった。何かを知っていて、言えずにいる顔だった。
直接ヴィクターに尋ねたこともあった。
「近ごろ、屋敷の様子が少し変わった気がします」
ヴィクターは、困ったように眉を下げた。
「実は、良くない噂が流れているらしくてね。私も耳にしている」
「噂、ですか」
「出どころを今、調べさせているところなんだ。じきに収まる。クレアは気にしなくていい」
その言い方は、いつも通りに優しかった。優しいはずなのに、聞くたびに胸の奥がざらついた。理由は、うまく言葉にできなかった。
その夜、部屋の窓に小さな音がした。
窓を開けると、ノアがそこに立っていたのだ。
「な――」
声を上げかけて、慌てて呑み込み、周りに聞こえないような声で話し始めた。
「何してるの!? こんなところ見つかったら、大変なことになるのよ」
ノアを見ると、どうもいつもの顔ではなかった。真剣な顔で、クレアをまっすぐに見ている。
「噂、聞いたよ」
「えっ」
「居ても立ってもいられなくて、来たんだ」
「噂って?」
「王都に流れてる。君についてのだ」
クレアは首を傾げた。
「一体なんのことなの?」
ノアはしばらく黙っていた。それから、言葉を選ぶように教えてくれた。
「君が夜中に屋敷を抜け出して、男と会ってるって話になっている。使用人に暴力を振るってるって話も。それと」
「それと?」
「聖女になれなかった腹いせに、聖女様に嫌がらせをしてるって」
クレアは、思わず笑った。笑うしかなかった。
「まさか。そんなこと、一つもしていないわ。屋敷を抜け出したことなんて一度もないし、使用人に手を上げたことだって......」
「......だろうな」
ノアの声は、知っていたかのように冷静に答えた。
「あの噂の出所は、君の婚約者の可能性が高い」
「え」
「噂を最初に広めたのは、アシュフォード家に近い人間だ。それも、一人や二人じゃない」
クレアは、首を横に振った。
「あの方が、そんなことをする理由がないわ。今だって、出どころを調べさせているって、ご本人がおっしゃっていたもの」
「自分で蒔いた噂なんだ。調べるも何もないだろ」
「ノア」
クレアの声が、少し強くなった。
「あの方は優しい人よ。噂のことだって、ちゃんと動いてくださっている。そんな人が、こんなことをするはずがないじゃない」
ノアは何か言いかけて、やめた。その顔に、あの朝と同じ表情がよぎった。悔しさを滲ませた表情で諦めるように息を吐く。
「……そうか」
それだけ言って、ノアは闇の中に消えていった。
クレアは窓を閉め、ベッドに移動し、その日は眠れないまま朝を待った。
◇◇◇
婚約白紙が言い渡されたのは、月に一度の夜会の席だった。
いつもより招待客が多い、とは聞かされていた。クレアは念入りに支度を整え、広間に降りた。シャンデリアの灯りが、いつもより眩しく感じられる。
ヴィクターは、その夜は珍しく終始クレアのそばを離れなかった。手を取って何組かの挨拶を回り、笑顔を絶やさない。
しかし、その夜はより一層どこか作り物めいて見えたことに、クレアは気づかないふりをした。
広間の隅で、ヴィクターの親族らしき数人が、クレアを見ては小声で言葉を交わしていた。何を話しているのかまでは聞き取れなかったが、表情からはいい話ではなさそうだ。
大広間には、王都の主だった貴族がほとんど顔を揃えていた。楽団の音が止み、突然ヴィクターがクレアの手を取って中央に進み出た。これは何か特別な発表なのだと、誰もが察した。
ヴィクターは、招待客に向き直ると、クレアの手を離して言った。
「皆様にお聞きいただきたいことがございます」
声は、驚くほど落ち着いている。
一体何を話すのか。事前にクレアは何も聞かされていなかった。
「大変心苦しいのですが、クレア嬢との婚約を、白紙に戻させていただくこととなりました」
広間がざわめいた。
クレアは耳の奥で何かが強い音を鳴らしていて周囲の声が聞こえない。それが自分の心臓の音だと気づくまで、少し時間がかかった。
「クレア嬢について、良くない噂が絶えないことは、私も存じておりました。出どころを調べさせてもおりました。ですが」
ヴィクターは、そこで言葉を切った。まなざしだけは、変わらず穏やかでいた。
「これほど証言が重なっては、私一人の力でお守りすることは、もう難しいと判断いたしました」
「何を、おっしゃって」
