5. 少女の約束-3
つむぎの問いが、夏の空気の中でゆっくりと溶けていく。
「れん…幼稚園を卒園しても、ずっと一緒にいてくれる?」
小さな声だった。
だけどその言葉のひとつひとつが、まっすぐに僕の胸に届いた。
喉の奥が熱くなる。
胸の奥で何かが波打つ。
幼い心が理解していた。
――これはただの「約束」じゃない。
世界でいちばん大事なものを、今、差し出されている。
僕は一度、目を伏せて、手を握りしめた。
震える指先が汗ばんで、少しだけ冷たかった。
けれど、心ははっきりと動いていた。
ゆっくりと、つむぎに手を伸ばす。
ためらって、引っ込めたその手を、もう一度。
今度はちゃんと、つむぎの手を握った。
彼女の手は小さくて、あたたかかった。
泣きはらした頬に光が差して、つむぎが小さく息をのむ。
そして、涙のあとに、ほっとするような笑顔を浮かべた。
「……ずっと、一緒にいる」
僕はそう言った。
その言葉に嘘はなかった。
幼いながらも、自分が言葉に重ねた意味を感じていた。
つむぎは少しだけ顔を赤らめ、
それから小さな指を僕の前に突き出した。
「ゆびきり、しよう」
僕は頷いて、彼女の小指に自分の小指を絡める。
夕暮れの光が、鳥居の向こうから差し込み、
二人の影を石段の上に重ねていく。
「ゆびきりげんまん、うそついたら……」
「はりせんぼんのーます」
二人の声色が明るくなる。
つむぎがくすっと笑って、僕もつられて笑う。
風がふわりと吹いて、提灯の光が揺れた。
祭りの音が遠くに流れている。
だけど、この場所だけは世界から切り取られたように静かで、
僕たちの時間だけがゆっくりと流れていた。
僕はつむぎの隣に座り、
石段の上で肩を並べて空を見上げた。
「れん、ありがと」
その声は、涙を拭ったあとみたいに透きとおっていた。
僕はただ頷いて、隣に座る彼女の横顔を見た。
その顔を照らす光が、まるで時間そのものを優しく包み込んでいるようだった。
どこまでも続く青、夕暮れの赤、そして夜に変わっていく空。
すべてがひとつの約束のように静かに重なっていった。
やがて、境内の下から大人たちの声がした。
「れん!」「つむぎ!」
二人同時に立ち上がる。
階段を降りると、父と母の姿が見えた。
見つけた瞬間、母の顔が怒りと安心でぐしゃりと崩れた。
「もう! どこ行ってたの!」
僕は思わず「ごめんなさい」と頭を下げた。
つむぎも隣でぺこりと頭を下げて、
二人の母親たちは顔を見合わせて、ほっと息をついた。
「はぐれないようにちゃんと手をつなぎなさい」
父の言葉に僕とつむぎは顔を見合わせ、
そしてまた笑って手をつないだ。
――あの日、僕たちは約束した。
うそをつかない、離れない、ずっと一緒にいるって。
それから、季節がめぐり、
僕たちは卒園し、同じ小学校に入学した。
春の風が校門を抜け、桜の花びらが舞い上がる。
つむぎの制服姿は少し大人びていて、
けれど笑うとあの日のままだった。
二人で並んで歩く通学路。
手をつないで笑うその瞬間が、
世界のどこよりもあたたかかった。
――少女の話は、そこで終わった。
彼女は静かに息を吐き、
少し寂しそうに微笑んだ。
「これが、れんとつむぎのお話」
電車は静かに揺れている。
窓の外には、相変わらず水平線が続いていた。
青と光と風が、遠くで混ざり合う。
俺はそっと言葉をかける。
「……いい話だね。」
少女は目を伏せた。
そして、少しだけ頬を染めて微笑んだ。
「うん。あのとき、手を取ってくれたから」
その声が光に溶けるように響いた瞬間、
俺の目の前の少女の姿が、ふと変わった。
白いワンピースの幼い少女だったはずが、
いつの間にか、小学生くらいの姿になっていた。
髪は少し伸び、制服の襟元には小さな赤いリボンがついている。
その瞳は、どこか懐かしい光を宿していた。
「次の駅で、わたし、降りるね」
少女――いや、小さな少女の続きの姿はそう言って、
窓の外を見つめた。
電車がゆっくりと減速を始める。
車内に小さな風が流れ、
扉の向こうに淡い光が差し込む。
やがて電車が止まり、扉が開いた。
少女は振り返り、静かに微笑んだ。
「聞いてくれてありがとう、お兄ちゃん」
光の中に包まれながら、
赤いランドセルを背負った少女は降りていった。
扉が閉まる。
静寂が戻る。
俺一人を残して電車はまたゆっくりと走り出した。
けれど、不思議と胸の奥は温かかった。
――誰かの約束が、今も続いているような気がした。
どこまでも続く水平線の上を、
淡い光の中を、音もなく進んでいった。




