めぐり逢い
第一章 1993年の夏の日に
およそ三十年前。
私は十二歳の誕生日を、病院の白い天井の下で迎えた。
その日の朝のことを、私はよく覚えている。
夏休みに入ったばかりで、空はどこまでも青かった。
私たちは家族そろって、叔父の見舞いに行く予定だった。車の後部座席で、私は誕生日だからと母が持たせてくれた小さな紙袋を膝に抱えていた。中身は文房具だったと思う。大したものではなかったけれど、「おめでとう」と言われたことが、少し誇らしかった。
「帰り、ケーキ買おうか」
父がそう言って、バックミラー越しに私を見た。
私は「うん」と頷いた。
それが、私の記憶にある最後の穏やかな場面だった。
次の瞬間のことは、断片しか残っていない。
急ブレーキの音。
誰かの叫び声。
身体が宙に浮いたような感覚。
それから先は、真っ暗だ。
私が次に目を覚ました時、世界は別のものになっていた。
天井が近い。
機械の音が規則正しく鳴っている。
口の中が乾いて、身体は鉛のように重かった。
自分の体を見ると、管が何本も繋がれていた。
腕、胸、鼻。
まるで、自分が自分でなくなってしまったような感覚だった。
後で聞いた話では、私は救急搬送された時、いちばん容体が悪く、しばらく意識が戻らなかったらしい。
その間、私は叫び、暴れ、わけの分からない言葉を口にしていたという。
「かな子すごかったよ」
同室になった女の子――とも子が、後になってそう教えてくれた。
「夜中に急に起き上がろうとして、みんなで止めたんだから」
私は首を振った。
そんな記憶は、どこにもなかった。
気がつけば、私はナースステーションにいちばん近い個室に移されていた。
それは、重症患者が置かれる場所だった。
看護師の足音。
ナースコールの音。
カーテン越しに聞こえる、誰かのうめき声。
私は、生きているのに、どこか現実から切り離されているようだった。
消灯の時間になると、病室は急に広くなった。
灯りが消えるだけで、天井は遠ざかり、壁は曖昧になる。昼間はあれほど近くに感じていたベッドの柵が、暗闇の中では頼りなく、指を掛けても現実に触れている感じがしなかった。
目を閉じるのが、怖かった。
眠ってしまえば、また私がいなくなるかもしれないと思った。
覚えていない時間があった、という事実は、夜になると重くなる。
昼間は看護師の声や物音に紛れて、考えないでいられた。けれど、すべてが静まると、私のいなかった時間だけが、はっきりと姿を現した。
眠っているあいだに、私は私でなくなる。
そういうことが、もう一度起きない保証はどこにもなかった。
目を閉じると、意識が少しずつ沈んでいくのが分かる。
体の輪郭がほどけて、重さだけが残る。その途中で、慌てて目を開ける。天井がまだそこにあることを確かめるまで、息が止まっていることに気づかなかった。
生きているかどうかを、いちいち確認しなければならない夜だった。
ナースステーションから、かすかな話し声が聞こえてきた。笑い声が混じることもあった。
それが少しだけ、腹立たしかった。
私が眠るのを怖がっている間も、夜はいつも通り進んでいる。その当たり前が、ひどく遠く感じた。
眠らなければ、朝は来ない。
そう分かっていても、眠ることで失うものの方が大きい気がした。
私は、目を開けたまま、時間をやり過ごそうとした。
眠らなければ、私でいられる。
起きていれば、私がここにいることを、私自身が見張っていられる。
けれど、体は正直だった。
意識が途切れそうになるたびに、手がぴくりと動く。まるで、体だけが先に諦めようとしているみただった。
眠るということが、こんなにも無防備な行為だとは知らなかった。
翌朝、目を覚ましたとき、私は少しだけがっかりした。
消えていなかったことに、ほっとするより先に、期待を裏切られたような気持ちになった。
今日も私は、ここにいる。
それは安心ではなく、確認に近かった。
生きているということは、目を閉じても戻ってこられることだと、誰かが教えてくれたわけではない。
だから私は、毎晩、確かめるしかなかった。
眠るたびに、私は賭けをしている。
それでも朝は来て、名前を呼ばれると、私は返事をしてしまう。
それが、私に残された、生きている証拠だった。
翌朝、洗面台の前に立つまで、私は自分の顔を意識しないようにしていた。
見なくても、困らなかった。見ない方が、楽だった。
洗面台の上の小さな鏡は、思っていたよりも低い位置にあった。
前に立つと、嫌でも視界に入る。逃げ場はなかった。
そこに映っていたのは、知っているはずの顔だった。
けれど、知っている、という言葉を使うには、少し無理があった。
頬はこけて、目の下に影が落ちている。
肌の色は、夏なのに白すぎた。
どこかの病気の人を、あとから写真で見せられているような気分になった。
これが私なのだ、と頭では分かっている。
それでも、鏡の中のその人と、気持ちがうまく重ならなかった。
私は、少しだけ距離を取るように、鏡から身を引いた。
近づけば近づくほど、他人の顔を覗き込んでいる気がしたからだ。
視線を落とすと、洗面台の縁に自分の手が置かれている。
筋力も落ち、腕は細くなり、骨ばって見えた。
覚えていない自分の行動を、想像するのは、あまりにも疲れる。
鏡の中の私は、何も言わなかった。
問いかけても、答えてくれそうになかった。
代わりに、私は小さく息を吐いた。
吐いた息が、鏡を一瞬だけ曇らせる。
それを見て、ようやく安心した。
曇る。
消えない。
それだけで、今日は十分だった。
顔を洗い終えると、もう一度だけ鏡を見た。
さっきよりも、ほんの少しだけ、輪郭が自分に近づいた気がした。
他人でもいい。
知らない顔でもいい。
ただ、この顔が、今日一日を生きていくのだと分かれば、それでよかった。
私は、鏡から目をそらして、病室に戻った。
戻る先がある、という事実を、確かめた。
病室に戻ると、カーテン越しに、ナースステーションの気配が伝わってきた。
