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4話:ヤフー株の成功で塾解散

 1973年4月7日土曜日、進学塾がはじまる前に重野陽子が佐光に実家

の母に、佐光さんと一緒に人生を歩むので、当分家に帰らないと話したと

報告した。佐光は、わかったとだけ返事した。その後1975年に252名

になり、生徒の数が増えたが、以前通りにスケジュールで授業を続けて、

1975年も志望校への合格率90%を維持して、その後、1976,

77,78年も順調に合格率を維持していた。1979年に生徒数が

303人になり300人を超えたが、いままでのスケジュールで替わらず

、毎週、土日、6時間ずつの授業を継続して、1979年も270人が

志望校への進学ができ、目標通りで、1980年を迎えた。


 1980年2月に大屋と佐光はファナック株を650円で2千株

130万円で買い、残金が20万円となった。1980年も新規の高校生

3年生が304人が入塾してきて、翌年1981年の受験も志望校合格率

90%を維持して順調だった。1981、82、83、84年も問題なく

、進学塾の経営ができた。1984年12月26日の塾の忘年会の席でと

進学塾の経営を安定させて、我々の生活基盤をしっかり築くため、塾経営

を中心に頑張っていこうと佐光が言うと、全員が了解した。


 それ以降、最低300人以上の塾生確保を継続させるための活動を継続し

、1人当たり、最低でも年収400万円以上稼ぐ事を目標に掲げた。仮の話

だがと、藤岡が前置きし佐光と重野が金ができたら、東京から比較的近い所

で古くなった農家を買って暮らしていきたいと将来の抱負を述べた。その後

、1985~1995年までも問題なく進学塾は経営でき順調に進んだ。

個人的にも蓄えができ、解散する時に余剰金が出たら分配すると藤岡が言い

始めた。それを聞いて、重野が、えーほんと?、信じられないと笑いながら

言った。


 その後、ヤフー株の佐光俊充が昔、金縛りの時にヤフー株が史上最高値と

聞いていたので、ヤフー株の上場後の買いを奨めた。そして1997年11月

4日に上場し11月5日200万円で土屋、佐光、藤岡が1株ずつを200万円

で買い、土屋、佐光の残金が200万円となった。藤岡は残金が2000万円

となった。その後ヤフー株は1999年3月26日と9月27日に2回の2倍

分割し1株が4株になった。そして、2000年2月22日に佐光と大屋は

全株4株を成行売りし1株16900万円で売り、税引き後利益が6億円で

土屋、佐光の残高が6億円になり、藤岡の残金が7.2億円となった。


 そして2000年3月15日で進学塾を解散することにすると発表した。

結局、藤岡の残金が7.2億円、大屋と佐光と重野が6億円となった。そんな

時に藤岡がシティバンクの情報をおしえてくれ、佐光も奥さんとそれぞれ

1千万円の口座を作り、ゴールドメンバーになり、その恩恵を受けた。

特にクレジットカードとドルカードは興味深かった。その他、口座開設の

商品の豪華さにも目を見張った。2000年3月30日、盛大に30年間

続けた進学塾の解散式を池袋で行い、藤岡と大屋はハワイに渡り、地元の

小さな商店を買い、商業ビザで仕事を始めて地元の日本人経営の不動産会社

で修行を積むつもりだと将来考えると話した。


 佐光は、早速、大きな農家を探して、家を建てるつもりだと、自分達の

将来像を語り合った。その後、佐光俊充は上野駅近くに10万円の2LDK

60平米の広い賃貸マンションを借りて住むことにし、トヨタのプリウスの

中古車を200万円で購入した。ところが2000年5月になると日本の

ネットバブルが初めて、ヤフーを始めソフトバンク、光通信など値がさ株

が急落して、その悲惨な状況を見て、藤岡と大屋はハワイに渡るのやめ、

佐光も大きな農家を捜すのをやめて、しばらく様子を見ることにした。

夏になり気分転換に7月28日から佐光と重野は北海道へ向かう計画を

たてた。


 佐光と重野は上野から大洗へ車で向かい18時に大洗港に到着して乗船

手続きを取りフェリーに乗り込み、部屋に入ってゆっくりした。20時前に

出港し、翌7月29日の13時半に苫小牧港に到着した。その晩は千歳の

ホテルに入り1泊した。、翌7月30日の朝、車で東に向かい石勝線沿いに

走り、昼頃に帯広について、十勝名物、豚丼の店に入り甘辛いタレの旨い

豚丼をたらふくいただいた。一休みして、池田町に立ち寄りサイン工場を

見学してワインを購入し、更に、東へ向かい、夕方には釧路に到着して、

チェックインして、釧路の魚の旨い店をホテルで教えてもらい、奥さんと

2人で食べに行き、ホテルに戻って来て池田ワインをあけて、飲んで床に

ついた。


 翌、7月31日は、摩周湖へ向かい車を飛ばし、摩周湖第一展望台からの

湖の反対側の山を眺め、多くの写真を撮った。その後、更に先に進んで、

摩周湖第三展望台へ行き摩周湖を眺めてみるとカムイアンヌプリの姿が

真正面に見え、その姿をはっきりと見ることができた。摩周湖第三展望台

からじっくり景色を眺めているときに、近くにいた観光客が裏摩周湖展望台

も面白いから行って見ると面白いと言われ1時間程でつくからと言われた。

 そして、さっき見て来た摩周湖第一展望台近くの摩周湖レストハウスの

御主人が摩周湖に伝わるいくつかの伝説を知っているから、食事して聞いて

見ると気軽に教えてくれるよと言ってくれた。


 そこでまだ時間が早いので国道391号線を北上して空いていたので

飛ばして裏摩周湖展望台に行くとカムイアンヌプリの反対側から見ることが

でき湖に突き出た大きな島のようにも見えた。また、駐車場からも多くの

周りの北海道の山がいくつも見え、壮観であり、多くの写真を撮った。

次に気になった摩周湖レストハウスに向かい、そこで昼食をして摩周湖に

まつわるアイヌの伝説を聞こうと考えた。

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