声が、うまく出なかった。
「私は、そんなことは」
「否定はしなくていい」
ヴィクターは、クレアの言葉を遮った。
近くにいた夫人の一人が、進み出た。ヴィクターの叔母にあたる人物だった。
「わたくし、この目で見ましたのよ。真夜中、クレア様が裏門からこっそり出ていかれるところを。お一人ではなかったようですわ」
見たはずのない光景を、夫人はよどみなく語った。当然クレアにそんな記憶は存在していなかった。
続いて、若い伯爵夫人がもう一人進み出た。
「クレア様の下働きの娘が、わたくしのもとへ助けを求めてきましたの。手を上げられていると、震えながら」
伯爵夫人はにらめつけるようにクレアへ視線を送りながら、どれほどの仕打ちをその娘が受けてきたかを説明してみせた。
二人分の証言が重なると、広間の空気は決定的に変わっていた。もはや誰も、事の真偽を確かめようとはせず、クレアを責める目線だけが集まっている。
ヴィクターは、静かに続けた。
「一番心苦しいのは、聖女様への嫌がらせが噂されていることです。聖女に選ばれなかったことで、良く思われていなかったのではないかと」
その一言に、広間の空気がさらに冷えていく。
以前、夜会で言葉を交わしたことのある令嬢と目が合った。助けを求めるようにその顔を見たが、令嬢はすぐに視線を逸らし、扇の陰に顔を隠した。
クレアは、何一つ心当たりがなかった。それでも、声を上げようとするたびに、喉の奥が固く閉じて、言葉にならなかった。膝から下の感覚が、少しずつ遠のいていく。
招待客たちの視線が、憐れみと軽蔑の間で揺れている。
「このことについては、聖女様ご本人からも証言をいただいております。間違いはございません」
そう言ったヴィクターの目が、これまで見たことのない冷たさでクレアを捉えていた。
なぜ聖女が、自分のことなど知っているのか。儀式の時に一度お会いしたことがあっただけ。それ以降に交流などない。
しかし、クレアは考える余裕は、もう残されていなかった。
会場の隅で、両親が呼ばれているのが見えた。
母は膝から崩れるように椅子に座り込む様子と、血の気が引いていく父の顔が見えていた。
◇◇◇
その夜のうちに、クレアはホランド邸に連れ戻された。
馬車に揺られる間、父は一言も口をきかなかった。母は、茫然と生気を感じない顔つきで、馬車の天井を眺めている。
クレアも一体自身に何が起きたのか、未だに把握できずにいた。
父の書斎に呼ばれたのは、日付が変わってすぐだった。
「よくも」
父の声は、低く震えていた。
「よくも、私の顔に泥を塗ってくれたな...」
「お父様、違います!私は何もっ!」
「言い訳はいい!!」
父は、机を強く叩いた。
「アシュフォード家との縁がどれほどの意味を持つか、お前は分かっていなかったのか。この家は、領地一つ持たん文官の家柄なのだぞ。あの縁組だけが、我が家を引き上げる唯一の道だったのだ。それを、お前は!」
父の声は、そこで一度詰まり、少し冷静な口調で俯くように言った。
「公爵家に恥をかかせ、私たちの名声も終わり、というわけだ。宮廷で何を言われるか、想像もつかん」
母は何も言わなかった。ただ床を見つめたまま、震える手で自分の袖を握っていた。一度だけ、クレアと目が合った時、何かを言いかけてすぐにまた固く閉じられた。
「アシュフォード家との縁は、これで終わりだ」
父の声に、娘を心配する様子はもう一切感じられなかった。
「お前の顔など、もう二度と見たくない! 金輪際この屋敷に入ることを禁ずる!」
翌朝、荷物一つを持たされたクレアは、ホランド邸の門から追い出されることとなった。
冬の朝の空気が、頬を痛いほど冷たく感じさせる。
そして、門が背後で重く閉じる音を鳴らした。
行くあての心当たりはどこにもないまま、クレアは家を追い出されることとなってしまったのだった。
◇◇◇
歩き続けて、どれくらい経っただろう。
足の裏の感覚が、いつのまにか鈍くなっていた。
荷物袋の紐が肩に食い込み、その痛みを感じるたびに足が止まる。
行く先などどこにもあらず、頼れる知人も、泊めてくれる親戚も、一人として思い浮かばない。
何度も頭の中で考えを巡らせたが、答えは出ないまま、足だけが前へ前へと進んでいった。
道行く人がこちらをちらりと見ては、すぐに目を逸らしていく。