人の声、足音、機械の電子音。それぞれは小さいのに、重なり合うと、はっきりと「ここが動いている場所」だと分かる音になる。
昼間の音は、どこか軽かった。
忙しそうで、規則正しくて、私の状態とは関係なく続いている。
私はベッドに横になり、耳だけをその音に預けた。
目を閉じても、音が途切れない限り、ここにいていい気がした。
誰かの名前が呼ばれる。
それが自分でなくても、胸が少しだけ反応する。
呼ばれた名前は、すぐに返事をして、足音と一緒に遠ざかっていった。
名前は、人を動かすのだと思った。
私は、呼ばれなかった。
それでよかった。
呼ばれないあいだは、ここにいていい。
まだ、何かを決めなくていい。
電子音が、一定の間隔で鳴っている。
正確で、感情がない。その冷たさが、今はありがたかった。
私が眠っても、眠らなくても、音は続く。
私が覚えていなかった時間にも、きっと同じように鳴っていたのだろう。
そう思うと、少しだけ、体の力が抜けた。
私は、生きている証拠を外に向けることにした。
とも子と出会ったのは、私が一般病棟に移った頃だった。
同い年。
少し丸い頬。
いつもベッドの上で、膝を抱えるようにして座っていた。
とも子は元の生活に戻るのを楽しみにしていた。
「早く外の生活に戻りたいよね」
「戻ったら何したい?」
「……まだ、よく分からない」
私の声は、思ったよりも小さかった。
それでも、空気ははっきり変わった。
とも子は、一瞬だけ黙った。
それから、慌てたように言った。
「そっか。まあ、考えすぎてもしょうがないよね」
その言葉は、優しかった。
優しいからこそ、逃げ場がなかった。とも子の言葉は、私の背中を押すつもりで出てきたのだろう。
でも、その手は、私には少し強すぎた。
元の生活。
そんなものが、ちゃんと残っているのかどうか、分からない。
私は、自分のベッドの天井を見上げた。
白くて、何も書いていない天井。
そこに戻る場所の地図が描かれているとは、どうしても思えなかった。
とも子のベッドと自分のベッドを、意識的に見比べたこともない。
それでも、気づくと、視線は向こうへ流れていた。
とも子は、点滴の本数が減っていった。
一本減るたびに、動ける範囲が広がっていく。
ベッドの横に置いたスリッパに、自分で足を通せるようになり、洗面所へ行く回数も増えた。
私は、まだ、管に囲まれていた。
どれか一つが外れるたびに、また別のものが増える。
減っていくとも子と、入れ替わるように、私は留め置かれている気がした。
医師の態度も、違って見えた。
とも子には、説明が多く、声も明るい。
私には、短い言葉と、確認だけが残る。
それが本当に違いなのか、私の受け取り方の問題なのかは、分からない。
分からないけれど、胸の奥に、ざらついたものが残った。
比べられているわけではないのに、比べてしまう。
夜になると、その差は、さらに広がる。
とも子は、眠れる。
消灯後も、わりとすぐに寝息が聞こえてきた。
私は、目を閉じたまま、眠れない時間を数えていた。
呼吸の回数、機械の音、カーテンの揺れ。
眠れないことまで、負けている気がした。
朝になると、とも子は「昨日はよく寝た」と言った。
私は、「そうなんだ」と返した。
それだけで、十分だと思った。
それ以上話せば、きっと、自分が小さくなる。
比べることは、誰かを下げることじゃない。
そう分かっていても、比べることで、自分の位置がはっきりしてしまうのが、怖かった。
同じ病室にいても、
同じところに向かっているとは限らない。
それを認めるのに、私は時間がかかった。
手術は成功した。
何度かの手術のあと、医師から「後遺症はほぼ残らないでしょう」と告げられた時、両親は泣いていた。
私は、なぜ泣いているのか分からず、ただ天井を見ていた。
——生きている。
それだけの事実が、まだ胸に落ちてこなかった。
「足が、痛い」
とも子は度々そう訴えていた。
それが、彼女の両親は、「成長痛だ」とずっと思っていた。
だから、彼女が骨肉腫だと知らされた日のことは、今でも胸に残っている。
病室の空気が、急に重くなった。
それから、とも子は薬の副作用に苦しむようになった。
吐き気。
脱毛。
眠れない夜。
カーテンの隙間から、とも子の母親が、何度も何度も娘の背中をさすっている姿が見えた。
それでも、とも子は元気な時は笑った。
「ねぇ、昨日のドラマ見た?」
「この曲、今流行ってるんだよ」
私たちは、同じ年の女の子だった。
とも子が読んでいた雑誌を私も読み始めたり、ミサンガを一緒に作ったりもした。
病気の話はしなかった。
それが、私たちなりの友情だった。
その年の夏、とも子は私に手紙をくれた。
白い封筒に、ぎこちない字でこう書いてあった。
「Dear かな子 誕生日おめでとう」
そして最後に、
「From 戦友より」
戦友。
十二歳の私には、少し大げさな言葉だった。
でも今なら分かる。
あの病室は、戦場だったのだ。
ある日、とも子がぽつりと言った。
「ねぇ、私、足、切断するかもしれないんだって」
その声はどこか悲しげだったが、現実を、まっすぐ受け入れようとしているように感じた。
かな子の退院の話は、思っていたよりも軽く出た。
医師は、カルテを見ながら、「順調ですね」と言った。
順調、という言葉が、少し遠くで響いた。
母はうれしそうにうなずき、父は予定を確認し始めた。
話はもう、病室の外へ向かっていた。
動くけれど、まだ、慣れていない。
ナースコールが、手の届かない位置に移されていることに気づいた。
呼ばなくてもいい、という合図のようだった。
ここでは、もう守られすぎているのだと、分かった。
そして、守られていることが、終わろうとしている。
私は、奇跡のように退院の日を迎えた。
幸い何も後遺症は残らなかった。
普通に歩けて、普通に笑えて、普通に生きられた。
病院を出る日、とも子はベッドの上から手を振った。
「元気でね」
私は、強く頷いた。
それが、最後だった。
