1. 夢の中
――揺れている。
微かな振動と、レールを擦る鉄の音。
ぼんやりとした意識の底から浮かび上がるように俺は目を開けた。
そこは電車の中だった。
窓際の席に座ったまま俺はしばらく瞬きを繰り返す。
天井の蛍光灯は白く車内には俺ひとりしかいない。
妙に静かだ。
モーター音以外何も聞こえない。
「……どこだ、ここ」
呟いても返事はない。
通勤電車でも観光列車でもない。
古びてもいないのにどこか懐かしい内装。
シートの布地は深い青。
床は鈍い灰色。
そして車両は一両しかなかった。
立ち上がり連結部分を探したが見渡す限り前後に車両はなかった。
前に進んでも運転席はない。
後ろも同じ。
不思議なのに、怖くはなかった。
むしろ心の奥がじんわりと温かい。
まるで子どものころに見た夢の中を歩いているような――そんな心地よさ。
窓の外を覗く。
そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
青い海。
だが、水平線の向こうまで陸地はなく、波の動きもない。
まるで巨大な鏡のような水面の上を、電車が音もなく走っていた。
晴れている。雲ひとつない空。
陽光が窓を通って床に揺れ、金の筋を描いている。
風もないのに、どこか遠くで潮の匂いがした。
「……夢、か?」
そう思った瞬間、なぜか納得できてしまった。
夢にしてはやけに現実的だが現実にしては静かすぎる。
スマホを取り出しても当然圏外。
時刻は表示されているが画面が薄く滲んで見えた。
どこか別の世界に迷い込んだような――そんな感覚。
俺は席に座り直し、ただ揺れに身を任せた。
どこへ向かうのかも分からない電車。
だが不思議とそれでいいと思えた。
焦燥も不安も何も感じない。
久しぶりに心の底から落ち着いていた。
どれくらい走っただろうか。
スマホ画面の時間を見るとほとんど動いていない。
時間という概念すら、ここでは曖昧なのかもしれない。
ふと、前方に何かが見えた。
水面の上に、ぽつんと浮かぶホーム。
「駅」らしき構造物。小さな屋根と、錆びた看板。
電車は小さなブレーキ音を立てて、そこへゆっくりと減速していった。
「停まるのか……」
ブレーキ音はとても小さく、ただ滑るように停車した。
ドアが開く音も、やはり静かだった。
空気が変わる。
潮の香りと、どこか懐かしい夏の日の匂いが入り込んできた。
そして、ひとりの少女が乗ってきた。
白いワンピースを着た幼稚園くらいの小さな子。
裸足ではないが、靴はどこか濡れている。
長い髪を肩で揺らし、無表情のまま車内を見渡した。
俺と目が合う。
その瞬間、胸の奥がきゅっと鳴った。
知らない子のはずなのに、どこかで見た気がした。
昔、どこかで出会ったような――そんな懐かしさ。
少女は俺の斜め前の席に座る。
何も言わず膝の上に手を置いて窓の外を見ていた。
その横顔は淡く光に透けているように見える。
電車のドアが閉まり再び動き出した。
俺は声をかけるべきか迷った。
だが、言葉にする前に少女がぽつりと呟いた。
「お兄ちゃんは誰なの?」
柔らかい声だった。
だがその問いは、俺の胸を少しだけ冷たくした。
俺は自分が誰だかわからなかった。
何もかも思い出せなかった。
「わからない。」
「ふうん」
少女は短く返すと、また外を見た。
その瞳に映るのは、果てのない青と、陽光のきらめき。
海でも空でもない、その中間のような世界。
「お兄ちゃんも、夢を見てるの?」
唐突な言葉に、俺は返事を詰まらせた。
夢――。
もしそうなら、なぜこんなにも鮮やかで、心地いいんだろう。
「……たぶん、そうなのかもしれないな」
少女はうなずき、小さく笑った。
窓の外に向き直した笑顔は波のように淡く消えた。
何かを懐かしむような表情をする。
電車は動き続ける。
ゆっくりと水面を滑るように、どこかへ向かって。
駅は遠ざかり、少女と俺だけを乗せた車両は、また静かな音を立てて走り続けた。
俺は窓の外を見ながら、ふと考える。
目的地も、終点もわからない。
それでも――このままでもいい気がした。
潮風の匂い。
微かな揺れ。
隣の少女の小さな寝息。
夢なら、もう少しだけ見ていたい。
そんな気持ちで、俺は目を閉じた。




