第8話 物理的・経済的制裁
地面が悲鳴を上げていた。
ヴァングリード陛下が右手を軽く振るう。
それだけで、中庭を囲む石壁が飴細工のように凍りつき、砕け散る。
「ひぃっ……!」
兵士たちは剣を取り落とし、腰を抜かしていた。
足元から這い上がる氷が、彼らのブーツを地面に縫い付けている。
殺してはいない。
だが、生殺しだ。
「……化け物め……!」
ジェラルド王子だけが、かろうじて立っていた。
いや、恐怖で腰が固まっているだけかもしれない。
彼の剣先は震え、カチカチと音を立てている。
「化け物、か。よく言われる」
陛下は薄く笑い、氷の床を滑るように歩を進めた。
その優雅さは、ダンスホールのステップのようだ。
「だが、その化け物に喧嘩を売ったのは貴様だ。……覚悟はできているのだろうな?」
陛下が指を鳴らす。
パキンッ!
王子の剣が、刀身から真っ二つに折れた。
物理的接触などない。
極低温による脆性破壊だ。
「あ……あぁ……」
王子が尻餅をつく。
陛下は彼を見下ろしたまま、私の元へ歩み寄った。
「エリゼ。怪我はないか」
「はい、陛下。ですが……」
私はしょんぼりと肩を落とした。
陛下が私の頬に手を添える。
温かい。
その体温に触れた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れた。
「眼鏡を、壊してしまいました。……陛下の御尊顔が、ぼやけてよく見えません」
「……」
陛下は一瞬きょとんとし、それから肩を震わせて笑った。
その笑顔が見えないのが悔しい。
至近距離なのに、私の視力(乱視入り)では推しの表情が高解像度で拝めないのだ。
「そんなことか。……新しいものを買ってやる。国庫からな」
「ありがとうございます。経費申請します」
陛下は私を軽々と抱き上げ、マントで包み込んだ。
そして、氷像のようになっているジェラルド王子に向き直った。
「さて。物理的な精算はこれくらいにしておこう。……死ぬより辛い、現実の話をしようか」
陛下が合図をすると、崩れた壁の向こうから、いつの間にか待機していたハンス商会長が現れた。
彼は瓦礫の山をハンカチで拭いながら、一枚の書類を取り出した。
「ジェラルド殿下。こちらが請求書になります」
「せ、請求書だと……?」
「はい。貴国が当商会より輸入した『雪の精霊の涙』及び関連商品の代金、並びに今回の『帝室専属錬金術師への不当拘束』による違約金です」
ハンス氏が読み上げた金額を聞き、王子が目を白黒させた。
それは王国の国家予算の数年分に相当する数字だった。
「ふ、ふざけるな! そんな金、払えるわけがない!」
「払えない? それは困りましたね」
私が陛下の腕の中から口を挟んだ。
「その契約には『代金未払いの場合、即時供給停止および技術提供の打ち切り』という条項が含まれています。つまり……」
私はニッコリと、ピントの合わない目で微笑んだ。
「明日から、王国への美容液の輸出は完全にストップします。メンテナンスも行いません」
「なっ……!?」
王子の顔から、完全に血の気が引いた。
今や王国の貴族社会は、あの美容液なしでは成り立たない。
供給が止まれば、パニックが起きる。
そして、その原因が「王子の暴走」にあると知れれば、彼の政治生命は終わりだ。
「ま、待て! それは困る! ミナが……ミナが泣く!」
「泣かせておけばいい」
陛下が冷たく言い放った。
「女の涙一つで国が動くと思うな。……貴様が選んだのは、そういう未来だ」
陛下は踵を返した。
もう、王子を見る価値すらないとでも言うように。
「行こう、エリゼ。ここは空気が悪い」
「はい、陛下」
私たちは凍りついた中庭を後にした。
背後で「待ってくれ!」「金なら何とかする!」という王子の悲鳴が聞こえたが、ただの雑音だ。
◇
王宮の外には、帝国の馬車が待機していた。
陛下に抱きかかえられたまま、私は座席に沈み込んだ。
緊張が解け、どっと疲れが押し寄せてくる。
けれど、それ以上に胸がいっぱいだった。
「……陛下」
「なんだ」
「強すぎます。かっこよすぎます。最高です」
語彙力が死滅したオタクの感想しか出てこない。
陛下は呆れたように息を吐き、私の頭を撫でた。
「お前こそ、無茶をする。……武器もないのになぜ挑発した」
「陛下が来てくださると信じていましたから」
「……そうか」
陛下の手が止まる。
車内は暗く、表情は見えない。
けれど、彼が少しだけ身を乗り出し、私との距離を詰めたのが気配でわかった。
「エリゼ」
「はい」
「私は、お前がいないと駄目らしい」
耳元で囁かれた言葉に、心臓が爆発しそうになる。
「お前がさらわれた時、怒りで視界が真っ赤になった。……国益などどうでもよかった。ただ、お前を取り戻すことだけしか考えられなかった」
それは、皇帝としてあるまじき発言だ。
けれど、一人の男性としての、偽りのない本音。
「……責任を取ると言ったな」
「は、はい」
「なら、覚悟しておけ。……城に戻ったら、もう離してはやらん」
暗闇の中で、唇に温かいものが触れた気がした。
それは一瞬のことで、幻だったのかもしれない。
けれど、私の顔はカチカチ山のように燃え上がり、もう外の寒さなど微塵も感じなくなっていた。
推しに救われ、推しに愛され、推しと帰る。
ハッピーエンドにはまだ早いが、今日が私の命日でも悔いはない。
馬車は雪道を駆けていく。
二人の体温だけが、冷たい夜の中で熱く溶け合っていた。




