5話:それぞれの進路と釧路への旅
45分ほどで到着し、昼のランチ定食を頼んで、マスターに手が空いたら
、摩周湖にまつわるアイヌの伝説を聞かせて欲しいと言うと了解しましたと
言ってくれた。30分後、食事を終えて、食器も下げてもらった後、
マスターが来て、摩周湖は神秘的な湖で数多くの言い伝えやこの景色の
神秘性から創作民話、他の民話を少し変えたものや祭りを盛り上げるため
に宣伝効果を狙った話もあると言い、有名な昔話を3つ選んで話をすると
言った。
1つ目が「ポンヌプリと雄阿寒」雄阿寒岳と雌阿寒岳は夫婦の山であった
が雄阿寒には北見留辺蘂の裏にあるポンヌプリという、めかけ山があった。
あるとき魔神のニッネカムイが現れて山のくせに妾を持つとは生意気だと
持っていた槍で雄阿寒を突き刺し何の罪の無い雌阿寒の頭をも突きとばして
しまった。雌阿寒の噴火口はそのときの槍痕であるという。二つの山を
痛めつけた魔神は続いてポンヌプリまで突き飛ばしたが、その槍先がそれて
七曲がりに止まり、その槍跡は深い沢になってしまった。この魔神の暴虐
に恐れたすポンヌプリは留辺蘂「るしべちょう」から逃げ出して
屈斜路湖畔に移った。
それが現在どの山か不明であるが、その山の一方から赤い水が流れて
いる。これは山の涙であるという。そしてポンヌプリのあった跡は沼に
なっているということである。こうしたことがあって以来、阿寒の人が
屈斜路湖上に出ると、必ず雨が降ると伝えられている。2つ目が
「阿寒湖のマリモ伝説」、昔阿寒湖に菱の実「ペカンペ」があったが、
阿寒湖の神様はそれを喜ばず邪魔をしていた。然しペカンペは、なんとか
神様の機嫌を取ろうと努力し
「私たちは出来るだけ仲間を多くしたいと思いますから、どうかいつま
でも、この湖においてください」とお願いしたところ、苦り切った
神様は「お前達を湖に置くとどうも湖が汚くていけない。それにお前達
がいると、お前達を取るために人間が多くなって、いっそう湖が乱れる
から置くことは出来ない」とペカンペの願いは、にべもなく神様に
断られてしまった。
我慢をし続けてきたペカンペもこの神様の冷酷な言葉に憤然として、
あたりにあった草をむしって丸めて湖に投げ入れここを去ってしまった。
そのペカンペにむしられて投げ込まれた草が現在のマリモになったと言う
のである。当時、アイヌはマリモを「トーサラウンペ」・湖の妖怪と言って
恐れていたと言う。3つ目が「魔神と戦った六十人の戦士と雌阿寒」別説
では魔神を退治に向かったのはオタスウンクルではなく国々から選ばれた
六十人の勇士で、十二日間に魔神の手下を全部退治したが勇士達も傷つき
あるいは殺され、二十人たらずになったが、最後に魔神の王を攻め激しい
戦いのうちにそれらの勇士も傷つき斃れ、最後に雌阿寒から魔王を引き出
して退治したのは、わずか六人だった。
この六人の勇士と国々の神様に厳重な談判をされた雌阿寒は泣く泣くその
罪を詫び、その償いとして魔神に殺された五十四人の勇士の屍体を集めて
、自分の持っていた薬を沸かして傷を治し、もとの達者な人にした。それで
アイヌはこの山をニッネアウンシリ「魔神の入った山」といって奉りを
しなかったが、その後怪我や病気の時に雌阿寒の薬湯で身体を治すように
なってからは、また奉りをするようになった。この話を聞いて重野が
美しい湖と山のおりなす摩周湖の景色が大好きになったと笑いながら言うと
、それでは、また、是非、再び、お越し下さいと摩周湖レストハウスの
御主人が言うと、必ず来ますと言った。
*なお摩周湖の伝説については文献を参照させていただきました。
ホテルのフロントで厚岸では一年中、旨い牡蠣が食べられるからいって
みると良いと言われ道の駅 厚岸グルメパークへ出かけた。そこの魚屋で
牡蠣、ツブ貝、魚と肉屋で牛肉をを買ってバーベキューができると教え
られ2人で早速、買ってきた食材を網の上にのせて焼けるまで待って
食べたが抜群の旨さで食が進む。家に帰ることは多分、体重増えている
だろう科との心配も、この美味しさにはかなわず、お腹いっぱい食べ
、近くを散歩して、多くの写真を撮ってきた。その後、霧多布湿原まで
足を伸ばし、とにかく広い湿原を見ていると川を悠然とカヌーを漕いでる
女性達に会った。
風蓮湖、温根沼の方まで足を伸ばし根室に到着した。沼と言っても
巨大でまるで海のような広さだった。根室の港を回ったが、これと言った
見所もなく、車で帰路について、途中のカフェで休んで夕方、釧路のホテル
に帰ってきた。その後、避暑のために来ていたので、疲れたら寝て、夕方
天然温泉の風呂に行ったりして、体調を整えることに重きをおいて1週間
が過ぎた。その後、ホテルのフロントに北方領土が一番良く見える場所を
聞くと釧路から近い所では根室か標茶町の北方領土館の前、中標津町海洋台
、別海町の北方展望塔、叫びの像と言った所かなと教えてくれた。
それを聞いて標茶町と別海町と中標津空港も見てこようと、車で出かけた。
釧路を出て国道272号線を北上して、1時間半で中標津空港へ到着した。
空港内に入ると2階建ての小さな地方空港と言った雰囲気。周りが広大な
土地と遠くにいくつもの山が悠然とそびえ立っていた。飛行場内には、
微笑ましい牛の親子の像が展示してあり心が和んだ。空港内のレストラン
に珈琲を飲んで、一休みして、早めの昼食として、カレーを食べて、
中標津空港を後にした。
30分足らずで標津町に到着。その後、標茶町の北方領土館を見学した。
望遠鏡があって、見てみると国後島が目の前に見えて、こんなに近いのか
と驚いた。外に出て、港を歩くと港に多くの漁船が陸揚げされ整然と
並んでいて、その向こうに国後島の山が、肉眼でもくっきりと見えた。
こんなに近いと、以前住んでいた人にとって、郷愁の念に駆られるのは
無理もない。首都圏にいては、この苦しみ、悲しみを知らない人が圧倒的
に多いのも現実。この一連の見学で自分達の無知さを思い知らされた。
その後、標茶町から知床半島沿いに羅臼町まで行った。羅臼の町を走る
と足湯の看板があり和船の中に温泉を引き込んで、座って足湯を楽しめる
ようになっていた。知床観光船がいくつも出てるようで看板が目に付く。
来た道を引き返し、途中のドライブインで休んで、お茶して、夕方16時
過ぎに釧路のホテルに帰り、風呂に入り、早めに床についた。その後
2000年9月10日、カーフェリーに乗船し、成田に帰った。