上等な生地のドレスで荷物袋を持つ女。その組み合わせが、何かを物語っているのだろう。誰も声をかけてはこなかった。
日が高く昇る頃には、王都の外れまで来ていた。人通りはまばらになり、乾いた風が頬を刺す。
このまま、どこまで歩けばいいというのだろうか。
「クレア!」
名前を呼ばれて、足が止まった。
振り返ると、そこにはノアが立っていた。
「―― ノア?」
声が、かすれて出た。
「なんで、ここに?」
「君を捜していたんだ。当てもなく捜すしかなかったから、時間がかかったよ」
ノアは、ずいぶんと息が上がっていた。ずっと走り回っていたのだと、その様子だけで分かるほどに。
クレアは、荷物袋を抱え直した。惨めな格好を見られていることに、今更ながら気づく。
「......見ないで」
「クレア」
「こんな姿、見せたくなかった!」
声が震えた。目の奥が熱くなるのを堪えるために唇を噛む。
ノアは、何も言わずに近づいてくると、荷物袋をそっと取り上げた。
「持つよ」
「――」
「行こう」
「......どこに?」
「決めてない」
ノアは、少しだけ笑った。
「でも、クレアと二人ならどこにでも行けるさ」
クレアは、ノアの顔を見た。かつて木から降りられなくなった自分を、下から笑って見上げていた顔が、今ここに立っているノアと重なる。
「どうして、私なんかを...」
「どうしてだって?」
「私は、もう何もないのよ? 聖女にもなれなかったし、婚約も白紙になった。実家からも追い出されて、何もかも失ったのに...」
「だから来たんだよ。……いや、だから来れたんだと思う」
ノアはそういうと、真剣な顔でこちらを向いた。
「今までなら、俺にはクレアの隣に立つ資格さえなかったんだ。でも、やっと並んで歩ける。クレアには悪いけど、俺にとっては一世一代の大きなチャンスだったんだ。...って喜ぶのはダメだよね。ごめん」
頭をかきながら、俯くようにノアは笑っていた。
喉の奥が、熱くなった。張り詰めていた何かが、音を立てて緩んでいく。
「王都にいたら、いずれ本当に行き場がなくなる。当てはないけど、南の方に小さな村があるらしい。人手を探してるって聞いたから、そこに行かないか?」
そう言って、ノアは手を差し出した。
プライドも体面も、もう何も残っていないはずだった。それでも、その手を取ることに、一瞬だけ躊躇いが残る。惨めな自分を、この人に見られたくない。その気持ちが手を止めた。
けれど、迷っている余裕などもう残っていないのだと、クレアは静かに悟った。
そっと、その手を取る。
指先に触れた体温に、ようやく息ができる気がした。
そして二人は、南へ続く道をゆっくりと歩き出す。
◇◇◇
村に流れ着いて、数えるほどの季節が過ぎていた。
ノアが世話役の老爺に頼み込み、二人は納屋の隅を借りて暮らし始めた。畑仕事も水汲みも、慣れない手つきでどうにかこなせるようになっていた頃、変化が訪れた。
雨が降らなくなったのは、いつからだったか。最初は誰も気にしていなかった。畑の土が乾いた色に変わり、井戸の水位が目に見えて下がっていくのに、村人たちが顔を曇らせ始めたのは、それからひと月ほど経ってからだった。
「今年はどうも、様子がおかしい」
井戸端に集まった女たちが、そんな話をしているのを何度も耳にした。国の東の方でも同じことが起きているらしい、という噂も流れてきた。
夜、隣の畑を持つ老婆の家から、子供の泣き声が聞こえた。熱を出しているらしい。水が足りず、体を拭くことすらままならないのだと、朝になってノアが教えてくれた。
その夜、クレアは眠れなかった。
布団の中で何度も寝返りを打ち、結局、外に出た。
月明かりだけを頼りに、乾いた畑の間を歩いた。ひび割れた土を踏むたびに、乾いた音がする。
井戸のそばに立つと、指先に、あの時と同じ感覚が蘇った。神殿の聖具に触れたときの感覚。
気づけば、目を閉じていた。
教わったわけでもない言葉が、勝手に口からこぼれ出る。
すると指先が、痺れるように熱くなっていくのがわかった。
その瞬間、頭上で何かが弾けるような音がした。
目を開けると、雲一つなかったはずの夜空に、厚い雲が渦を巻いていくのが見える。
次の瞬間、雨が降り出した。最初は小さな粒だったそれは、みるみるうちに勢いを増し、叩きつけるような音を立て始める。
