冒険者
四十五歳。
未婚。子なし。持ち家なし。
職歴はそれなりにあるが、誇れるものはない。
男は講習会場の椅子に深く腰を下ろし、配布された分厚い資料を見下ろしていた。
紙の端はすでに汗で波打っている。
「――繰り返しますが」
壇上の講師が、淡々とした声で言う。
「ダンジョン内での死亡は、労災にはなりません。
国家は救助を行いますが、保証は最低限です。
命の責任は、あくまで自己にあります」
会場に、低いざわめきが走った。
男は喉を鳴らした。
わかっていた。
わかっていたが、実際に言葉として突きつけられると、腹の奥が冷える。
隣の若い男は、スマホで配信を見ている。
別の席では、筋肉質な男が腕を組み、微動だにしない。
――場違いだな。
男は自分をそう思った。
体力測定では下から数えたほうが早い。
剣術も、魔法適性も、最低ランク。
それでも、ここにいる。
理由は単純だった。
「白い魔石、一個。
現在の取引価格、三十万から五十万円」
講師がそう言った瞬間、
男の脳裏に、通帳の残高が浮かんだ。
ゼロが、少ない。
老後。
年金。
このまま何も起きなければ、静かに詰む未来。
「……はは」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
危険だ。
死ぬかもしれない。
だが、何もしなければ確実に詰む。
それなら。
男は資料を閉じ、深く息を吐いた。
講習は続く。
モンスターの解体方法。
白い魔石の取り扱い。
ドローンによる記録義務。
緊急撤退の合図。
一つ一つが、現実だった。
ゲームじゃない。
夢物語でもない。
――それでも。
講習が終わり、夕暮れの街に出たとき、
男は空を見上げた。
遠く、ビルの隙間に、
ダンジョンの入口が黒く口を開けている。
ニュースで何度も見た光景。
だが、明日には――
「……行くか」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
勇者じゃない。
選ばれた人間でもない。
ただの四十五歳の男。
それでも、
一歩踏み出すことだけは、自分で選んだ。




