22. 過去と未来-1
僕と紬はその後……どうなったんだったっけ。
胸の奥に霞がかかったようで、輪郭を結ぶはずの記憶が上手く繋がらない。
紬は隣で揺れる電車の窓の外を眺めている。
僕は紬の袖をそっと引いた。
「紬、その後、僕たちは……どうなったの?」
紬は目を細めてゆっくりと口を開いた。
長い睫毛が、窓の外の淡い光を受けて揺れる。
「そうだね~。結構いろんなこと、あったよ」
彼女は腕を組み、少し考えこむように天井を見上げる。
電車の振動が、ことり、ことりと規則正しく響いてくる。
「まずは……あの日のデートから○○年後のことだよ」
紬がそう言って微笑んだ瞬間、空気が変わった。
淡い霧に包まれるように、僕の脳裏に別の情景がゆっくりと浮かび上がってくる。
***
蓮と紬は、夫婦になった。
あの頃の約束が、きちんと形になったのだ。
蓮は医者として、少しずつ患者からの信頼を集めるようになっていた。
紬は歌手であり、音楽家として、自分のスタイルを築き上げ、明るく軽やかな曲を生み出していた。
忙しくて、楽しくて、息をつく暇もないほどの日々だったが――それでも二人で帰る家があり、灯りがあった。
その家には、もうひとつの命が加わっていた。
柚葉 命。
女の子。
すこし背伸びをするような大人びた表情を持ち、それでいて誰より優しい心を持つ子だった。
命は今年で中学生になる。
世間でよく聞く“反抗期”というものはほとんどなく、蓮にも紬にも、あけすけに愛情を向けてくれた。
時折、ふとした拍子に大人びたことを言い、二人を驚かせたりもした。
日常は静かで、平凡で、そしてなにより温かかった。
***
「ただいまー」
玄関の扉が開く音。
夕飯前の台所にいる紬は、手を止めて振り返る。
エプロンの端をつまみながら、紬は顔をほころばせた。
「おかえり、蓮。今日は遅かったね」
「うん、外来が混んでてさ……あれ?命は?」
「上だよ。宿題のプリントの整理してるって」
蓮はネクタイを軽く緩め、リビングに入った瞬間、どこか懐かしいピアノの音が聞こえてきた。
それは紬が最近ずっと練習している新曲で、命がそのメロディを好きで、真似して弾いているのだ。
「……あの子、紬の曲、すぐ覚えるんだよな」
蓮が階段を見上げると、紬は軽く笑った。
「蓮に似たんだよ、そういうところ」
「僕に?」
「うん。だって蓮って、私の歌、一度聴いただけで全部覚えてたじゃない。昔から」
そう言われると、蓮は照れくさそうに目をそらした。
家族の会話は、まるでゆるやかな水の流れのようだった。
ひとつひとつが小さな光を含んでいて、どれも失われないものであるように感じられた。
夕食は三人で囲む。
紬が作った料理の匂いが部屋いっぱいに広がり、命が話題を次々運んでくる。
「今日ね、音楽の授業で私の班が伴奏を任されたんだよ。
先生がね、“命さんは音がやわらかいね”って言ってくれて」
「へえ、すごいじゃん。紬の娘だね」
「えへへ、そうかな」
紬は苦笑しながら蓮の腕を軽くつついた。
「そういう言い方はやめてよ。蓮の娘でもあるでしょ」
命はそのやり取りを見てくすっと笑い、そのあと少し照れたように箸を置いた。
「でもね、ほんとは……まだうまく弾けないとこ、いっぱいあるんだよ。
でも、この前、お母さんの歌の動画見てたら……なんか、練習してみたくなって」
紬の表情がわずかに緩む。
命はまっすぐ紬を見つめて言った。
「私もね、誰かを元気にできる音が出せたらいいなって。
お母さんみたいに」
その言葉は、静かに食卓に落ち、家の灯りの中でやさしく光った。
「……命、ありがとうね」
紬は娘の頭をそっと撫でた。
蓮もまた、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
ああ、この日常は――
なんて美しく、なんて尊いものなのだろう。
***
その夜。
空気がふと変わるような出来事があった。
風呂から上がった命は、濡れた髪をタオルでそっと拭きながら言った。
「ねえ、パパ。今日、家に帰る途中でね……
白い服の女の子を見たの。神社の鳥居のところで。
なんか、こっちを見てた」
蓮は思わず紬と目を合わせた。
紬もまた、その話にどこか心を引かれたようだった。
命はタオルを抱えたまま、少し間を置いて続けた。
「でもね、その子……すぐ消えちゃった。
風みたいに、ふっといなくなって……なんか、変だった」
蓮の胸の奥で、ざわりと何かが揺れた。
――白い服の女の子。
――鳥居。
――消える影。
そのひとつひとつの言葉が、まだ形にならないけれど、確かに“知っている”感覚を呼び起こす。
紬が、落ち着いた声で訊いた。
「命、それは……怖くなかった?」
「ううん。不思議だっただけ。なんか、呼ばれてるみたいな感じがして」
命の言葉は軽やかで、無邪気だったが、蓮と紬の胸には、別の重みで落ちていった。
命が階段を上がっていくのを見送り、紬が蓮の袖を小さく引いた。
「蓮……やっぱり、あの子かな」
紬の声は震えていた。
たぶん紬も、この“日常”が何かに触れようとしていることを感じているのだ。
蓮は頷いた。
「ああ……きっと、そうなのかもな」
その夜の家は静かだった。
外では風が木々を鳴らし、遠くで鳥が一声だけ鳴いた。
命りの下で揺れる影はひとつ。
蓮と紬は、手をそっと重ねた。
そして二人は思い出す。
二人には大切な友達がいたことを。
***
それは紬と蓮が中学生だった頃のこと。
蓮と同じく図書委員で、蓮に恋をしてしまった女の子がいた。
白石ほのかという名前の子だ。
蓮に振られた後も、二人にとっての大切な友人であり続けた。
ほのかは、実は蓮と紬が恋人になった神社の巫女でもあった。
少しだけ特別な能力を持っていたらしいが、本人はあまり話したがらなかった。
「話しても、信じてもらえないことが多いし、良いことばかりじゃないから」
そう、ほのかはいつも言っていたことを、二人は思い出す。
しかし、彼女はもうこの世にいなかった。
それは僕たちが高校生だったころのこと。
あの頃、思いもよらない事件が起きたのだ。




