14. 少年の記憶-3
朝の空気には、昨夜の雨の名残があった。
路地の隅にはまだ小さな水たまりが残っていて、風に揺れる木の葉がその表面を細かく震わせていた。
僕は家の扉を閉め、いつもの時間、いつもの歩幅で通学路を歩いていた。
眠気を帯びた街は、まだ完全には目を覚ましていない。
遠くで新聞配達のバイクがエンジンを唸らせ、カラスの声が途切れ途切れに響く。
紬とはいつもこの角で待ち合わせをしていた。
小さな交差点の脇、街路樹の根元の、舗装の欠けた場所。
そこから並んで歩き、他愛もない言葉を重ねながら、並んで通学路を進む。
――それが、僕たちの日常だった。
けれどその朝、そこには紬の姿がなかった。
街路樹の陰を覗き込んでも、ベンチの方を見ても、誰もいない。
風がひとつ吹き抜け、枝の影が揺れる。
スマートフォンを取り出して時間を確かめる。約束の時刻を過ぎていた。
「寝坊か?」
思わず口に出してみる。
なんとなく胸の奥がざらつく。
僕はそのまま紬の家へと足を向けた。
空は曇っていて、陽の光は白く拡散していた。
やがて見えてきた紬の家は、いつも通り静かで、玄関前の植木鉢の紫陽花だけが色を持っていた。
チャイムを押すと、しばらくして扉の向こうから足音が近づく。
現れたのは紬のお母さんだった。
いつも柔らかい笑みを浮かべる人だが、その日は少し驚いたように目を丸くした。
「おはようございます。紬は寝坊ですか?」
そう尋ねると、彼女はわずかに眉をひそめて言った。
「え? 紬なら、もう学校に行ったわよ?」
思考が一瞬、止まった。
「そうですか……ありがとうございます。」
そう答えて頭を下げ、僕は紬の家を後にした。
――紬は、もう学校に?
そんなこと、一言も聞いていないのに。
小走りに通学路を戻る途中、胸の奥が小さく痛んだ。
まるで、見えない糸がどこかで切れてしまったかのようだった。
学校に着くころには、昇降口の靴箱の前が混み合い始めていた。
友達の笑い声や女子の弾む会話が遠く感じられる。
僕は自分の上履きを取り出し、教室へと向かった。
ドアを開けた瞬間、いつものざわめきが耳に入る。
黒板には担任の書いた日付。窓際の光が淡く机の上に落ちている。
椅子の背に掛けられた紬のカバン。
そのかばんに雑に結ばれた小さな赤いリボンが、風に揺れて床に落ちた。
その赤いリボンを拾い上げる。
ホームルームまであと五分。
僕は紬の後ろの席の女子に声をかけた。
「なあ、紬見なかった?」
「え? 朝は来てたよ。なんかふらふらって感じで出ていったけど……」
「ふらふら?」
「それより蓮くんさぁ、白石…」
「ごめん、その話はまた後で。」
彼女は続けて何か言うが僕は遮った。
――探さなきゃ。
理由なんていらなかった。
ただ、そのまま席を離れ、教室の扉へと向かう。
廊下に出た、そのときだった。
「蓮くん、どこに行くの? ホームルーム、始まっちゃうよ?」
声の方を振り向くと、白石さんが立っていた。
整った前髪の隙間から、細い瞳が僕を見つめている。
彼女の指が、そっと僕の袖を掴んでいた。
「紬を探さなきゃ」
反射的にそう言葉がこぼれた。
その名を口にした瞬間、白石さんの表情がかすかに揺れる。
彼女は少しだけ唇を噛み、そして静かに問いかけた。
「……やっぱり、紬ちゃんのこと、好き?」
一瞬、息が止まった。
その声は、思っていたよりもずっと小さく、震えていた。
僕は返す言葉を失ったまま、彼女の瞳を見返す。
上目遣いでこちらを覗き込む白石さん。
その瞳には、心配とも、嫉妬ともつかない色が浮かんでいた。
そんな彼女を見て、昨日の記憶が唐突に蘇る。
放課後の図書室。
夕暮れの光が本棚の間に差し込んで、埃が金色に舞っていた。
静寂の中で、ページを閉じる音。
そして、あの一瞬の出来事――唇が触れた感触。
息の交わる温度。
胸の奥がざわつく。
逃げたいような、すべてを告げてしまいたいような衝動がせめぎ合う。
「白石さん……」
自分の声が思ったよりも掠れていた。
彼女は黙ったまま、掴んでいた僕の袖を離さない。
その手の温もりが、妙に現実的で、心苦しかった。
教室の外では、チャイムの音が鳴り響いていた。
僕は迷いながらも、結局、言葉を選んだ。
次回はIFルートになります。
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※√BはIFルートです。
IFルートは一部に、精神的なご負担を感じる可能性のある描写が含まれております。
内容にご不安のある方は、この話は無理せず読み飛ばしていただくようお願い申し上げます。




