悲喜劇の中から嘲笑を
霧の中から残響が響く。
その声はただ、ただ、切なる願いを求めた。
それは空間を引き裂き、悲痛な産声を上げる。
或いは、それは生まれることを望んでいなかった。
人生が鳴き声から始まるように、その生も悲鳴から始まる。
「はぁ、なんとも気味の悪い」
霧の中を一人の男が歩く。
「ホラーは苦手なのですが……」
少しだけ眉をひそめて、霧に隠れたものを見つめる。
その幻影は彼に気づいて縋るように、助けを求めるように、同じ闇へと引き込むかのようにその脚を絡め取ろうとする。しかし、その手は冷たい光を放つ鋭い刃によって地に縫い付けられた。
その者を名で呼ぶ者はいない。人は彼を“道化”と呼ぶ。
普段なら、“英雄”を導く役割を持つ彼も今回だけは舞台に上がらざる負えなくなった。
「主教様も酷いお人だ。何もここに寄越さなくともいいではありませんか」
とは言いつつも、彼は自身が何故ここに来たのか分かっていた。
『君だって、そうしなければ困ることになるとわかってるよね?』
そんな過去の言葉が頭に響き、彼は首を振って忘れることにした。
「ははっ、完璧な世界であるなら必要はないのでしょうが、なにせ欠陥だらけですからね。そういう部分は誰かが見繕わなければ」
この土地の欠陥は必然だった。
しかし、亡者が地から這い出ることを望んではいない。既に退場した役者は世界から去るべきだ。
道化の目に遠くから月光が降り注ぐ。冷たく、夜に輝くそれは亡者たちにとって慈愛だった。全てを消し去り、全てを赦す。
それを求めて、彼の足元、家の隙間、暗闇に呑まれた地面から次々と空へ影の手が伸びてゆく。さながら、月を穢そうとする罪人のようだ。
もしそれが万が一にも触れられれば、この先の多くの道が破綻してしまう。
「しかし、あなたたちにそれを触れる権利はありません」
彼は跳んだ。家の屋根を伝って、禍々しい影に向かって。
手元で金属が光り輝き、無慈悲な鋭さが幻影に向けられた。
それは風を切る音だった。それだけで十分だ。
月に伸びていく影を切り裂くと、それらは自重により落ちていく。その光は蜘蛛の糸のように脆く、死者のためにあるものではない。
「知恵とは、かくも墜ちゆくものですか……」
妄執も、そこに器がなければただの呪いと変わらない。注がれるべきは今を生きる人。影に消えて、今も地面をのたうち回るものではない。
「己の知が世界に届くと、本当にお思いなのですか?」
その声には亡者の思いを容易く断ち切る冷たさがある。
「救いなど与えられるわけないでしょう。そのために真実を求めたのですから」
ふっ、と思わず道化は笑う。
「生きていても、死んでいてもあなたたちは変わりそうにありませんがね」
空気に霧散した影に一瞥もくれず、彼は霧に覆われた街を歩く。
振り返る必要はない。全ては過去に消える。
「それこそが禁忌への代価。ああ、なんと愚かで傲慢で──面白い」
舞台の観客は笑みを称えて、ただ霧の先を見つめた。