私が退院した後、とも子は由美という年下の子と出会い、励まし合いながら、生きる道を選んだと聞いた。
私は、生き残った。
とも子は、病と闘った。
この違いが、後になって、私の人生に長い影を落とすことになる。
でも、あの時の私は、まだ知らなかった。
「生き延びたこと」が、時に人を苦しめるということを。
第二章 出会い
つむぎは考えあぐねていた。これで最後にしよう。松本先生に宛てる手紙はこれが最初で最後だ。
「どうしよう」そう思うと、書きたいことは山ほどあるのだか、筆が進まない。
つむぎは高校生の時、摂食障害を罹患した。高校は受験で勝ち取った屈指の進学校に通っていたが、終始食べ物のことが気になるようになり、結局3ヶ月ほとで辞めざる終えなくなっていた。終わった。私の人生お先真っ暗だ。つむぎは絶望のどん底へ突き落とされた気分だった。それからつむぎは自室へと引きこもるようになった。
松本先生と初めて会ったとき下を向いて、「こんな悩みに一生苛まれるくらいなら本当に死んだ方がましだ」つむぎは吐き捨てるように、松本に言い放った。
松本は次の瞬間、真面目な顔をして「きっとつむぎさんは他の人より繊細で他の人が達成できないほど真面目でやり遂げる力があるんだね。その力がつむぎさんを苦しめているのだと思うよ。果たして拒食をしている時だけが、君を救ってくれるのかな」
それが最初の診察だった。
つむぎは、松本との診察に内心ドキリとしたが、診察の時間は次第に楽しみへと変わっていった。
むしろ、自分の中のどう扱っていいか分からない喜怒哀楽の感情をぶつけても、松本は持って生まれたセンスと経験で柔らかく受け止めてくれたからだ。
松本との診察は決して魔法のように病気を治してくれるものではなかった。体重が、少し増えると怖くなってまた、食べる量を減らしてしまう。つむぎがそんな自分に嫌気がさし、診察室で泣いてしまうこともあった。それでも松本は「回復はまっすぐな道ではなく、坂道を上ったり、下りたりするものだから」と穏やかに言った。その言葉を聞いてつむぎは少しずつ、自分を責めるのをやめていった。
つむぎは一生普通に食べられることなんてない!そう思っていた。つむぎの中で決定的に何か変わったのかは分からない。確かなのは松本と共に悩んだ「時間」が流れたことだ。つむぎは大学入学検定試験に見事合格し、この春から大学生となっていた。病気のほうは少しずつではあるが、よくなっていた。
松本はつむぎが大学進学するとの話を聞いて、「今までがんばったね。君はここに来た時よりも、言葉で表現する力を手に入れた。これからも葛藤するとは思う。でも今の君ならきっと大丈夫だ」と満面の笑みで、精神科からの卒業を提案した。
松本はこの意見を後世になって反省したが、この時代の方針としては普通の生活に患者を戻していくことがいちばん大切だと考えられていたと松本は思ったからだ。
つむぎは改めて手紙と向きあい、ゆっくりとペンを走らせ最後に、「先生のお陰で、自分の思っていることは態度ではなく、言葉にしないと人には伝わらないということを学びました。私は今「幸せ」です。大学に入って、文学を勉強したい!という昔からの夢も叶い、遅ればせながら学ぶ喜びを感じています。もちろん、本を読むのも好きですが、いつか自分でも本を書いてみたい!最近はそんな夢もできました。最後に先生、生きてさえいれば何とかなるのです。私もようやく生きていてよかったと思えるようになりました。だから、松本先生も多くの人に、「だから生きて!」と伝えていってください。私も伝えていきます」
つむぎの書いた力強い秋の便りは、松本のもとへ今を悩める人のもとへ届いていく。松本はつむぎからの手紙を何度も何度も読み返していた。穏やかな秋晴れの日。みなの心がこの空のようであれば、この世に精神科医は要らないなぁ。きついことも多いが、松本はこの仕事の醍醐味を感じていた。
第三章 めぐり逢い
美邦は、その日もかな子と2週間に1度のカウンセリングを行っていた。カウンセリングといっても、かな子の場合過去の傷を癒すというよりは、これから先、生きる術を身に着けていく訓練に重きをおいていた。つまり家事全般を身に着けるといったものである。かな子は過去に精神病院入院した時に、初めて行うことに怖気ついてしまう性分のために、洗濯機が、まわせずに、今でもトラウマになっているという問題を抱えていた。どうすれば美邦は、かな子の苦手意識を軽いものに変えることができるのかいつも考えていた。
なるほど。些細なことかもしれないが、やはりかな子の抱える生きづらさは美邦にもとても分かる。
かな子はそんな自分の生きにくさをこれまでは、行動で示してきた女性である。その手段としては若い女性の間でもみられる、薬を大量服薬してしまうオーバードーズ、手首などを刃物で切りつけるリストカットといった衝動的で激しい行為である。行動こそ激しいものの、かな子はとても、繊細だと未邦は感じていた。美邦はまだ20代前半の新米カウンセラーである。はじめこそ経験が浅い自分でも、かな子の心の闇に入り込み、楽になれる方法を共にみつけることができるだろうかという、不安な気持ちでいっぱいだった。でも、かな子は最近では「言葉」で自分の気持ち表現することも多々みられるようになってきていた。思いを言語化するのはまだまだかな子にとっては至難の業であるが、いい兆候だ。足かけ4年、美邦とかな子は2人3脚で長い道のりを歩いてきていた。そうこうするうちに、信頼にも値するような関係にもなっていったことは過言でもない。
かな子は美邦よりひと回り年上のはずであるが、美邦のいい所は年下だと謙遜するわけでもなく「対等」に向き合うことだった。もちろん、その反対もありけりで、かな子は美邦を新米扱いはしなかった。2人の目線はいつも「対等」であった。
美邦は、カウンセリングルームの時計を一度だけ見て、すぐに視線を戻した。
残り、五分。
この五分が、時にひどく短く、時に永遠のように長く感じられることを、彼女はこの仕事に就いてから知った。
