第1話 推しへの課金は実質無料
「寒すぎて死ぬ」
それが、憧れの地を踏んだ第一声だった。
北風が容赦なく頬を叩く。
吐く息は一瞬で白く染まり、まつ毛が凍りつきそうだ。
けれど、私の心はキャンプファイヤーのように燃え盛っていた。
だってここは、帝国。
我が最推し、ヴァングリード皇帝陛下のいらっしゃる聖地なのだから。
◇
事の起こりは一週間前。
王国の煌びやかな夜会でのことだ。
「エリゼ、貴様との婚約を破棄する!」
婚約者であるジェラルド王子が、高らかに宣言した。
隣には、ピンク色の髪をした小柄な少女がしなだれかかっている。
「地味で、可愛げがなく、いつも分厚い本ばかり読んでいる陰気な女など、僕の隣にはふさわしくない! これからは、この愛らしいミナこそが僕の真実の愛だ!」
周囲の貴族たちがざわめく。
本来なら、ここで泣き崩れるのが「捨てられる悪役令嬢」の作法だろう。
しかし、私は扇子で口元を隠し、ニヤつくのを必死で堪えていた。
(やった……! ついにこのイベントが来た!)
前世、私は日本の会社員だった。
生きがいは乙女ゲーム『聖なる剣と銀の愛』。
給料のほとんどを課金に費やし、推しのスチルをコンプリートすることだけが人生の輝きだった。
転生してからも、その情熱は変わらない。
いや、むしろ加速した。
ジェラルド王子?
どうぞどうぞ、差し上げます。
私の狙いは、このゲームの隠しルートにして最大の悲劇、ラスボス皇帝ヴァングリード様なのだから。
「貴様には罰として、野蛮な北の帝国へ『人質』として行ってもらう。あそこの冷酷な皇帝がお似合いだ!」
王子の言葉に、私は優雅にカーテシーを決めた。
「謹んでお受けいたします、殿下」
最高のチケットをありがとう。
内心でガッツポーズを決めながら、私は馬車に飛び乗ったのだった。
◇
そして現在。
帝国の城、謁見の間。
私は冷たい石畳の上に跪いていた。
人質として送られてきた私を見る周囲の視線は、外の気温より低い。
兵士たちの鎧がカチャカチャと鳴る音だけが響く。
「……面を上げよ」
頭上から降ってきた声。
低く、威厳があり、けれどどこか苦痛を含んだ響き。
私は震える手でドレスの裾を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、神がいた。
銀の髪は月光のように輝き、切れ長の瞳は血のように赤い。
彫刻のように整った顔立ちは、この世のものとは思えない美しさだ。
ヴァングリード・アイス・ヴォルグ。
二十二歳の若き皇帝。
(あぁ、生きてる……動いてる……!)
感動で涙が出そうになる。
けれど、すぐに私のオタク・アイ(観察眼)が異変を捉えた。
陛下の顔色が悪い。
青白いというより、土気色に近い。
玉座の肘掛けを掴む指先は白く変色し、微かに震えている。
『氷魔の呪い』だ。
帝国の皇族特有の遺伝病。
体温を奪い続け、骨の髄まで凍るような激痛を与える呪い。
ゲームの設定資料集で読んだ通り、彼は今この瞬間も、耐え難い痛みに耐えているのだ。
(痛そう……代わってあげたい……いや、代わることはできないけど、何かできるはず)
私は自分のポケットを探った。
ドレスの隠しポケットには、出国前に私財を投じて買い集めた「魔石」が入っている。
アクセサリーに見せかけた、ただの原石だ。
これがあれば、錬金術が使える。
私は前世の知識を総動員した。
化学カイロの仕組み。
鉄粉、水、活性炭、バーミキュライト、塩類。
それらが酸素と反応して熱を発するプロセス。
この世界にはプラスチックも不織布もない。
だが、錬金術なら「物質変換」で類似の素材を生成できる。
(バレたら不敬罪? 知ったことか。推しが震えているのを見過ごすなんて、ファン失格よ!)
私はそっと魔石を握り込んだ。
魔力が回路を駆け巡り、掌の中で物質が組み変わる。
シュウゥ……。
微かな音と共に、手のひらサイズの白い袋が生成された。
じんわりと熱を帯びていく。
成功だ。
「……何をしている」
鋭い声が飛んできた。
側近の騎士が剣の柄に手をかけている。
当然だ。人質が懐でゴソゴソしていたら、暗殺を疑われても仕方ない。
「申し訳ございません、陛下」
私は平伏したまま、カイロを両手で捧げ持った。
「あまりの寒さに、故郷より持参した魔石で暖を取る道具を作ってしまいました。……もしよろしければ、陛下もいかがでしょう」
「……何?」
「これは『カイロ』と申します。危険なものではございません」
騎士が制止しようとするのを、ヴァングリード陛下が手で遮った。
彼は玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りてくる。
コツ、コツ、という足音が心臓を叩く。
目の前に、黒い軍靴が止まった。
「……見せてみろ」
私は震える手で、温かい白い袋を差し出した。
陛下がそれを手に取る。
氷のような冷たい指先が、私の手に触れた。
その瞬間。
彼の赤い瞳が、驚愕に見開かれた。
「……っ」
言葉にならない吐息が漏れる。
彼はカイロを両手で包み込み、その熱を貪るように押し黙った。
強張っていた眉間の皺が、見る見るうちに解けていく。
苦痛に歪んでいた口元が、安堵に緩む。
その表情の変化は、まるで冬の湖に春の日差しが差し込んだようだった。
(尊い……)
私は心の中で拝んだ。
推しが、私の作ったアイテムで救われている。
これ以上の喜びが、この世にあるだろうか。
「……温かい」
ぽつりと、陛下が呟いた。
「魔法具か? いや、魔力の波長が違う。……お前、名は」
「エリゼ・フォン・ローゼンと申します」
「エリゼ」
彼が私の名前を呼んだ。
ただそれだけで、一週間前の婚約破棄のストレスなど消し飛んでしまった。
実質、今の課金(魔石一個分)に対するリターンが大きすぎる。
ヴァングリード陛下は、もう一度カイロの熱を確認するように握りしめ、そして私を見下ろした。
その瞳には、先ほどまでの冷徹な光ではなく、獲物を見つけた肉食獣のような色が宿っていた。
「……衛兵、この者を牢に入れるな」
「は? しかし陛下、彼女は人質で……」
「私の私室へ連れて行け。……話がある」
ざわめく謁見の間。
私は呆然と陛下を見上げた。
待って。
私室?
いきなり?
私の頭の中で、乙女ゲームのシナリオが音を立てて崩れ去っていった。




