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沈むゼリー

 触りたい。

 君に。

 指先でボディラインをなぞり、体温の輪郭を心に刻みたい。手で触れて、存在を確めたい。

 触れたい。触れて、触れて、触れて、抱きしめたい。

 水色のゼリーの中で溺れるようだ。ゆるゆると、ふるふると。もがく手に、絡みつく。口に、鼻に、耳に。流れ込んで、窒息させようとする。息苦しさは甘い。もがくほどに沈む。溺れる。ゼリーのプールで、太陽の光はどう射し込むのだろう。屈折して真っ直ぐに届かない、弱められた明かりの中で、僕は揺れる。

 触れたい。

 君に。

 溺れる。

 君に。


 僕を絶望させてください、と言ったら笑われた。鼻で。

 なにそれマゾとかそういう趣味の人なの、と。甘い声。彼女の声は鈴のようで、空気を甘く揺らす。

「幻滅させてください、これ以上好きにならなくてすむように」

「ちょっとこの酔っ払い、どうにかして」

 サークルの飲み会はテニスの練習のあとだった。九時に終る通常を一時間切り上げて、女の子達はシャワーを浴びに先に帰った。さっきまでジャージ姿で汗をかいていた彼女達は、石鹸の匂いをさせたぴかぴかの肌で、短いスカートから勿体無くも美しい脚を晒している。だけど彼女はもっと特別。透き通る白い肌の、頬だけほんのりとピンク色をしていて、細い手首に水銀色のリングをいくつかはめていて、それがしゃらりと静かに音を立てる。

 くすくす、と笑うさえずりのようなざわめき。

 七月の梅雨が空け切らない湿気の多い夜に、ジョッキのビールがたくさんと、色とりどりのカクテルとが並ぶ。

「酔うにはまだ早いっしょ、まだジョッキも空いてないのに」

 からかいの声が飛ぶ。いつもの僕なら笑いはじめている。誤魔化すために。だけど生ぬるいこの夜に、僕は彼女を真っ直ぐ見つめることしかできない。女の子が四人と男が五人。彼女に恋人がいることは知っている。七歳年上の大人。会社員で営業マンで、車の関係だという。不況時に大変、だけどこの前誕生石の指輪を買ってもらった。そんな、話を耳にして、そして覚えている。女々しいのかもしれないと、自分に苦笑しながらも。

 僕の戯言はすぐに流されて、みんな来週の試合の話に移る。だけどそれもすぐに消えて、新しく出たゲームの話になって、ついていけない女の子達が文句の声を上げた。そして、生まれ変わったら人間以外のなにになりたいか、なんて話になる。脈絡のなさは酒の偉大な力。

「絶対猫、猫になって一日中ずーっと寝てたい」

「ライオンとかかな、なんか生きてる獲物を食い殺してみるとかってちょっと楽しそうで」

「やだ、肉食過ぎる」

「絶対こいつサディスト」

「気に入った女とか、好きすぎて食べちゃいましたっていうのはこういうタイプなんかね」

「あー、小さく切って冷凍庫で保存してたりしてな」

「でも乳房って脂肪ばっかで美味しくないんだってね。脂身ってことでしょ」

「美味いのってどこ? 尻とか? 太ももとか? 肋骨とかのスペアリブ?」

「基本的によく動くところって美味いらしいよ、頬とか」

 なんて話をしてるの、と女の子の悲鳴に似た非難が飛んで、男達が笑う。食っちゃうぞ、とひとりが低い声で言うと、きゃあきゃあと黄色い笑い声が響いた。

 僕だったら。

 空気になりたい。

 綺麗な空気。

 君に吸い込まれて、君の肺を綺麗に満たしたい。

 だけど言わない。そんなことを言ったら、ただの変態みたいだし、きっと誰にも理解してもらえないだろうから。

 

 もしかしてわたしのこと好き、と彼女が微笑む。疑問系はやわらかい。

 トイレから出たらそこに彼女がいた。ふたりきりになりたくてこっそり続いてトイレに立つというテクニックは古典的に使用されているらしいけれど、この場合の彼女はただ単なる生理現象だろう。

「うん」

「わたし、彼氏いるよ」

「知ってる」

「あなたって、」

 テニスしてるときは結構格好良く見えるのにね、と言われる。褒められているのかけなされているのか分からない。店の奥にあるトイレは間接照明で、男女の最初の扉は一緒だけれどその向こうに分かれて入る扉がまたひとつある。

「彼氏もいる女の、どこが好きなわけ?」

 どこだろう。バンビのようなくりくりした目が僕を見ている。悪戯っぽい光が宿る。後づけの理由なんて捜せばいくらでも出てくるだろうけれど、もう今では分からない。存在が僕の胸いっぱいに膨らんでいる。息苦しくて、溺れそうで。