向かいの椅子には、かな子が座っている。
背筋を伸ばし、両手をきちんと膝の上に揃えているその姿は、一見とても落ち着いて見える。だが、美邦には分かる。
——今、かな子は必死に“何もしない”ことをしている。
「今日は、洗濯の話をしようと思ってたんですけど……」
美邦がそう切り出すと、かな子の指先が、ほんのわずかに強ばった。
やっぱり。
心の中で、美邦は小さく息を吸う。
洗濯機。
それはかな子にとって、単なる家電ではない。
“失敗した過去”と、“一人で生きることへの恐怖”が、絡み合って象徴化されたものだ。
「無理なら、やめましょう」
そう言いかけて、美邦は言葉を飲み込んだ。
それは優しさではない。
逃げだ。
——私は、どこまで踏み込んでいいんだろう。
美邦は、まだ二十代前半だった。
教科書は読んだ。
研修も受けた。
「トラウマ反応」——言葉ならいくらでも知っている。
でも、目の前にいる“かな子”は、どのページにも完全には収まらない。
「……洗濯機、回せなくても、生きてはいけますよね」
ぽつりと、かな子が言った。
その声は、怒りでも諦めでもなく、
試すような音をしていた。
美邦の胸が、きゅっと締めつけられる。
「生きてはいけます」
即答したあと、美邦は続けた。
「でも……回せたら、ちょっとだけ、世界が楽になるかもしれない」
かな子は、美邦を見た。
まっすぐで、探るような目だった。
「美邦さんは、怖いことないんですか?」
不意打ちの質問だった。
美邦は一瞬、言葉に詰まった。
——怖いことだらけだ。
失敗すること。
かな子を傷つけること。
この仕事に向いていないと気づいてしまうこと。
「ありますよ」
正直に、そう答えた。
「毎回、ここに来る前、ちょっと怖いです」
かな子の目が、ほんの少し見開かれた。
「……カウンセラーなのに?」
「だから、かもしれません」
美邦は、微笑んだ。
うまく笑えているかどうかは、分からない。
「でも、かな子さんが“言葉で”話してくれるたびに、あ、ここにいていいんだって思えるんです」
沈黙が落ちた。
それは、重い沈黙ではなかった。
やがて、かな子が言った。
「……洗濯機、今日は触るだけにします」
美邦の胸に、静かな波が立った。
「それで、十分です」
その言葉は、かな子のためであり、同時に自分のためでもあった。
その日の帰り道、美邦は病院の裏口から出た。
春の風が、少し冷たい。
——私は、かな子さんの何になれているんだろう。
答えは出ない。
でも、出なくていい気もしていた。
病院から告げられた「来年度の人員調整」の話が、頭をよぎる。
この場所に、ずっとはいられないかもしれない。
それでも。
——名前のないこの時間が、無駄じゃなかったって、いつか思えるだろうか。
美邦は、空を見上げた。
雲の切れ間から、淡い光が差している。
誰かの人生を“救う”なんて、大それたことはできない。
でも、隣に座ることなら、できるかもしれない。
そう思いながら、美邦は歩き出した。カウンセリング後、
美邦はカルテを書きながら、ペンを止めた。
〈洗濯機に触れる〉
それだけを、記録する。
成果としては、あまりに小さい。
評価にも、報告にも、向かない。
——でも。
「これでいいんですよね……」
思わず、独り言がこぼれる。
その時、ノックの音がした。
「美邦さん、今いい?」
入ってきたのは、篤史だった。
美邦は、篤史にかな子の今日あったことを相談した。「……今日は、洗濯機に触るところまでです」
篤史は、一瞬だけ黙った。
否定される、と思った。
「そうか」「そうか」
それだけだった。
「それで?」
「……それで、十分だと思いました」
美邦の声は、わずかに震えていた。篤史は、椅子に腰を下ろし、ため息をついた。
「正解かどうかは、分からないな」
胸が、きゅっとなる。
「でも」
篤史は、続けた。「かな子さんが“逃げなかった”なら、それは前進だ」
美邦は、初めて少しだけ、肩の力が抜けた。
篤史は、ふと窓の外を見た。
——昔の自分なら、
「もっと踏み込め」と言っていただろう。でも、それで壊れた人も、
救えなかった人も見てきた。
さて、ここからは精神科医篤史とかな子の妹のつむぎの話である。つむぎと篤史の付き合いはかれこれ8年くらいであろうか。
はじめこそ、篤史とつむぎの診察は嵐のように、激しいものであったが、ここ最近は、平穏そのものだった。それは美邦とかな子のカウンセリングにも言えることであった。
少なくとも、しばらくはこのままの関係が続くと思っていた。しかし、篤史と、上に立つものとの病院の経営方針の違いが、除々に篤史を苦しませていた。元から細かったが、この頃は更にやつれていった。
篤史が初めて松本教授と会ったのは、講義室ではなく、診察室だった。
白衣の裾が、少しだけ床に触れている。
歩き方はゆっくりで、急がない。
「……今日は、どうだった?」
松本は、カルテより先に、患者の顔を見た。
篤史は、息を詰めてそのやりとりを見ていた。
質問は、特別なことではない。
技法でも、理論でもない。
なのに、患者の肩が、ほんのわずかに下がった。
——今のは、何だ。
診察が終わったあと、篤史は思い切って声をかけた。
「教授、今の……」
言いかけて、言葉が止まる。
何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
松本は振り返り、少し考えてから言った。
「“治そう”としなかっただけだよ」
篤史は戸惑った。
「でも……精神科医は、治す仕事では」
「治すのは、時間と本人だ」
松本は、篤史を見た。
まっすぐで、逃げない目だった。
「我々はね、
“壊れない場所”を用意するだけ」
その言葉は、
篤史の中に、ゆっくり沈んでいった。
それから何度か、同じ現場に立った。
篤史は、質問を飲み込む癖があった。
松本は、それに気づいていた。
ある日、診察後に、松本が言った。