クレアは、その場に立ち尽くした。何が起きたのか、頭がついていかない。
「クレア」
背後から優しい声がした。
振り返ると、ノアが立っていた。
雨に打たれるクレアを見ても、ノアは顔色一つ変えず、ただいつもより静かな声で言った。
「風邪を引く。戻ろう」
それだけ言って、ノアはクレアの肩に自分の上着をかけた。何も聞かず、何も言わず、家の方へと促す。
振り返ると、枯れていた台地に、水溜まりができるほどのうるおい雨が運んできていた。
◇◇◇
翌朝、村は雨の話で持ちきりだった。
「まさに恵みの雨だ」「これで畑が助かる」――そんな言葉があちこちで交わされている。
中には、こんなことを口にする者もいた。
「もしかしたら、聖女様が降らせてくださったのかもしれないねえ」
聖女の力は天候を操るものだと、神殿にいた頃に教わったことがあった。もう何十年もその力を使うほどの災害が王国で起きなかったため、3代以上聖女が変わったが力を使うことはなかったと書物で読んだこともある。
そこで昨夜のことが、脳裏をよぎった。
指先のあの熱さ、頭上で弾けた音、降り出した雨。
まさか、とクレアは思う。
聖女は一人しか存在しない。今頃どこかで、本物の聖女様が国を想い雨を降らせているはずだ。自分は、ただ選ばれなかった候補の一人にすぎない。
今回はきっと偶然だ。そう思うことにした。
けれど、数日後、また雨が降らなくなった。畑の土が再び乾き始めた頃、クレアは夜、再びあの晩と同じように祈りの言葉を口にした。
指先に、また同じ痺れが走る。
すると、村にまた大粒の雨が降り注いでいた。
それから何度か、同じことが続いた。雨が止むたびに、クレアは祈った。そのたびに、決まって雨が降った。
偶然だとは、もう思えなくなっていた。
それでも、聖女が二人存在するなどという話は、聞いたことがなかった。何かの間違いかもしれない。そう考えることにして、クレアはそのことを誰にも話さず、自分の中だけにしまっておくことにした。
数日後、井戸端で洗濯物を干していると、近くで年配の女たちが立ち話をしていた。
「まったく、聖女様のおかげかしらねえ。よその村はどこも干上がっているというのに、うちの村だけこんなに恵まれて」
「本当に、ありがたいことだこと」
その言葉に、クレアの手が止まった。
かつて、聖女に嫌がらせをしたのだと噂を立てられ、屋敷を追われたことが、ふいに脳裏をよぎる。何もしていないのに疑われ、追い出された。
もし、自分がその聖女に嫌がらせをして追い出された女だと村人が知ったら、ここも追い出されるのだろうか。そう考えると、少し手が震える思いだった。
俯いた拍子に、洗濯物を取り落としそうになる。
「クレア?」
隣で薪を割っていたノアが、手を止めてこちらを見ていた。
「なんでもないの」
「そう?」
ノアは、しばらくクレアの顔を見つめていたが、何かに気付いたのか、やがて、いつもの調子で言った。
「まあ、誰が聖女様だろうと、僕にとって聖女はクレアだけだよ」
あまりに無邪気で突然な言い方に、クレアは思わず顔を上げた。
「……何よ、それ」
ノアも、もしかすると気づいているのかもしれない。そう思いつつも笑いがこみ上げてくる。
「ありがとう」
そう言って、クレアは笑った。
◇◇◇
村での暮らしは、静かに続いていた。
畑仕事にも、水汲みにも、すっかり慣れていた。冬を越え、また春が巡ってくる頃には、王都での日々が、遠い夢だったかのように感じられることさえあった。
ある日の夕暮れ、畑仕事を終えたノアが、めずらしく改まった顔で言った。
「これから、少し付き合ってくれないか」
「どこに?」
「いいから」
連れて行かれたのは、村外れの丘だった。ここからは、沈んでいく夕日と、麓に広がる畑がよく見える。
ノアは、しばらく黙って夕日を見ていたが、やがてポケットから、小さな包みを取り出した。
「これ」
差し出された布の包みを開くと、指輪が入っていた。飾り気のない、素朴な作りの指輪だった。
「収穫の手伝いをした駄賃で、村の鍛冶屋に頼んで作ってもらったんだ。上等なものは、買ってやれないけどさ」
ノアの声は、いつになく硬かった。
「クレア」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「ずっと一緒にいたい。結婚してほしい」
