捕縛
込み上げる焦燥が胸に燻ぶり、恐怖が背筋を凍らせる。逃走劇は既に数時間は経過していた。
「はあっ はっ はぁ……っ」
仲間だと信じていた人たちに見限られ、メルティナは屋根伝いに街中を疾走する。いっそこの場から消えてしまいたい。
『メルティナを生きて捕らえろ。手柄を立てたものには賞金を出す』
その鶴の一声で命を懸けた鬼ごっこの第二幕が上がった。
事務所を脱出したは良いものの、辿り着いた関所は組合職員の冒険者に押さえられていた。
反対方向の関所を目指したが、市中を縦断する河に架かる橋にも同様に張られていたので断念せざるを得ない。
かといって、河水を引き込んで街を囲む大濠は人が渡河できるような規模でもない。完全に逃げ場を封じられた。それにしても、
(包囲が、早過ぎます――――――!)
仕掛けのタネは恐らく呪符を介した念話。魔道士が魔力を込めた呪符同士を、同じく魔力で形成した経絡で繋ぎ合わせ互いの声を届ける双方向の通信手段。
組合支配人の有能振りが、この時ばかりは恨めしい。
眼下の通りに目を向ければ、血眼になって自分を探す冒険者たちが駆けずり回っていた。まだ気付かれてない。
だが後方を一瞥すると、黒衣の刺客が二人ほど追随していた。気が逸って足が縺れそうになるのを必死に堪える。頬を叩く初秋の風は恐慌を掻き立てるばかりで心の平静に寄与しない。
暗殺者。冒険者が就ける巡礼者と同じ戦闘職の一種で漆黒の仮面と黒衣に身を包み、陰に潜んで人知れず敵を抹殺する術に長ける攻撃職。
彼らは右手から回り込んで大濠の方へと誘導する意図が見て取れた。連携している様子から組合職員だろう。
だが相手の目論見に随うつもりはない。もう少しで大きな館の屋根に移れる。そこで応戦して強行突破を――
「――ッ」
側面から飛んで来た矢が突き刺さり行く手を遮る。足を止めたせいで暗殺者との距離も縮まる。既に包囲網が完成しつつあった。
「く……っ」
端麗な美貌を歪めて奥歯を強く噛み、忸怩たる思いで仕方なく大濠を目指す。琥珀色の長髪が風に靡く中、処刑台に登壇させられる心地を味わって屋根を駆けた。
とうとうメルティナは外縁部の家屋まで到達する。水門で区切られた大濠の水面は穏やかに凪いでおり、こんな時でなければ心が洗われる想いであっただろう。
振り返ると暗殺者二人に加え、弓使いに剣士や杖を構える魔術師までもが勢揃い。追い詰められた。
「もう逃げられんぞ」
「…………っ」
ローブに身を包んだ魔術師風の男が杖を突き出してくる。このまま水中に身を投げたところで衛兵に捕らえられるのがオチ。覚悟を決めて双剣を抜き放った。
武器を構えて対峙している間、下からも「いたぞ」との声が上がりもっと大勢の冒険者が殺到するのは確実だ。六人を一度に相手取るだけでも大変なのに、それ以上は手に負えない。
メルティナは一縷の望みを託して弁明した。しかし痛切に言葉を尽くしても、疑念を払しょくするまでには至らない。
「気は済んだか?」
その一言で絶望に突き落とされる。
「まったく、そのような下品な姿で言われてもな。組合長に色仕掛けが通じなかったのが、そんなに悔しいか?」
(わたくしだって――)
密命がなければ、わざわざこんな格好をしていない。恥ずかしいのはメルティナだって同じだった。
端々に宝石などの装飾品が散りばめられた巫女装束。腕の大振袖は肩を隠さず、胸元の布は肌着のようなホルターネックだけ。スカートは両側に大きくスリットが入っており、動く度に太ももが露わになる。
この姿で一度娼館に連れていってもらったことがあるが、他の客に娼婦と間違えられたのは嫌な思い出の一つだ。
それに色仕掛けが通じるも何も、最初に色目を使って来たのはナタナエルの方だ。訂正したい衝動にかられたが、無駄だと分かっているので睨む事しかできない。
「くれぐれも致命傷は与えるな」
周囲に目配せをした魔術師風の男が、構えた杖の先に燃え盛る炎弾を出現させる。
【爆炎】。妖術師が使う火炎系の術式で最高の威力を持つ。
こんな街中で。戦慄したがこの区画は貧民街。無人の家屋が一棟倒壊するくらい、何とも思わないのだろう。放たれた豪火球は弾丸の如く突き進み、大気を燃やして迫って来た。
「くっ!」