「君は、患者より先に、自分を黙らせるね」
胸が、ひくりと鳴った。
「……いけませんか」
「いいや」
松本は、少しだけ笑った。
「ただ、その癖は、
いずれ君を孤独にする」
その言葉に、篤史は返せなかった。
——この人は、
——どうして、こんなことが分かるんだ。
松本は、答えを与えなかった。
教えもしなかった。
数年後。
篤史が疲弊し、痩せていった頃。
久しぶりに会った松本は、
篤史の顔を一目見て、言った。
「……まだ、全部一人で背負ってるか」
それは、責めでも、同情でもなかった。
「教授は……」
篤史は、初めて弱音を吐きそうになり、
でも、飲み込んだ。
松本は、それ以上聞かなかった。
代わりに、こう言った。
「君は、いい医者になる」
断定だった。
「ただし」
松本は、歩き出しながら続けた。
「続けたいなら、
逃げ方も覚えなさい」
篤史は、その背中を見送った。
その日、
“教えを請えなかったこと”を、
一生悔やむことになると、まだ知らなかった。
「そういえば、つむぎさんは松本先生のことをご存じなのですね。松本先生は診察の時、どんなことを言っていましたか?」篤史は目を輝かせながら、つむぎに喰らい付くように、聞いてくることも多々あった。「私、松本先生に手紙書いたことあるよ」つむぎが、そういったことがある。「忙しい中、返事まで書いてくれたよ。ところで篤史先生は、昔診ていた患者さんから手紙を゙もらうと嬉しいと感じる方?」
つむぎは、篤史を試すような眼差しでみている。
「もちろん、診ていた患者さんが、元気でがんばっていることを知れるのは、僕も嬉しいよ」
「じゃあ、私が結婚する時になったら、もしくは、万が一夢が叶って、作家になれたら、報告の意味で篤史先生にもファンレター書こうかな」
つむぎがいたずらっぽく笑った。篤史も、未来を語るつむぎの姿を見て、嬉しくて泣きそうになった。
「今のうちだよ。私のサイン貰っとく?」
「つむぎさんの夢が叶った時に、是非報告待っています」
つむぎは、篤史らしい答えだなぁと思い再び笑った。
松本先生のような、当事者を子どもの頃から切れ目なく支援し、そこに行くと温かい気持ちになれる「ひだまり」のようなクリニックを、開業したい!篤史はいつの頃か強くそう思うようになっていた。
一方美邦も、かな子とはもっとカウンセリングを続けていきたいと思っていた。美邦は、かな子には内情を話さずに黙って別れるつもりであった。しかし、このまま、何も話さずにかな子とさよならするのは、いかがなものであろうか。と美邦も考えた。そして、美邦は思いきってかな子に話をすることに決めた。「実は病院の方針で、かな子さんとはカウンセリングをもっと続けたかったのですが、春からは違う所で勤務することになりました」
かな子は美邦の告白にはじめこそ驚いたものの、何か納得するように、美邦の話を最後まで聞いていた。「今までどうもありがとうございました」
かな子はかしこまってそう言うと、カウンセリングルームの小窓に打ちつける春風の音を聞いていた。春風が美邦、かな子、篤史、つむぎの新たなる船出の合図のように感じた。
きっと篤史は篤史のやりたかった「患者さんと向き合う」という真摯な姿勢で、患者を診察していくであろう。美邦も場数をこなして、大勢の人の前で話すことの苦手はあったとしても、1対1で話したり、話に耳を傾けたりすることが好きな立派なカウンセラーと更に成長するであろう。
かな子もつむぎも新たな伴走者を探して、この春から再び歩いていくことになる。
「君たちの船出が、前途多難でありますように。前途多難であるほど、人生の実りは大きい」
松本教授が、かつての卒業生に贈った言葉である。
篤史は、吹き荒れる春の嵐に、向かうようにまっすぐ歩き出していた。
それからしばらくして、篤史は、「ひだまり」を開業した。
―それぞれの医師がその強みを生かしながら、未就学から高齢者まで幅広く診療を行っていきたいと思います。地域の方々、ご家族、親子、パートナー同士、そして個人個人が、互いの関係性や役割の中で時を刻み、新たな春を迎えていることと思います。クリニックは皆様のこうした歩みに寄り添い、一緒に課題を解決していくことで、共により良い方向に歩んでいきたいと思っています。今後も初心を忘れず、真摯な気持ちで皆様の思いを受け取り、地域の皆様のお役に立てるようにスタッフ一同力を合わせていきたいと思っています。また、ひだまりを開設するにあたって、児童思春期分野では、日本で有数の実績を有するT大学精神科学教室の松本教授にご相談に伺いました。快く受け入れてくださり、必要な構造や機能、心構えについて丁寧にご教授いただき、暖かく応援していただきました―
ホームページには篤史らしく、温かい言葉でそう綴られていた。
第四章 回想
今までを振り返ってみると、色んなことがあった。不慮の事故に遭っておよそ30年が経つ。私は夏の夜空を見上げてこう思った。「ねぇとも子。医学は日々進歩しているね。昔治せなかった病気も、劇的に治る薬はなくとも、昔よりよくなっているね。とも子が今の時代に生まれてきていたら、どんなにいいことか…」あの時、事故に遭い奇跡的に一命を取り留めた私。病という残酷な運命を突き付けられたとも子。この時ほど神様の存在を否定した時はない。
「おい!かな子。思い出に更けるのもいい加減にしろ」旦那のでかい声が現実へと引き戻そうとする。
「かな子!そろそろみなとが塾から帰ってくるぞ」
「あっ!もうそんな時間」
時計は間もなく夜の8時半を指し示すところだ。
私は、慌ててキッチンへと向った。今では「戦友」というか、「伴走者」というべきか、温かく頼もしい「家族」もできた。
紹介が遅くなったが最後に私の家族を紹介しようと思う。
第五章 一期一会
直樹、つまり私の旦那と私は幼なじみだった。直樹の方が3歳年上だった。近しい存在ではあったが、まさかこの人と結婚するとは思ってもみなかった存在だ。あの日、私はかつての病院の近くにある書店で、新刊の心理学の棚を眺めていた。
