嵐の前の静けさ
雲一つない空と穏やかに打ち寄せる波飛沫。憂うことなどなく、ミュリアは波の上にいようとも普段と変わらず新しい景色を楽しんでいた。船に近寄ってきたカモメに餌をあげたり、海に吹く風を体感したりと忙しない。対して、シグルドはそんな彼女を見ながら、その純粋さに苦笑していた。
「あそこは私たちが出会ったところね♪ あっちの道はどこに続いているのかしら」
「本当に君は冒険が好きみたいだね」
「もちろん。だって、目に映るものはどれも新鮮で鮮やかで輝いているの。まるできらきらとしたものを詰め込んだ宝石箱みたいにね。そんな出会いが私は嬉しい。あなたとの出会いみたいにね♪」
「そう思ってくれたのなら光栄だよ」
シグルドは手の届くことのない空を見上げる。
「こうして空を見上げることも久しぶりかもしれない。こういう日にはよく地面に倒れて、飽きるまで眺めていたよ。そうすれば時間になるとテペ……家の飼い犬が迎えに来てくれた。そうしたら帰り道には家から炊煙が上がっているから、どんな夕飯が待っているのか楽しみにしていたっけ」
「へえ、なんだかいい匂いがこっちにまで届いてくるようだわ」
「君にも故郷の味を振舞ってあげたいけど、あの時の僕は母の手伝いをあまりしたことがなかったからね。早く帰っていれば、料理も覚えられただろうにな……ああ、ごめん。僕から話したのに期待に応えられそうにない」
シグルドは恥ずかしそうに頭をかいて笑った。
「いいえ、教えてくれてありがとう。でも、そこまで言われると気になるわね。そうだ、いつか故郷の味を再現してみない? そこまで言われると興味が出てきちゃったから」
「あまり期待しないでくれよ? あの頃はあったものを料理していただけで、もう当時と違って色々なものを食べてきたから物足りないかもしれないし」
「大丈夫よ、それもきっといい思い出になるわ。だって、旅は始まったばかりなんだもの♪」
暫くすると海風が暗雲を連れてきて、風雨と荒波を呼び寄せてきた。
「海は天候が変わりやすいとは聞いたけど本当なのね」
室内まで戻ると、逆に船員たちがあわただしく船内を駆けまわり始めていた。嵐が本格的に訪れる前に準備をしているようだ。
「こうしてみると、船の旅というものはまさに冒険の本質みたいだ」
「それはどうして?」
「例えば、船の進路は僕たちが決めるものだけど、この船は僕たちの力で浮いているわけじゃない。同時に、この船を前へと進めているものも風や波、そして動力源によって動いている。人の知恵は自然の障害を切り開き、追い風を味方につけるものだ。そのために、僕たちはまだその先にある景色を知らないけれど、その景色を追い求めて身を尽くすのだろう……えっと、少し語りすぎたみたいだね。とはいえ、雨が降っては景色も楽しみにはできないから、何か船員さんの力になれるか聞いてみるよ。ほら、僕は体力があるからね」
そう言ってシグルドは船員たちの方へと向かった。その様子を見て、ミュリアは不思議そうに見つめていた。
「随分と……せっかちなのね。まるでゆらゆらと揺らめく火のようで、その温かさは灯台のように導かなくてもかがり火のように寄り添ってきたのでしょう。なら、あなた自身は何の願いのためにどんな景色を追いかけるの?」
窓の外から見える暗雲は冷たい雨の中で激しく蠢いている。少女の小さな呟きはその嵐の前では遠くまで届くことはない。けれど、確かなことは暗雲を乗り越えれば船は岸に辿り着くということだけなのだ。