陽炎を揺らし、頬を焦がす豪火球を、他の屋根に飛び移って回避。術式はそのまま放物線を描き水面に水柱を立てた。それを音に聞きながら、暗殺者の挟撃に備え双剣を構える。
繰り出された黒刃はしかし、双剣と火花を散らすことはない。透明な障壁によって阻まれた。
巫女装束を飾り立てる金細工や宝石には結界術式が施され、容易に攻撃は通らない。本来なら身体強化の術式などが施されるのだが、これは密命のために誂えた特注品。
好機。意を決したメルティナは妖術師目掛けて突進。このまま包囲の突破を図る。弓矢の横やりは斬り伏せた。
だが、男には油断も動揺もない。双剣の間合いに入る刹那、眼前で炎が噴き上がる。
「なっ――――」
一体どこから。反射的に制動をかけ、辺りを見渡そうにも火炎に遮られ視界が利かない。漸く確保できたのは、結界が焼失してから。
「あ…………」
思わず絶句する。けれど今この瞬間は戦闘の真っただ中。反射的に側面攻撃の矢と後方から暗殺者の刺突を迎撃するも腹部に蹴りを喰らって屋根から転げ落ちた。音を立てて地面と激突。
「ぅ……く…………っ」
痛みに耐えて手を着き、打ちひしがれたその身を起こそうとしたが背中に乗られて組み伏せられたため、メルティナは這いつくばることしかできない。
「いやぁ、中々の結界、お陰でよく燃えたさぁ♪」
長尺の杖を担ぎ薄ら笑いを浮かべて近付いて来るのは、赫灼の長髪に深紅の双眸を持つ青年。
「よくやったアッシュ」
「あいあい。オクタヴィアのダンナの背中を守るのは、オレっちの仕事さぁ」
煙管を咥え薄ら笑いを浮かべるアッシュは、後ろから来た先程の妖術師に道を空けた。
尻尾を垂らし、頭頂の獣耳を揺らす彼は獣人族。
「個人的には焼き殺しても良かったのだが。まあ、慈悲深いナタナエル様に感謝することだな」
「誰が……っ」
諸悪の根源に感謝なんてとんでもない。激情に駆られ射竦めんと睨みつけるも、睥睨する怜悧な眼差しとが火花を散らす。
「やれやれ。この期に及んで立場が分かってないようだな……」
嘆息したオクタヴィアは「やれ」と暗殺者に命令。波打つ琥珀色の長髪を掴まれたメルティナは地面と熱烈なキスをさせられた。無理矢理に何度も。鼻が折れ、血が噴き出しても構わずに。
「か、っは……っ」
息がうまくできない。窒息しかけて溢れた涙が視界を塞ぐ。それでも、周囲の冒険者たちから向けられる冷ややかな侮蔑の視線は全身に突き刺さり、抗おうとする闘志の炎に冷や水を浴びせて来る。
上体を引き起こされると、蹴りが飛んで来た。涙が吹き飛んだ視界で相手を見るが、殺気の籠った冷たい視線にビクリと身体が震え、心が折れた。
連れていけ。両脇から引っ立てられたメルティナは、項垂れながらその指示を聴いた。
失意の中、かつて別れ際に贈られた言葉が脳裏をよぎる。
『貴公のその世間知らずが、貴公の未来に暗い影を落とさぬよう、陰ながら祈っておるのじゃ』
言葉の真意が漸く分かった。彼女はきっと、遠からずこうなることを予見していたのだろう。
忠言は正しかった。そして、自分は何も分かっていなかったのだと痛感する。
まさか、自分の容姿が男性の劣情を逸らせるなんて。
両脇から抱えられ連行されている身体がひどく重い。まるで、自分の物ではないかのように五感への意識が遠ざかる。
「たすけて……」
それは自分が意図したものではなく、自然と口から零れていた。
誰にも気づかれなかった小さな呟きに「わかった」と、答える少年の声が鼓膜の中で微かに響く。
「破壊を司る炎神の杖よ。暴虐の戦刃に穢れる我らを聖炎で禊ぎ給え。【焼灼】」
煌めく炎が迸る。吹き付ける熱に顔を上げれば紅い閃光が視界を焼いた。
「誰が一体……っ」
動揺の声を上げるのはオクタヴィア。暗殺者が飛び退いたことで道の真ん中に膝を着くメルティナに、突如として強風が琥珀色の長髪を弄ぶ。そして、風に攫われ宙を舞った。
「え――――?」
呆気に取られて間を丸くしていると屋根に着地。抱き上げられていることに気付いて顔を上げると、そこには目元を覆う赤鬼の半面を被った少年の顔があった。端正な鼻立ちに切り揃えられた白銀の髪。同色の大きな尻尾が視界の端で揺れていた。
「大丈夫?」
顔を覗き込む少年の頭の上で、心配そうに獣耳がピコピコと小刻みに震えていた。長毛の大きな尻尾が身じろぎしてモフリと揺れる。