空白の箱に
彼女は振動を感じて再起動を開始した。閉じていた瞳を開き、視覚情報と接続する。少しのノイズが混じっている以外は正常に動作して、次は手を──と動作確認に向かった瞬間に、彼女は自らが背負われていることに気づいた。
彼女の動きに勘づいたからだろうか。シグルドは背負っている彼女の方に少し振り向いて声を掛ける。
「お、目覚めたようだね。大丈夫かい? 君を見つけてもう数日は経ってる。もしかしてもう目を覚ますこともないんじゃないかと思っていたんだ」
彼女はシグルドを観察した。彼女の肉体は自重だけでも普通の人よりも重い。けれど、その重さを感じた様子もなく、爽やかなイメージを崩さずに一定の速度で歩みを進めていた。スラスラと言葉が出たのも、事前に考えていたのかもしれない。
その言葉を聞いて、ミュリアが興味津々と言った様子で彼女に近づいた。
「こんにちは、私はミュリア。聞こえてる? 良かったら、あなたのことを教えて? もしもーし? うーん、もしかして驚いて言葉が出ないのかしら」
彼女の目の前で手を振るミュリアを観察して、彼女は自動的にミュリアの頬へと手を伸ばす。まるで輪郭を確かめるかのように繊細に、形をなぞるかのように。その手つきに、ミュリアは少し困った顔をした。
「私を気に入ってくれてるの?」
「視界に大幅な乱れ──故障率の上昇を確認」
「私はバクじゃないわよ?」
「すみません、あなたのことではありません──否定」
「こいつ、随分と独特な話し方をするんだね。ほんと、あんたらといると変な出会いが多いよ……商人人生でこんなのに出会ったことなんて一度もないんだから」
それは記録装置からの強烈な負荷だった。ゆらゆらと視界が揺れる。彼女の目が高速で処理しようとするが、そのシステムすら強烈な音を立てる。そして彼女の視界に徐々に乱れが生まれ、現実とは異なる映像が映し出される。
『ヴィ、ネ──』
はっ、と呼吸などしていないはずなのに呼ばれた声に体は自然と反応した。声だけしか聞こえない。そこには誰もいない。だというのに、そこにいると理解している。何かが手に触れている。
(それが私の名前ですか?)
目の前にいる人物以外、全ては剥がれ落ちたかのように白く染められている。けれど、その言葉がばらばらになったデータのピースをかっちりと嵌めた。
『世界は──偽り──真実──』
断片的に情報が聞こえて、言葉が聞こえるたびにノイズが更に酷くなる。視界の処理に目が熱を蓄える。加えて、幻覚かのようにどこか動きが同期しない。まるで一部のパーツを欠損しているかのように。
全ては白く染まっていく。その言葉も空白の中に飲まれてしまった。もうこの一面の世界には何もない。この映像の乱れが収まれば、次には視界は再び現実へと戻る。
しかし、視界の隅で動く影を見つけた。それははっきりとしていて、白い中でも消せない何かだと分かる。一歩、一歩、それは緩やかな足取りで距離を縮めている。彼女は目の前に立つ何かに消されると何度も演算結果だけが叩きつけられる。警報のログが過去の記憶だというのに溢れ出した。彼女は理解できなかった。何故か目を覆う。それを見ないようにして。
途端に彼女の頭には情報の波に攫われて現実へと帰還した。
「また壊れちゃったの? つまんないなぁ、こんな遺物なんてなかなか見られないのに……迷宮から出てきたものなのかな?」
ナディアは好奇心と恐ろしさ半分で彼女の頬を突いて反応を確かめていた。突然、目を開いた彼女に驚いてミュリアの背後まで身を引いた。
「ここはどこでしょう? あなたたちは? ──混乱」
身を起こす彼女に、早速ミュリアが近づいて自分たちのことを説明した。
「なるほど、あなたたちは旅人なのですね──理解」
「今度はあなたについて教えてくれない? 名前がないと、貴方をどう呼ぶか不便だから」
彼女は沈黙したあと、あのエラーで聞こえた名前が頭から離れずにいた。
「ヴィネ、と呼んでください。ひとまずは」
「ええ、よろしくね。ほかにも覚えてることとかある? これからどうなるかは分からないけれど、せっかく出会ったんだもの。これって一蓮托生っていうのかしら」
ヴィネは自身のログをチェックしたところ、記憶と言えるほどのデータはなく、全ての情報が欠落していた。そのことを話すと、ミュリアは少し考えた素振りを見せたあと、静かに頷いた。
「私も同じなの。実はこれから目指す場所には私の手がかりを見つけるために行くのよ。……答えが見つかるかどうかは分からないけど。あなたもどう?」
「──検討、評価。悪くありません。ええ、よろしくお願いします」
ヴィネはミュリアの差し出した手を握った。
「私は何者かを知らなければなりません──必然です」




