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愛人ではないと思っていた令嬢

作者: すじお

 ――それでも、私は信じていた。

 あの人が私を選んでくれたのだと。

 他の誰でもなく、私を。


 けれど今思えば、あの幸福は、誰かが作った幻にすぎなかった。



***



 侯爵家の令嬢、リディア・エルステッド。

 私は長年、王国騎士団の筆頭であるカイル様に恋をしていた。

 彼は聡明で、剣の腕も立ち、国中の女性の憧れ。


 ――独身で、婚約者もいないと、私は信じていた。



 そう信じるように仕向けたのは、まわりの“友人”たちだった。


「カイル様、今はどなたとも付き合っていないそうよ?」

「リディア様が想いを伝えなければ、他の方に取られてしまいますわ」



 正確には、”友人”ではなかった。

 ただの社交界の囁き。



 でもそう言われるたび、胸が熱くなった。

 勇気を出して告白した日、カイル様は笑ってこう言ったのだ。


 ――「おまえのような素直な娘、嫌いじゃない」


 それだけで、世界が輝いて見えた。

 けれど、私の知らないところで笑っていた女がいる。



 カイル様の“長年の恋人”、クラリッサ。

 社交界では誰もが知っていた。

 知らなかったのは、私だけだった。




***



 後で聞いた話だ。

 クラリッサとその取り巻きは、私を“便利な駒”として使っていたらしい。



 ――嫉妬を刺激するために。


 「ほら、あの子、カイル様を狙っているわよ」

 「早く手を打たないと、取られてしまいますよ」



 そうやってクラリッサを焦らせ、国王陛下の望む方向へと仕向けた。


 国王は、クラリッサを自分の庶子である第二王子ルシアンに嫁がせたかったのだ。


 そのために、クラリッサとカイル様を破局させるための駒として私が利用された。


 命令一つで、二人は引き裂かれた。


 クラリッサは泣きながら去り、私だけが“新しい恋人”のように扱われた。


 だけど、私は何も知らなかった。

 彼女が彼の恋人だったことも。

 国王の命令が出ていたことも。


 そして――クラリッサが次男に心変わりしてから、私を蔑むようになったことも。



「哀れね、リディア。まだカイル様に夢を見ているの?」



 笑うその声が、遠くから響いた。

 私の耳には、もう届かないふりをするしかなかった。



***



 カイル様は、変わってしまった。

 以前は優しかった瞳が、冷たく濁っていた。


 愛人たちの存在も隠さなくなり、私を呼ぶ声に感情はなかった。


「……俺にはおまえのような女が必要なんだよ。

 子どもを産める、都合のいい体がな」

「わ、私は……婚約者では……」

「愛人じゃないのか? じゃあ、なんなんだ?」 


 ――“私、愛人じゃないんですけど?”



 そう言いかけた唇を、乱暴に塞がれた。

 抵抗しても意味がなかった。

 彼の手の温度は、もう愛のものではない。

 泣いても、叫んでも、誰も助けてはくれない。



***



 やがて、子を宿した。

 彼が望んだ通りに。


 彼は私に、子供を育む家も与えなかった。

 やがて私は、放埒な女として社交界も、厳格な両親のいる家も追い出されるだろう。


 私は、それでも「愛されたい」と思った。

 たとえ暴力でも、言葉でも、ほんの少しでも優しさが残っていれば――そう思いたかった。


 けれど、それも叶わなかった。

 暴力のたびに、体が痛み、心が削れ、最後に残ったものは絶望だった。



 そしてある夜、冷たい床の上で、赤く濁った涙が流れた。

 命が、静かに、腕の中から消えていく。

 その瞬間、すべてが壊れた。



***



 ――愛そうと思っていた。

 どんなに傷ついても、愛せると信じていた。


 でも、彼は私と宿った命を守るより、愛人との遊びに夢中だった。

 未婚で恋も知らない私に子供だけ宿せば金がもらえる賭けに興じていたという。



ーーーーなに、それ。


 私の生命は。

 私とあなたの生命は。


 ただの遊興のために消費されたの?

 


 いつか生まれる子を楽しみにしていた。

 未婚の女が子を産めば、社交界なんか追い出される。爛れた世界から市井に出ても、まだ見ぬ子供のために生きていこうと思っていた。


 けれど、壊されたのは私の心ではなく、“私の中の希望”だった。



 もう何も言わない。

 誰も信じない。

 この国の笑顔も、優しさも、全部嘘だから。



 ただ一つだけ、確かなことがある。


 ――私は、愛人じゃない。


 

 たとえ誰にそう呼ばれようと、私が愛人になった覚えはない。

 ただあの人が独身であり、恋人もないと聞いていた。

 ただあの人が私の部屋に来ていたという事実だけが、私たちの関係だったのだ。


 そこに誰かにつけられる名前はない。

 私は愛人ではない。

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