「……かな子?」
懐かしい声に振り返ると、そこに直樹がいた。大地のような安定感を湛えた大人の顔だった。
「覚えてるか?小学校の頃、毎日一緒に帰ってたろ?」
言われてみれば、あの頃の放課後の夕暮れが、一気に蘇ってきた。私は事故に遭う少し前まで、直樹と毎日のように川沿いの道を歩いて帰っていたのだ。
「元気だった?」と聞く私に、「まぁな。だけど、君のほうがずっと大変だったろ」と直樹は言った。
その言葉に、不思議と涙がこみ上げてきた。
誰にも言えなかった“事故の記憶”を、直樹だけはまるごと受け止めてくれるような気がした。
それから、私たちは月に一度会って食事をするようになった。はじめは何を話せばいいのか分からず、料理の味の話や、天気の話ばかりをしていた。
でも直樹は、私が言葉を探して黙ると、決して急かさなかった。
沈黙が流れる。
それを「気まずい」と思わない人が、この世にいることを、私は初めて知った。
最初はぎこちなかった会話も、いつしか心地よい沈黙に変わっていった。
直樹はいつも、私が言葉を選んでいる静かに待ってくれた。
「焦らなくていい。かな子の言葉は、いつもちゃんと届くから」
その優しさに、私は少しずつ自分の声を取り戻していった。告白は、直樹の方からだった。「俺と、付き合ってください」
直樹は、逃げ道を残さない言い方をした。
でも、押しつけがましくはなかった。新たな船出をした、美邦と別れた春の年のことだった。「こんな私のどこがいいの?」私は少し怒ったように直樹に問いただしたが、「かな子の誠実さ。真面目さ」そして、「不安定なところ」「少し抜けているところ」そして「どんな困難にも負けなかったところ」と。いっぱい教えてくれた。すぐに、答えは出せなかった。直樹は、「待っている」とだけ言ってその場から離れていた。
いざ交際を始めてみると、直樹は私の持ち合わせていない能力や、考え方を持っている男性だと尊敬の念を抱くことも多かった。私が、悩みの渦にのみ込まれている時は、共に悩むのではなく、「はい!考えるの、やめた!」と言い切り、少し不安を言い出すと、「大丈夫だよ」と言い切る。直樹が口にする言葉は、上から目線である所も間々あるが、いい意味で「安定感があって頼れる」のだ。
もちろん、直樹のことを愛していたが、「結婚」は大きな壁でもあった。お互いの両親が反対するとかいうものではなく、自分の障がいのことや、歳のことを考えるとあまり前向きにはなれなかった。「いいじゃないか。落ち込んだら、俺が引っ張る。引っ張れない時は、隣に座ってればいい」
その言葉に、初めて“結婚”という言葉が、現実として私の胸に浮かんだ。
しかし、心のどこかに「私は幸せになってはいけない」という罪悪感が根を張っていた。
私は、人生経験では、先輩のつむぎへと心の内を意を決して、話そうと思った。つむぎは、大学の時に付き合っていた男性と、幸せな家庭を築いていた。つむぎのお腹の中には、赤ちゃんもいた。
「不安じゃなかったの?」紅茶を淹れたティーポットをティーカップに注ぎながら、私は開口いちばんそう口にしていた。
「不安だったよ。でも、この人と一緒に人生を歩んでいきたい!その気持ちが勝ってさ。今もはっきりいって、不安だよ。でも、見てみたい。この目で、新しい未来をね。そうこの子にも、見せてあげたい。希望をね」そう言って、大きくなったお腹を優しく撫でた。
私は、丁度よい熱さの紅茶を飲みながら、つむぎの言葉を反芻していた。「この人と一緒に人生を歩んでいきたい」私の中で、その思いが大きくなっていくのを感じていた。
直樹は、告白の夜も、まっすぐな目で私を見ていた。
「俺は、君が好きだ。どんな過去も含めて全部」
それは、安っぽいロマンチックさとは違う、誠実な温度を持った言葉だった。
だが私はすぐに頷けなかった。私は普通の人みたいに強くない。いつまた落ち込むか、自分でも分からないの」
とも子のこと、病院で出会った人たちのこと。
私だけが元気で生きている――その事実が、ずっと私を苦しめていた。
そんな時、直樹が言った。
「生きてることを、罰みたいに思うな。とも子さんは、きっと“かな子が生きている”ことで救われてる」
あの夜、涙が止まらなかった。
直樹は私の肩を抱き寄せながら、何も言った。
第六章 揺れる航路
直樹と暮らし始めて、最初の冬だった。
洗濯物を干そうとして、私は手を止めた。
ベランダの向こうに、白い息がふわりと浮かんでいる。
身体が固まった。
でも、「大丈夫」と言えるほどでもない。
「かな子?」
背後から、直樹の声がした。
「……ごめん。今、無理」
私は、理由を説明しなかった。
説明しようとすると、言葉が散らばってしまうから。
直樹は一瞬黙り、それから言った。
「じゃあ、今日は俺がやる」
その言い方は、優しかった。
でも、その優しさが、私を追い詰めた。
——私は、また“やってもらう側”だ。
夜、布団に入ってからも、眠れなかった。
直樹の寝息が、やけに規則正しく聞こえる。
「……ねぇ」
声をかけると、直樹はすぐ目を開けた。
「俺さ」
直樹は天井を見たまま、言った。
「かな子を助けたいって思ってるわけじゃない」
胸が、少しざわついた。
「一緒に生きたいだけなんだ」
それでも、私は黙ったままだった。
「でもさ」
直樹は、続けた。
「俺、たまに怖くなる」
意外だった。
直樹が“怖い”と言うのを、初めて聞いた。
「俺が先に倒れたらどうなるんだろう、とか
俺が支えられなくなったら、かな子はどうなるんだろう、とか」
私は、布団の中で拳を握った。
「……それ、私が一番怖い」
声が、震えた。
「私は、直樹に依存してるんじゃないかって」
直樹は、体をこちらに向けた。
「依存と信頼は、違う」
即答だった。
「でも、境目は分かりにくいよな」
その夜、私たちは初めて、
「何も解決しない会話」をした。
結論は出なかった。
安心もできなかった。
でも、朝になっても、直樹は隣にいた。
