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ゆめでんしゃ  作者: 時の凛


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19/24

19. 二人の道-2

春の光が柔らかく街を包むころ、蓮と紬はそれぞれの道を歩みはじめていた。


蓮は医学を学ぶ大学に、紬は音楽を学ぶ大学に進んだ。

道は違えど二人は同じアパートの一室を借り、共に暮らしていた。

白い壁と木の床、窓から差す午後の光が優しく反射するその部屋は、

新しい生活の希望を宿した、ささやかな居場所だった。


朝、蓮は早くに大学へ向かう。

白衣を鞄に詰め、慌ただしく玄関を出る背中を、紬は小さく見送った。

夜、蓮が帰ってくるころには、紬の姿はピアノの前にある。

鍵盤の上を滑る指先、淡い旋律。

けれど、どこかに不安の影が混じっていた。


夕食は一緒に取った。

交代で作るご飯、味噌汁の湯気、狭いテーブルを挟んだ沈黙。

その沈黙すらも、最初のうちは穏やかな時間の一部だった。

言葉がなくても、隣にいるだけで安心できた。

それが「一緒に生きる」ということだと、二人は信じていた。


けれど、季節が巡るごとに、少しずつ歯車が狂い始めた。


紬は音大で、自分の無力さを知った。

クラスの誰もが彼女よりもうまく弾き、より深く歌い、より高く評価された。

紬の努力は嘲笑うように届かず、舞台の光は遠ざかるばかりだった。

何度挑戦しても落とされるコンクール。

拍手はいつも他の誰かのために響いた。


「どうして、うまくいかないんだろう」

夜、紬はピアノの前で呟く。

鍵盤の上に落ちる手は震えていた。

弾き終わるたび、彼女の肩は少しずつ下がっていった。


蓮は彼女の状態に気づき支えようとした。

けれど、医学部の生活は容赦なく時間を奪う。

実習、レポート、試験、朝から晩まで。

帰宅する頃には、言葉よりも眠気が先にやってきた。

「大丈夫だよ」と口にしながらも、彼自身の声には力がなかった。


紬の瞳から光が消えていったのは、そんな日々の積み重ねの果てだった。

彼女は笑わなくなっていった。

朝の挨拶は小さな相槌に変わり、

夜の食卓では食器の音だけが響いた。


「大丈夫?疲れてそうだけど…。」

ある夜、蓮がそう尋ねると、紬はかすかに笑った。

「大丈夫、ちょっと眠いだけ。」

そう言いながら、彼の目を見ようとしなかった。


彼女の声には、もう以前の温度がなかった。


そして、ある日。


紬の大学から一本の電話が入った。

「紬さんが、無断で欠席しています。」

短い報告に、蓮の心臓は小さく跳ねた。

教授の声が続いたが、内容は頭に入らなかった。


彼は迷わず大学を出た。

白衣もロッカーに置きっぱなしで、鞄ひとつ抱えて走った。

午後の陽射しが傾き、風が冷たく変わる。

街を抜け、駅前の坂を上る。

汗が額を流れても、止まることはできなかった。


アパートの前に立つと、窓のカーテンが閉ざされていた。

部屋の明かりは消えている。

呼吸を整える間もなく鍵を差し込み、扉を開いた。


中は静まり返っていた。

テーブルの上には昨夜の食器、冷めた味噌汁。

ピアノの上には楽譜が散らばり、床には折れた鉛筆。

紬の姿はどこにもなかった。


寝室のドアを開ける。


ベッドの端に、彼女は座っていた。

背を丸め、両手を膝の上で握りしめていた。

顔を上げたとき、目の下の影が深く刻まれていた。


「……蓮」


か細い声だった。

まるで遠い場所から聞こえるような響きだった。


「どうしたんだよ、学校休んだって……大丈夫?」


問いかけても、彼女は首を横に振った。

ゆっくりと、何かを確かめるように。


「ねえ、蓮。わたし、どうしてもうまくいかないの。

いくら練習しても、誰かの真似みたいになる。

本当の音なんて、出せないんだよ。」


彼は言葉を探した。

けれど、何を言っても空虚に響く気がした。

励ましはもう届かないことを、心のどこかで分かっていた。


「紬が努力してるの、俺知ってるから」

絞り出した言葉は、震えていた。

今思えばこの時からだろう。

蓮が自分のことを"俺"と呼ぶようになったのは。


紬は小さく笑った。

それは涙をこらえた笑みだった。


「ありがとう。でも、もう……疲れたの」


静かな沈黙が二人の間に落ちた。

時計の針が、乾いた音を刻む。

カーテンの隙間から差す光が、紬の横顔を照らす。

その頬は透けるほど白く、触れたら崩れそうだった。


「ねえ、蓮。もし、わたしが音楽をやめたら、どうなるのかな。

わたしはわたしじゃなくなるのかな」

「紬は紬だろ」

「……そうかな」


その言葉のあと、彼女はまた俯いた。


蓮はゆっくりと彼女の肩に手を伸ばした。

細い肩が小さく震える。

その温もりが、どこか遠くのもののように思えた。


「少し休もう。無理しないでいい」

「……うん」


彼女はそう答えたが、その声には重さがあった。

涙ではなく、言葉が枯れていく音がした。


蓮は彼女の隣に腰を下ろした。

小さな部屋の中、二人の呼吸だけが重なった。

外では夕立が降り始めていた。

雨粒が窓を叩く音が、まるで心臓の鼓動のように響く。


その夜、蓮は眠れなかった。

机の上で、開いたままの医学書をぼんやりと見つめながら、

紬の寝息を何度も確かめた。

夢の中で、彼女が音を失わないようにと祈った。


夜が明けるころ、雨は上がっていた。

薄い朝日がカーテン越しに差し込み、部屋をやさしく照らす。

紬は静かに眠っていた。

蓮は先に起きて朝食を作る。


食パンを焼き、卵焼きとハムを挟んだサンドイッチを作った。

紬が起き、寝室から出てくる。

昨日、横に蓮がいたことで寝れてはいるのか少し表情は柔らかくなっていた。


二人で朝食を食べる。

紬は食欲が戻っているのかきちんと食べてくれている。

ふと紬が口を開いた。


「ねぇ、蓮。今週の土曜…暇?」

「暇だけどどうして?」

「デ、デート…しない?」


頬を赤く染めて紬は蓮をデートに誘う。

蓮は誘う紬がとてもかわいく、予想できなかった言葉に赤面する。

「う、うん。いいよ。行こう」


たどたどしく蓮は頷いた。


土曜に二人で大学生になった初のデートに行くことになる。

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