「……強い女の振りして、本当は傷つきやすいところ?」

「そんなふうに見えてるの?」

「もうよく分からない、好きって気持ちだけがある」

「錯覚かもしれないよ」

「錯覚であって欲しい」

 自己完結の恋になるよ、と彼女が笑う。薄ピンクのハンカチを取り出そうとして、小さなバックから封の切られていない煙草が落ちた。腰をかがめて拾う。渡す。ありがと、とゆるゆる持ち上がる唇を眺めつつ、吸うの、と聞いてみる。

「わたしは、吸わない」

 わたし、は。

 じゃあ恋人の為に持ち歩いているのだろうか。それとも、少しでも恋人と同じものが持ちたくて、そんな可愛らしいことをしているのだろうか。どちらにせよ、胸が痛い。その好意が自分に向けられたものではない、ということではなくて、そんな可愛らしいことを彼女にさせているのが、彼女の恋人の存在だということに。

「今なら気のせいだった、で済むかもしれないから、思い切り幻滅させるようなこと言ってよ」

「気のせいって、わたしを好きって気持ち?」

 頷いたら、いやよ、と言われた。

「いや?」

「せっかく好かれてるのに、どうして嫌いになってもらわないといけないのよ」

「僕が好きっていうのは困らないの?」

「彼氏がいるからあなたとは付き合わないけど。でも好かれてるのって嬉しいこと、だと思う」

 ストーカーとかにならなければ、と笑って、それは図々しいか、と小さくつけたした。

「それに、わたしに幻滅させられるよりわたしに嫌われる方が楽じゃない? 嫌なこといっぱい言ったりしたりすればいいんだし。顔も見たくないって言われるくらいにいろいろするとか」

「嫌われたくはないんだよ、複雑な男心として」

「贅沢だね」

「複雑なだけだよ」

 ふうん、と考えるような顔になったあとで、彼女は僕を見てぱちぱちとまばたきをした。目の下にまつげついてるよ、と言われる。

「え、どこ、」

「取ってあげるから、こっちかがんで」

 僕と彼女では二十センチくらいの身長差がある。素直にかがんで、彼女に顔を近づけた。シャンプーなのか香水なのか、清潔な匂いがする。女の子っていい匂い、と思っていると、取るから目を閉じてよ、と言われた。

 言われた通りにして。

 彼女の鼻って小さくてすんなりとしていて形が好みだ、とまぶたの裏に思い描いていたら。

 唇にやわらかな衝撃があった。

「な……っ、」

 ぶつかったのは彼女の、赤い唇。

「彼氏がいてもこういうことしちゃう女なら、幻滅してもらえる?」

「……できれば不意打ちじゃなくてもう一回ちゃんと、と思ってしまう」

 アルコールの匂いが微かにする。それを打ち消す彼女の匂いがすぐに重なる。

バカじゃないの、と彼女は転がる鈴のような笑い声を上げて、トイレ行くから、とスカートをひるがえし扉の奥にひらりと消えた。

 唇を思わず指で触れて。

 僕はどうしていいのか混乱してフリーズする。


 溺れる。ゼリーのプールは恋心そのもので、ゆるゆると沈む。息苦しくて甘い、もがいても逃げられない、諦めてたゆたっても動けないままで。 

 僕が魚だったら泳げただろうか、するりと身を交わして。

 触りたい、君に。

 触れて確めたい、その存在を。

 指でなぞって、輪郭を刻みたい。

 触りたい。触りたい。触りたい。触りたい。触りたい。

 触れたい。触れたい。触れたい。触れたい。触れたい。

 胸を締め付けられて息苦しい。恋は甘いだけのものだと、キャンディそのものと信じて疑わない子供ではないのだけれど、こんなに苦しいのは辛い。生きているという感じがしすぎてしまう。

 恋をしている。

 君に。

 気がついたら溺れている。

 溺れる前に回避しようと心に決めていても、そんなのは無理な話なのだ。


「……待ってたの?」

 ずっと固まったままでいたので、トイレから出てきた彼女を驚かせてしまった。違う、の意味で首を横に振る。なんだか泣きそうになる。

「……ごめんなさい、わたし酔っ払ってることをいいことに、結構ひどいことしたよね」

「ひどいこと?」

「彼氏と別れる気もないのに、キス、したりしたこと」

 期待させるだけって一番ひどいことだよね、と傷ついた顔をする。ずるい、と思えれば僕は救われるだろうけれど、沈むだけだ。更に。光の射さない深海へ。

 そうだ、僕は生まれ変わるなら深海魚になろう。

 深くへ潜って沈んで、触れたいと願ってしまうための指を持たないように。

 抱きしめたいと望んでしまう腕を持たないように。

「でも幻滅されるのは嫌なんだ、本当に」

「……好かれていたい?」

「女だもん。我儘でごめんね。好きになってくれてありがとう」

 真っ直ぐに君の声が届く、視線が絡む、胸が甘い痛みに浸される。侵食。呻きたくなるくらい、君が好きだと思う。先のないありがとうが、僕を苦笑させる。

 君は、何色のゼリーに溺れているのだろう。

 できればそれだけでも、知りたいと思ってしまう。

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