11. 少年の記憶-1
再び、電車は静寂に包まれた。
二人目の少女が降りたあと、車内には俺ひとりだけが残されている。
窓の外では太陽が水面を照らし、波できらきらと光を放っていた。
電車はまだ走り続けている。
どこへ向かうのかもわからないまま。
だけど――
少女たちの語った“れんとつむぎ”の物語を思い返しているうちに、
胸の奥のなにか懐かしい熱が増した。
忘れていたはずの景色が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
蝉の声、放課後の風、制服の袖口の匂い。
ああ、これは...〇〇の記憶だ。
柚葉 蓮――
それが僕の名前。
そして、彼女の名は――小糸 紬
紬とは産まれた時から一緒でいつまでも僕の大切な人。
中学生になってからも紬とは同じ学校だった。
家が近いから朝はいつも一緒に登校していた。
ただ、二人のあいだには誰にも言っていない秘密があった。
小学生最後の夏祭りで紬が勇気を出して告白してくれた。
その夜のことを今でもはっきりと覚えている。
屋台の灯り、花火の音、そして紬の震える声。
“れん、私……れんのことが好き。”
あの言葉を聞いた瞬間、世界の色が少し変わった気がした。
それ以来、僕らは恋人になった。
だけど誰にも言っていなかった。
学校の友達や親に言うのが気恥ずかしかったのと、
なにより、ふたりだけの秘密のようにしておきたかったから。
朝は途中まで手をつないで歩き、学校の近くになると、
互いに小さく笑って、そっと手を離す。
その仕草はまるで心が通じ合っているのを確かめる儀式のようで、心地よかった。
放課後はお互いの部活が終わるのを待ってから、いっしょに帰った。
部活終わりの紬はいつも少し汗の匂いがして、
それを風がさらっていくたびに、夏の匂いを思い出した。
僕は図書委員をしていた。
放課後は図書室を一定時間解放し、貸出と返却を管理して、最後に戸締まりをする。
静かな時間が好きだった。
本に囲まれた空間にいるといろんな雑音が遠ざかるような気がした。
その日、僕はクラスメイトの白石ほのかと一緒に当番に入っていた。
白石さんは眼鏡をかけていて、きっちり結んだおさげの三つ編み。
成績は学年トップで、運動神経も良く、
まさに“何でもできる人”という言葉がぴったりの子だった。
でも、不思議と堅苦しさはなくて、
話すとすぐ笑ってくれるし、僕のくだらない冗談にもちゃんと返してくれる。
誰とでも自然に話せる人だった。
この時期はテストが近いため、図書室が静かだった。
放課後でも誰も来ない。
だから、僕らは机に教科書を広げて勉強を始めた。
もうすぐ中間テストだったから、自然な流れだった。
白石さんは国語が得意で、古典の助動詞や和歌の意味を、
わかりやすい例えで教えてくれた。
「ここ、“春はあけぼの”のところね。作者の清少納言は、“美しいと思う瞬間”を並べてるの」
「へぇ……?てっきり、ただの朝の挨拶だと思ってた。」
そんなやりとりをしながら、
僕はノートを取り、うとうととあくびをかみ殺した。
枕草子、徒然草、平家物語……どれも僕には眠くなる文字の羅列だった。
“作者の心情を答えよ”なんて問題、作者本人に聞かないとわかるわけがない。
白石さんは、僕の愚痴に苦笑しながら、
「蓮くんって、ほんと素直だよね」と笑った。
その笑顔を見て、僕も少しだけ笑った。
「白石さん、ここなんだけど……」
僕がノートを指さすと、
彼女は僕の隣に来て、肩を寄せながら説明を始めた。
指先が僕の腕に少し触れた。
近い距離に、少しだけ緊張した。
誤解されそうだけど、僕は白石さんに特別な感情を持っていたわけじゃない。
ただ、彼女の距離の近さに少し戸惑っていた。
今思えば――白石さんは、無意識にスキンシップの多いタイプだったのかもしれない。
窓の外の夕焼けが、図書室の本棚に反射して赤く染めていた。
その光の中で、彼女の横顔が一瞬だけきれいに見えた。
――今、紬は何をしているんだろう。
彼女はバスケ部に入っていた。
部活は僕より遅く終わる。
だから、いつも僕が校門のあたりで待って、いっしょに帰る。
だけど、今日は珍しく、帰りが遅い。
スマホを取り出して、メッセージを開いた。
「今どこ?」と送ろうとして、指を止めた。
白石さんの横顔を見たまま、僕はなぜかそのままスマホをしまった。
理由は自分でもよくわからなかった。
やがて鐘が鳴り、下校を知らせるチャイムが静かな図書室に響いた。
戸締まりを済ませ、僕らは図書室をあとにする。
長く伸びた夕陽が廊下の窓を赤く染め、磨かれた床に淡い光を反射させていた。
遠くの校庭では部活動の掛け声がこだまする。
そんな中で、白石さんがふいに口を開いた。
「ねえ、蓮くん。紬さんと、最近どうなの?」
不意にその名前が出て僕は少し動揺した。
「えっ……どうって?」
「ううん、なんかね。
蓮くんと紬さんって幼馴染でしょ?仲良がいいの見てればわかるし。」
何気ない会話のように聞こえたけれど、その声音にはわずかな探るような響きがあった。
僕は笑ってごまかそうとする。
「別に。普通だよ。昔からの付き合いだし」
「そっか、そうだよね」
白石さんはそれ以上、何も言わなかった。
しばらく沈黙が続き、蝉の声が廊下の奥まで染み込むように響いていた。
やがて、彼女がもう一度口を開く。
「ねえ、蓮くん。紬さんとは……付き合ってないんだよね?」
一瞬、息が詰まった。
まるで心の中を覗かれたような感覚に、思わず視線をそらす。
「う、うん。付き合っては……ないかな。」
声が少し上ずった。
それでもそう答えるしかなかった。
紬との約束だったから。
恐る恐る白石さんの顔をうかがうと、彼女は小さく微笑んでいた。
それは、まるで何かを確かめて安堵したような、そんな笑みだった。
何故、そんな顔をしていたのか当時の僕には分からなかった。