それが、答だったのかもしれない。
もうひとつの嵐
結婚を決めた後、
私は、突然、体調を崩した。
眠れない。
食べられない。
理由のない不安。
——幸せになる直前に、壊れる。
それは、私の中に長く住み着いていた“癖”だった。
「病院、行こうか」
直樹の声に、私は首を振った。
「また、迷惑かける」
「迷惑って言うな」
直樹の声が、少し強くなった。
沈黙。
私は、思わず言ってしまった。
「……直樹は、普通の人と結婚したほうがよかった」
空気が、凍った。
直樹は、しばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり言った。
「それ、俺の人生を勝手に決めるな」
その言葉は、鋭かった。
でも、怒りではなかった。
「俺は、かな子を選んだ」
「“楽な人生”じゃなくて、
“一緒に考える人生”を選んだ」
私は、泣いた。
泣きながら、初めて思った。
——私は、守られるだけの存在でいなくていい。
静かな確信
それからの結婚生活は、
決してドラマチックではなかった。
うまくいかない日。
黙り込む日。
何も話さず、同じテレビを見ている夜。
でも、直樹は、
「大丈夫だよ」と言わない日が増えた。
代わりに、こう言うようになった。
「今日は、どうだった?」
それだけで、私は十分だった。
救われなくてもいい。
正解を出さなくてもいい。
ただ、
「今日を一緒に引き受けてくれる人」がいる。
それが、私にとっての結婚だった。
第七章 夫婦
その日、珍しい事が起きた。直樹が、会社を休んだのだ。
熱もない。咳もない。
ただ、起き上がらなかった。
「行かないの?」
かな子が聞くと、直樹は天井を見たまま、短く答えた。
「今日は、無理」
その言葉に、かな子の胸がざわついた。
それは、かつて自分が何度も使った言葉だったから。
昼過ぎ、かな子は黙って味噌汁を温めた。
声はかけなかった。
理由も聞かなかった。
——聞かれるのが、一番しんどい日がある。
それを、かな子は知っていた。
夕方になっても、直樹はソファから動かなかった。
スマートフォンの画面は暗いまま。
「……俺さ」
突然、直樹が言った。
「全部、間違ってたのかもしれない」
かな子は、手を止めた。
「部下も、上司も、家族も、
ちゃんと守れてると思ってた」
声が、少しかすれていた。
「でも、誰かが倒れたとき、
俺、何もできなかった」
かな子は、ゆっくりソファに腰を下ろした。
直樹の隣。
触れない距離。
「それで?」
促すように言うと、直樹は少し驚いた顔をした。
「……それで、怖くなった」
直樹は、初めてこちらを見た。
「俺が今までやってきた“支える”って、
ただ立ってただけじゃないかって」
かな子は、しばらく黙っていた。
言葉を探していなかった。
ただ、そこにいた。
やがて、静かに口を開いた。
「直樹はね」
直樹の視線が、かな子に戻る。
「私が一番しんどかった頃、
何も“して”くれなかった日があった」
直樹は、眉をひそめた。
「え……?」
「仕事に行って、
ご飯も作らなくて、
『今日は帰り遅い』って言って」
かな子は、少し笑った。
「その日ね、私、生き延びたの」
直樹は、言葉を失った。
「誰かに“正しいこと”を言われたら、
たぶん、潰れてた」
「でも、直樹は、
“私の世界が今日も続く”って示してくれた」
かな子は、直樹の手に、そっと触れた。
「支えるってね、
何かを解決することじゃない」
「倒れても、
世界が終わらないって、
体で教えることだと思う」
直樹の目に、光が滲んだ。
「……俺、救われてたんだな」
小さな声だった。
かな子は、うなずいた。
「今度は、私の番」
「直樹が立てなくても、
私は、今日を続ける」
「それでいい」
直樹は、深く息を吐いた。
肩の力が、少し抜けた。
「ありがとう」
その言葉に、かな子は首を振った。
「お礼はいらない」
「だって、これ」
かな子は、少し照れたように言った。
「夫婦でしょ」
夜、直樹は久しぶりに、ちゃんと眠った。
かな子は、その寝顔を見ながら思った。
——私は、もう守られるだけの人じゃない。
——誰かの夜を、静かに越えさせることができる。
それが、かな子が直樹を救った日だった。
交際期間を経て結婚に至るまでの期間こそ、少し長くかかってしまったが、子を授かるのは、細やかな性格の私にとっては、潔く決断したものだと我ながら感心してしまった。間もなくして長男である「みなと」を授かった。
名前の由来は、たとえ大きな船出をしたとしても、時々止まって皆が集ってエネルギーを補給するような場所、そんな存在になって欲しいという、私の希望からだった。
そんな私と直樹の希望通り、「みなと」は誰に似たのか、人をあまり寄せ付けない私や直樹の遺伝子を継がなかったのか、決して一目置かれるような目立つ存在ではなかったが、人と人との心を繋ぐ優しい子に育っていった。
「ただいま!」投げるようにカバンを置くと、みなとは、キッチンにいる私を気遣った。
「母さん、ぼくも夕飯の手伝いするよ」
そう、みなとは腕まくりして、慣れない手つきで、それでも見よう見まねで料理を手伝っていた。「ねぇ、母さん、命って不思議だね」みなとがふとそう言った。まもなくお兄ちゃんになることを意識しているのだろうか。私は、微笑ましく思った。みなとには、私が30年前に事故に遭ったことや、不安定だった日々のことも、名前の由来となる、あのめぐり逢いのことも、全て話ていた。みなとが、どこまで分かっているのかどこまで伝わっているどうかは、分からない。「僕は篤史先生が、松本先生に憧れる気持ち、分かる。でも、篤史先生には、篤史先生のよさもある」おどけたように、まるで当人たちを知っているかのようにみなとが話す。つむぎが、よく篤史や、松本先生のことを話すので、私まで当人を知ったような気になっていた。
「俺は篤史のような小難しい話をする奴は苦手だな」直樹も、おどけたように話す。「だけれど、愛する妹を救ってくれたことは、一生忘れない。それから、かな子と一緒になって悩んでくれた美邦さんのこともな」