夕日を背にしたノアの顔が、赤く染まって見えた。
「君はずっと僕の聖女様だよ」
冗談めかした調子は、どこにもなかった。
クレアは、しばらく言葉を失った。
「やっぱり知ってたのね」
「何を」
「あの雨のこと」
ノアは、少しだけ困ったように笑った。
「あの夜、クレアが外に出ていったのに気付いてさ。しばらく戻ってこなかったから、心配で様子を見に行ったんだ。そしたら――クレアを見つけた時、体から光が天に昇っていくのが見えた」
「なんで、黙ってたの?」
「言ったら、連れていかれるだろ。クレアが」
その一言に、目の奥が熱くなる。
「怖かったんだ。もし誰かに知られたら、また君を奪われるんじゃないかって」
ノアは、そう言って、頭をかいた。
「だから、これからもずっと、俺だけが知ってればいい。誰にも言わなくていい」
指輪を持つノアの手が、少しだけ震えている。
クレアは、その手をそっと包み込んだ。
「うん」
それだけ言うのが、精一杯だった。
指輪が、薬指に通される。ひんやりとした感触のあと、じんわりと温かさが伝わってきた。
「クレアを一生、大事にするよ」
ノアの声が、かすれていた。
クレアは、小さく笑った。
「私も」
それ以上の言葉はいらない。
もうクレアは貴族ではない。だからこそ、それを誰かに証明する必要も、認めてもらう必要も、もうどこにもない。
一人の女性として、ノアと一生を共にすることを誓い合った。
生活は貧しくとも、心は幸せで居られるのだと、この村に来て知った。ここでなら、一生を過ごしてもいいと思えた。
そうして、夕日が畑の向こうにゆっくりと沈んでいくのを、二人肩を寄せ合って眺めていた。
◇◇◇
「一体、どういうことなのだ!」
円卓についた大臣の一人が、苛立ちを隠さずに言った。
王城の一室に集められたのは、聖女選定に関わった神官や貴族たちだった。国中で干ばつが相次いでいるというのに、聖女に助けを求めても、何一つ応えが返ってこない。すでに聖女としての力を、誰もが疑っていた。
「聖具の輝きに、細工があったのではないかという疑いが出たため調べましたところ、確かな不正が発覚しました」
神官の一人が、重い口を開いた。
「現在聖具の補修と、それに伴った再選定について協議がなされています」
「それで、どうするというのか」
「選定に立ち会った候補者を、今一度お呼びして、もう一度儀式を執り行っていただくのが確実かと」
「候補者は、確か残りは4名だったな」
書類がめくられる。
「はい。うち一名は、選定後まもなく他家へ嫁いでおります。もう一名は隣国へ。残りの1名は、いまも社交界に……」
そこで、書類をめくる手が止まった。
「――もう一名、クレア・ホランド嬢の行方が分かりません」
場が、わずかにざわついた。
「行方が分からない、とはどういうことだ?」
「アシュフォード公爵家との婚約が破棄された後、実家からも勘当されたとの記録がございます。それ以来、消息が...」
一同の視線が、末席に座るヴィクターへと向いた。
「アシュフォード公爵家は、彼女の行方について何かご存知では?」
「い、いえ。存じません」
声が、わずかに上ずっていた。
「そういえば、公爵は近ごろ、聖女様とご婚約なさったとか」
別の一人が、思い出したように言った。
その一言に、ヴィクターの顔から、みるみる血の気が引いていった。
「そ、それは、その、私の一存というより、両家の……いえ、聖女様のたっての希望と申しますか」
「聖女様が、望まれたと?」
「あ、いえ! 光栄なことに、と申し上げたく……!」
汗だくになりながら、ヴィクターは必死に言葉を継ぎ足していく。誰も、その説明に納得した顔はしていなかった。
「ともかく、至急儀式の準備を整えよ。候補者には改めて聖具の前に立っていただく。クレア嬢については、改めて協議が必要だが、まずは所在が分かっている聖女候補で確認するほかあるまい」
「はっ……あの、私も、お手伝いを」
「結構です。あなたは、席にお戻りを」
ヴィクターは、崩れるように椅子に座り直した。
その拍子に、机の脚を思い切り蹴飛ばし、書類の山が派手に崩れ落ちた。
「も、申し訳ありません!」
慌てて拾い集めるヴィクターの背中を、大臣は無言で見つめていた。
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