第5話 推しからの重い矢印
視界がぐらりと揺れた。
「あ、これはいけない」
そう思った時には、床が急速に迫ってきていた。
深夜の研究室。
机の上には、新作「発熱インナー」の試作品と、王国向け輸出品の在庫管理表が山積みになっている。
徹夜三日目。
推しを温めるため、そして国の財政を黒字にするため、私はアクセル全開で走りすぎたらしい。
(まだ……コタツの量産ラインが……)
薄れゆく意識の中で、ドアが乱暴に開く音がした。
銀色の髪が翻り、血相を変えた陛下の顔が見えた気がした。
「エリゼッ!」
悲鳴のような声を聞いたのを最後に、私の意識はプツリと途切れた。
◇
ふかふかの感触。
温かい空気。
そして、手を握られている感覚。
重いまぶたを押し上げると、そこは私の研究室ではなかった。
天蓋付きの巨大なベッド。
見覚えがある。これは陛下の私室だ。
「……気がついたか」
耳元で、安堵と怒りが混ざった低い声がした。
横を見ると、ベッドの脇に椅子を引き寄せ、ヴァングリード陛下が座っていた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
目の下に隈ができている。
髪も少し乱れている。
何より、私の手を握る力が痛いほど強い。
「へ、陛下? どうしてここに……公務は?」
「中止した」
「は?」
「お前が倒れたという報告を受けて、会議などしていられるか」
陛下は吐き捨てるように言った。
専属錬金術師が倒れたくらいで、皇帝が公務を放り出すなどあってはならない。
これは雇用契約上の重大な損失だ。
「申し訳ございません。直ちに職場復帰を……」
起き上がろうとした私の肩を、陛下が片手で制した。
押し戻される。
抵抗できない力強さだ。
「寝ていろ。これは勅命だ」
「ですが、納品が」
「黙れ」
陛下は私の額に、冷たいタオルを乗せ直した。
その手つきは驚くほど優しく、けれど瞳の奥には暗い炎が揺らめいている。
「……肝が冷えた」
彼はポツリと漏らした。
「お前が床に伏しているのを見た時、心臓が止まるかと思った。……また、あの孤独な寒さが戻ってくるのかと」
「……陛下」
「だが、それだけではない」
陛下は私の手を両手で包み込み、自身の頬に寄せた。
ひんやりとした彼の頬に、私の手の熱が伝わっていく。
彼はその熱を愛おしむように目を閉じた。
「お前がいなくなること。その事実そのものが、耐え難い恐怖だった。……いつからだ? 私の体温調整は、お前という存在そのものに依存してしまったらしい」
ドクン、と心臓が跳ねた。
それは、ただの「便利な道具」に向ける言葉ではなかった。
もっと粘着質で、重たくて、甘い執着。
(やばい、推しの矢印が重すぎる)
私はパニックになりかけた。
私が望むのは、遠くから彼を崇拝することだ。
こんな至近距離で、独占欲たっぷりに見つめられることではない。
いや、嬉しいけれど。
心臓が持たない。
「……責任を取れ、エリゼ」
陛下が目を開け、至近距離で私を射抜いた。
「私をここまで『温かい世界』に引きずり込んだのはお前だ。二度と、私の許可なく倒れることは許さん。……お前の全ては、帝国の、いや、私の管理下にあると思え」
それは事実上のプロポーズ……いや、所有宣言だった。
私は顔が沸騰しそうで、何も言えずにただ頷くことしかできなかった。
◇
それから三日間、私は「重要文化財」のような扱いを受けた。
陛下自ら薬湯(私が開発したもの)を運んでくるし、食事もベッドまで運ばれてくる。
過保護が過ぎる。
ようやく体調が回復し、医師の許可が出た日のことだ。
執務室で待機していたハンス商会長が、一通の封筒を私に差し出した。
「エリゼ様、王国より親書が届いております」
「王国から?」
嫌な予感がする。
封蝋には、王家の紋章が押されている。
ペーパーナイフで封を切り、中身を取り出す。
そこには、金箔で縁取られた豪華な招待状が入っていた。
『ジェラルド第一王子と、聖女ミナの婚姻の儀を執り行う』
あの日、私の隣にいたピンク髪の少女。
彼女が正式に「聖女」として認定され、王子と結婚するらしい。
「……へぇ」
私は乾いた声を出した。
聖女ミナ。
ゲームでは、彼女こそが主人公で、世界を救うヒロインだったはずだ。
だが、今の彼女は、私の発明品(美容液ガチャ)に溺れ、王子と共に散財しているただの浪費家だ。
「欠席でいいですね。紙の無駄です」
私がゴミ箱へ捨てようとした時、横から白い手が伸びてきて、招待状をさらった。
「……ほう。元婚約者の結婚式か」
ヴァングリード陛下だ。
彼は招待状を冷ややかに一瞥すると、口元を三日月のように歪めた。
「行くぞ、エリゼ」
「はい? どこへ?」
「王国だ。……私の『最高傑作』であるお前を捨てた愚か者どもに、格の違いというものを教えてやる必要がある」
陛下の瞳が、楽しげに、かつ凶悪に輝いている。
それは、獲物を前にした捕食者の目だった。
「準備をしろ。帝国の威信(と私の所有権)をかけて、最高のドレスを用意してやる」
推しが、元婚約者に殴り込み(物理・経済)をかける気満々だ。
止めなければならない立場だが、私の口元も自然と緩んでしまっていた。
「……承知いたしました、陛下」
ざまぁイベントの開幕だ。
私は喜んで、その共犯者になることにした。