「美邦さんは、陰で旦那さんを支えるようないい奥さんになっていると思う」かな子は、穏やかなで芯の強い美邦のことを思い出していた。「あっでも仕事は続けていると思う」と付け足した。かな子は、美邦が以前から、子どもの心を診れるカウンセラーを目指していることを知っていた。
昔は夢にも思わなかった。この話が笑い話になるなんて。
話が弾んだ食卓に、私は今晩のメインディッシュのハンバーグを運んだ。
「ところで、明日、とも子の命日なの」
「お線香あげにいくか」直樹がすぐにそう言った。
「でも…」私は少し迷っていた。いや、少しどころかかなりだ。手を合わせるのには、時が経ち過ぎてしまったような気さえしていた。
「戦友はいつまでたっても、戦友だ。親友も然り」直樹は、いつになく真面目な顔をして、私を促した。
「そうだね」
私は、強く頷いた。
第七章 とも子の空へ
その日の夕暮れ、みなとがふと空を見上げて言った。
「母さん、あの星の中に“とも子さん”いるんでしょ?」
私は驚いて、「どうしてそう思うの?」と聞いた。
「母さんの話を聞いてたら、そう思った。だって母さんが悲しい時、空見てるから」
胸が熱くなった。
私は黙って頷き、みなとの肩を抱いた。
「そうだね。あの空のどこかで、見守ってくれてると思う」
翌日、直樹とみなとと三人で、とも子の墓前に向かった。
蝉の声が降り注ぎ、どこか懐かしい夏の風が吹いていた。
「Dearかな子――」
あの手紙の文字が、脳裏によみがえった。
“From 戦友より”
その言葉を思い出した時、涙ではなく、微笑みがこぼれた。
「とも子、私、幸せだよ」
声に出してそう言うと、風がひときわ強く吹き、木の葉が優しく揺れた。
きっと、あれはとも子の返事だったのだ。
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第八章 これからの航路
夜、家に帰ると、食卓にはみなとの描いた絵が置いてあった。
三人の家族が海の上で手をつないでいる絵だ。
空には大きく“とも子”と書かれた星が輝いている。
その星の光が、海を照らしていた。
「母さん、これ、夏休みの宿題なんだ。題名は“みんなの航海”」
私は思わず涙ぐんだ。
“航海”――そう、それが私たちの人生だった。
荒波に揉まれ、何度も沈みかけながらも、私たちは進んできた。
途中で出会った人たち、別れた人たち、みんなが一隻の船のように私の中で生きている。
松本先生、美邦、篤史、つむぎ、そしてとも子。
誰一人、欠けても今の私はいなかった。
「ねぇ、直樹。私たちの人生って、どんな航海だったと思う?」
「前途多難だな。でも、悪くない航海だ」
「うん。多難ほど、人生の実りは大きいもんね」
「どこで聞いた言葉だ?」
「松本教授」
「さすが先生だな」
笑い合いながら、私たちは空を見上げた。
一つの流れ星が、夜空を横切った。
その瞬間、私は思った。
――人生とは、誰かと出会い、誰かと別れ、それでもなお、生きていく旅。
たとえ波が荒れても、舵を握る手を離さない限り、航路は続く。
とも子へ。
あの日、私たちを繋いだ「戦友」という言葉は、今も私の胸の中で光っている。
そして、これからは――「家族」という新しい形で、私は再び生きていく。
一期一会。
出会いがあるから、私たちは歩いていける。
別れがあるから、出会いの意味を知る。
ひとつひとつの出会いに感謝して、最大限にもてなしたい。
だから私は今も、あの夏の空に祈る。
「とも子、ありがとう。私は、ちゃんと生きてるよ」
再び、風が頬をなように規則正しく続いている。
かな子は、その音を聞きながら思った。
——人は、何度も生き直す。
病院の白い天井の下で、理由も分からないまま「生かされた」私。
とも子と同じ時間を生き、
同じ未来へは行けなかった私。
生き延びたことは、
長いあいだ、私の胸の奥で冷たい石のように重かった。
でも今、誰かの隣で、今日を終えようとしている。
かな子は、静かに布団を抜け、窓のカーテンを少しだけ開けた。
夜の空気が、かすかに頬に触れる。
遠くで車の音がした。
——世界は、何事もなかったように続いている。
救われたわけじゃない。
すべてを理解したわけでもない。
痛みも、不安も、これからもきっと戻ってくる。
それでも。
「……とも子」
声にはならない名前が、胸の内で揺れた。
返事はない。
けれど、その沈黙は、もう私を突き落とさなかった。
——私は、生きている。
——今日も、生きてしまった。
その事実を、初めて「そのまま」で抱えられる気がした。
朝になれば、
洗濯物を干せる日もあれば、干せない日もある。
コーヒーの香りが部屋に広がる朝も、
黙ったまま時計だけが進む朝もあるだろう。
小さな暮らし。
取り返しのつかない過去。
それでも続いていく、何気ない日々。
——生きるというのは、
意味を証明することじゃない。
ただ、
今日を終わらせ、
明日を迎えてしまうこと。
かな子は布団に戻り、直樹の背中にそっと手を添えた。
そこにある温もりは、確かだった。
「おやすみ」
心の中で、そう言った。
明日も、きっと不完全だ。
でも、不完全なまま、朝は来る。
——それで、いい。
かな子は、静かに目を閉じた。
エピローグ ひだまりの外で
春。
かな子は、某駅前の小さなクリニックの前で立ち止まった。
白い壁に、柔らかな文字でひだまりと書かれている。ただ、しばらくその場に立ち、深く息を吸った。中には入らない。
——世界には、壊れない場所が、確かにある。
それは、建物でも、肩書きでもない。
誰かが誰かの隣に座ろうとする、その意志だ。
かな子は、空を見上げた。
雲の切れ間から、やわらかな光が差している。
かな子は、歩き出した。
今日を引き受けるために。
——生き延びた人生は、誰かの代わりではない。
自分の人生を懸命に生き抜くことである。




