3話:進学塾開始、佐光と重野の結婚
そしてアパートを見て、これはひどい、私が家賃支払うから、もっと良い
マンションに引っ越そうと言うので彼女に任せると言うと池袋から20分以内
の場所を1日かけて探し回ると東武東上線の和光市が環境も良いし池袋まで
16分行けることがわかり、この周辺を探し回ると駅から徒歩10分、自転車
で数分のマンションの2DKが家賃6万円で借りられることがわかり、直ぐに
決め、佐光と重野が同棲を始めた。そして引っ越した事を藤岡隆三、大屋に
伝えると、藤岡がうちも和光市だと教えてくれた。
7月12日、藤岡が佐光、大屋、重野に明後日、進学塾の場所を探しにいくと
連絡が入った。7月14日10時、池袋の東上線改札出口で待ち合わせ、近く
の喫茶店に入り話し合った。その時に藤岡が日本株投資で資金作りをしたいので
、土日だけの進学塾にしたいと言うと特に異論がなく了解された。そして藤岡
と大屋、佐光と重野の2人で3グループに分かれ家賃10万円で池袋から近い
、マンションで最低50人から100人入れる会議室を探そうと決まり、
終了は午後17時に、この場所に集合となった。
3グループに分かれて近くの不動産屋を訪問し始めた。しかし家賃10万円
では、なかなか良い物件が見つからなかった。やがて17時になり、集合して
、喫茶店に入り、聞いてみると3軒が該当し、駅から一番近い、徒歩15分の
6階の奥の部屋で土日限定で10万円が良いのではないかと決まり、全員で
、出かけてみた。行ってみると北側でエレベータから一番遠い部屋でトイレもなく
、長机と長椅子が無造作に置かれて、黒板があるだけの簡素な作りだった。
これを見て重野さんが会議の時に飲み物がないとダメねといい1クラス何人で、
何時間授業するのと藤岡に聞くと最低10人以上できたら20人以上で授業時間は
2時間単位で授業は進学塾だから補習事業ではなく質疑応答形式でより実戦的な
進学指導をしたいと言うとわかりましたと言った。授業の時には基本的に全員に
参加してもらい全教科の質問に答え様と思っているというと異論なく了解された。
最後に、大屋が、藤岡に、採算取れるのかと聞くと、最初は、難しいと思うが、
何としても、多くの生徒を集めて、早急に黒字化したいと笑いながら言った。
ところで月謝はと、重野が言うと、あ、そうだと藤岡が言うと、大笑いになった。
重野が5千円、佐光と大屋が4千円、藤岡が3千円と言い俺が資金出すの
だから3千円で行こうと言うと、無理すんなよと言い、駄目になりそうだったら
すぐ言ってくれと大屋が言った。そして、講師の給料は月に10万円と言うと
、それじゃ赤字じゃないと言うと仕方ないさ、みんなで頑張って黒字にして
いこうと言って、部屋を出て来て、不動産屋へ行き、藤岡が代表として、
契約してきた。7月25日土曜日に開校する事にして、明日、7月15日から
池袋、新宿、渋谷、東京でビラ配りを佐光と重野、藤岡と大屋の2人ずつに
分かれて、やることにした。
明日は、各自、手書きしてコピーしてきて欲しいと言った。費用は領収書
と交換で支払うと藤岡が言った。7月15日から進学塾開校のちらしを池袋、
新宿、渋谷、東京で若い人に配った。その結果、7月25日には、高校生
168人が集まり土曜の10時~11時、11時半~12時半、13時~14時
、14時半~15時半、16時~17時、17時半~18時半の6回、土日2日
で12回、1回14人平均。3人とも、経済学部出身で株の情報を持っていた
ので、平日は、株投資をしようと言うことになり、お互いに電話で情報交換
することにした。必要な時には、
藤岡の和光市の実家の離れを借りて日本株投資の勉強会を開くことにした。
藤岡は投資予算30万円、大屋と佐光は10万円だった。やがて1970年
10月になり10月3日土曜日に進学塾が始まり、上々の滑り出しで土曜の
午後16時から17時と、日曜日の16時から17時の勉強会を開き、最初
から質疑応答の実践形式ではじめると、かなり優秀な生徒が多く、個々に
進学したい大学がわかっており的確な指導ができたようで12月の高校での
一斉テストでも成績を上げた生徒が多く喜ばれた。
その後1971年になり受験生全員に、その合否を必ず知らせてるように
勉強会の時に伝えた。やがて、1971年3月を迎え、志望校に合格できた
のが168人中148人で合格率88%となり、合格した大学名を書いて、
合格者数を書いた表を進学塾の窓と教室にに貼りだした。翌年の3月毎週、
新宿、渋谷、池袋で進学塾のビラを配り、高校生の授業料3千円と書いて、
道行く人に配りまくった。そして1971年の新年度は208人、今年も
質疑応答形式で授業を進めた。ちなみ3人の講師の月給、10万円だった。
やがて1972年となった。1972年3月の志望校に合格できた人数は
183人で88%の合格率だった。この合格率88%は、他の進学校に
比べて、十分に対抗できる素晴らしい成績だった。1973年は223人と
なり1クラス19人となったが同じ方法、質疑応答形式で授業を継続した。
こうした方が各人の能力に応じた進学のための教育ができるからだった。
人数が増えた分、講師の月給も15万円まで増やした。1973年5月1日
火曜日、重野陽子が佐光俊充に、おりいって、お話ししたいことがあります
と言い、佐光を呼び出した。
喫茶店が開いたばかりの10時頃、人に聞かれないように奥の席に座った。
そして、話し始め、重野が佐光さんのこと、最初、尊敬していたがその尊敬の
気持ちが愛情に変わったと言った。でも私自身が人に束縛されるのが嫌いで
、同じところで同じ事をずーと継続するのは苦手なので、ふらっと一人旅に
出たり、勝手なところがある。そのため、きちっとした結婚というのは、
あわないかもしれない。でも、佐光さんのことは大好き、一緒にいたい、
だから一緒にいさせて欲しいと言った。自分勝手なところのある私だから
佐光さんと正式に結婚して束縛する事もしたくないので、内縁の妻で良い
のですと、精一杯の勇気を振り絞っているような顔で話した。
それを聞き、佐光が僕もその方が性に合ってるかもしれないと答えた。
最後に、重野が私小さい頃に大病をして、あまり長く生きられないかも
知れないし、子供は作れない可能性が非常に高いとも医者に言われたと
打ち明けた。その話が終わると重野は感情が高ぶったのか涙を流し始めて
、ハンカチで拭っても拭っても、涙が止まらなかった。すると佐光が重野の
手をしっかり握り、わかった大丈夫、しっかり守ってやるよと告げた。
それに対して、わがままな私ですけど、今、佐光さんを好きという気持ちに
嘘はありませんと伝えた。しばらくして落ち着いて昼食を食べてから
外に出た。




