3話
小野寺小町の担当編集、記念すべき一日目
少し指を震わせながらインターホンを押す。音はなるが、中から反応はない。人が住んでいる気配すらない。何処かで道を間違えてしまったのだろうか。いや、スマホの中の矢印はこの場所を指している。
「すみません、本日伺うことになっていた林です。小野寺小町先生はいらっしゃいますか」
扉に向かって投げかける。しかしこれにも反応はない。
やはりここではなかったのか。もう一度住所を見直してみよう。
下りとはいえ、またあの道を歩かなければいけないのかと思うとため息が出た。
「鍵、開いているよ」
どこからか声が聞こえた。家の中か?声の主は小野寺小町なのか?
どちらにしても確認せずには帰られない。
ドアノブに手をかけ、少しひねる。
この扉の先に、ずっと憧れ続けた小野寺小町がいるかもしれない。自分の心臓の音だけが聞こえてくる。
「失礼します」
息を止めて、ゆっくりと扉を開けた。
扉を開けるとなにかのセンサーが反応したのか、パッと明かりがついた。
ゆっくりとと足を踏み入れる。一歩ずつ進むたびに、床がきしむ音がする。
誰の姿も見当たらない。どこか別の部屋にいるのかもしれない。
「こっちの部屋だ」
家に入ってすぐにある左側の扉から声がした。もう一度心臓の音が騒がしくなる。
「失礼します」
今度は思い切って扉を開けた。ブワッと風が巻き起こり、なんだかほんのりといい香りがした。
ワンルームくらいの空間だった。あまり物がなく、さみしい空間だった。その部屋に唯一ある窓の前に、椅子と机がある。
椅子には女性が座っていた。後ろ姿しか見えないが、黒くきれいな長い髪が女性であると表していた。
「あの、小野寺小町先生でしょうか」
震えた声しか出なかった。女性はゆっくりと振り返り椅子から立ち上がった。
動けずにいる僕にゆっくりと近づいてくる。近づくにつれ、女性の顔がはっきりと見えてきた。
シャープな輪郭に細めの目。顔が小さくてスラッとしたスタイル。長い黒髪も相まって、「大和撫子」という言葉が似合う綺麗な女性だった。
「君が新しい担当編集か」
「は、はい!本日から担当させていただきます。林空です。よろしくお願いします」
「そう」
その一言だけを吐き出して振り返り、もう一度椅子に座った。机の上に置いてあったティーカップを手に取りゆっくり口に運ぶ。この部屋に入った際に香ったのは紅茶の香りか。
先生は紅茶を飲むだけでなにも話さない。無言の時間が流れる。時計の秒針の音だけが部屋に響いていた。
「あの、先生」
気まずい雰囲気に絶えられず、口を開いた。先生は軽くため息をつき、カップを机に置く。
「三つ、ルールがある。守れないのなら今すぐ担当を外れてもらう」
「る、ルール?」
一、必要最低限のことは喋らない。
二、私には意見をしない。
三、家に来るのは月に二度。
「守れる?」
「えっと、色々と聞きたいことがあるんですけど」
「端的に」
「まず、必要最低限のことは喋らないというのはどういう意味でしょうか。作家と編集なんだから、それなりのコミュニケーションは必要だと思うんですけど」
「コミュニケーションなんてものは必要ない。打ち合わせも行わない」
「打ち合わせを行わない?」
本来、作家が新作を書くとなれば、どのような作品にするのかを編集者と打ち合わせを重ねるのが基本だ。
作品の方向性や内容を決めるのはもちろん作家。しかし、担当編集者もその作品がより良いものになるよう、意見しサポートをする。
なにも口出しされたくないという作家もいるため、編集者と犬猿の仲になってしまうこともあると聞いたことがある。
だから「私には意見しない」というルールがあるのか。
「では、家に来るのは月に二度というのは?」
「その際に出来上がった原稿を渡す。データで渡せれば良いのだが、生憎私はアナログ派だから」
確かに、この部屋にはパソコンがない。今どきの作家はパソコンで執筆するのがほとんどだ。データのほうが扱いやすく、直接会わずともやり取りができる。
若い女性がアナログ派だなんて珍しい。
「理解できたのなら帰ってくれる?」
長年思い描いていた小野寺小町のイメージとはかけ離れていた。先輩はわがままだと言っていたが、これはわがままと言うよりも「自由人」だ。
他人よりも自分を優先させてはいるが、言動の責任は全て自分で取るようにしているように感じる。自分のパーソナルスペースに他人が入らないよう、しっかりと区切っている。
それに加え、不思議なことにこの部屋で対面してから一度も目があっていない。僕がなにかを言葉にすると、先生は僕の目ではなく空中をなぞるように見る。まるでそこになにかがあるように。
「先生、僕、小野寺小町先生のファンなんです」
「それはどうも」
「だから、先生の担当編集になれて本当に嬉しかったんです」
小野寺小町の担当編集は降りたくない。
「僕、先生のすばらしい作品をこれからも読みたいです」
「だったら、守れるわよね」
「それは、難しいです」
「理由は?」
「今のままでも、すばらしい作品を書き続けることはできるのかもしれません。でも、現状をなにか一つ変えてみることでまた新たな可能性に出会えると思うんです。僕は編集者としての知識もスキルもありません。でもだからこそ、僕も先生も刺激し合って成長していきたいんです」
息継ぎもせずに早口で話してしまった。しかし、我ながらにいいことを言えたのではないかと思っている。
先生は先程と同じように、空中をなぞってうつむいた。
「君、多いな」
「多い?」
「今日は帰って。これ、原稿。また来月会おう」
ずっしりと重みがある封筒を渡され、有無を言わさず追い出された。入るときには鍵はかかっていなかったのに、今度はしっかりと鍵をかけた音がした。
熱量を持って話しすぎてしまったか。昔から夢中になると周りが見えなくなってしまうところがある。
正直に言って、以前から抱いていた小野寺小町のイメージは綺麗に崩れ落ちた。しかし、だからこそ変な緊張がなくなったのかもしれない。
担当編集として小野寺小町の今後の作家人生を支えたい。ただの一人のファンとして、あのひねくれた小野寺小町を世間の目に晒してはいけないとさえ思った。