2話:吃音で、たまらず退職
この話を歩きながらメモしていると何かにつまずいて床に転げたと思ったら
目覚めて机から身体を起こした。すると親切なおばさんからもらったジャンパー
を着たまま戻って来た。しかし現在では、こんな派手なジャンパーはないので
タンスに直ぐしまった。その後、1969年を迎えた。佐光俊充は人と話すのが
苦手で吃音もあり悩んでいた。また頭の回転が速いが人に説明するのが苦手で
理解してもらえないと面倒臭くなり何回も説明するのが嫌になるのだった。
そのため大学でも友人が少なく大学の時代の友人は同じ吃音に悩む藤岡隆三と
説明が苦手な大屋泰治の3人だけだった。やがて1970年を迎えた。卒業論文
の作成が始まり夜遅くまで勉強する日々が続き、あっという間に1971年と
なり入社試験を2社受験して、MB銀行から採用の内定をもらった。そして
1971年3月に東京大学経済学部を卒業してMB銀行日本橋支店に入行した。
研修の2ケ月が終わり窓口業務をはじめると吃音の問題で業務変更となり
営業部に回され、毎日、外勤をさせられた。
外勤を始めて1ケ月が過ぎたある日、訪問した、お宅でMB銀行の商品説明
をしてる最中、突然倒れた。電話で、その知らせを聞いた佐光俊充の上司の
木下課長が、その家を車で訪れ佐光を車に乗せ、近くの総合病院へ行った。
病院に着く頃には佐光は我に返った。この状況を木下課長が病院の受付で説明
すると、とりあえず内科を受診して下さいと言われ30分ほど待たされ、
血液検査を受けるように言われ1時間ほどで終えた。
その後、内科外来で30分待ち受診を受けた。佐光がいろんな質問を受け、
血液検査、脈拍、動向、血圧、体温を測り、大きな病気ではなさそうですと
言った。多分、自律神経失調症でしょうと言い、吃音も極度の緊張、つまり
あがり症が原因でしょうといった。自律神経失調症といっても、大きく4つの
タイプがある。一番多いのが心身症型自律神経失調症で自律神経失調症のうち
の半分がこのタイプと言われている。原因は日常生活のストレスを無理に抑える
ことによる発症する。すると佐光が人前に出ると上がるタイプですと言い緊張
して吃音になると打ち明けた。
心療内科に行くと良いが、まだ東京でも少なく、どこも混んでいて治療費も
自己負担が大きいので富裕層しか受診してないのが現状だと話した。その他
、神経症型自律神経失調症は心理的な問題でおこり自分の体の不調に敏感な人
、くよくよしがちな神経過敏の人に多い。本態性型自律神経失調症は生まれ
つき自律神経の働きが乱れやすい。低血圧、虚弱体質、体力に自信がない人
に多い。抗うつ型自律神経失調症は原因が慢性的なストレスの蓄積などによる
うつ反応。几帳面で完璧主義の人に多い。
この病気の場合は抗うつ気分を治療するため抗うつ剤を服用すると症状が
改善すると説明された。この話をきいて、全て、あてはまるところがあると
佐光が答えた。一番簡単な治療法はリラクゼーション法などによるセルフ
コントロールが効果があると言い、その中の1つ自律訓練法は、催眠療法
から発展したもので、自分で自己暗示をかけて睡眠に導くことで、心身の
緊張状態を緩和する。自律訓練法はコツを習得することで体調をセルフ
コントロールできるようになるのと言った。
大きな本屋で捜せば詳しくリラクゼーション法の解説本があるはずだと
教えてくれた。この先生の話を聞いて木下課長が営業活動は、やめさせた方が
良いでしょうかと先生に聞くと、できれば、その方が良いと言った。そして外来を
終えて診察室を出た。MB銀行に帰り、その話を木下課長が人事部長に話すと
、東大でのエリートだから辞めてもらいたくないしと言い、仕方ない、内勤して
、女子行員の計算のチェックでもしてもらおうと人事部長が言うと、お心遣い
、ありがとうございますと木下課長と佐光が頭を下げた。
その後、計算が間違いない日が多く17時に家に帰る生活が始まり身体は楽に
なったが充実感がなく女子行員からも冷ややかな目で見られた。同期の男性社員
からは特別待遇の佐光は仲間外れにされて1人だけの昼食の日が続いた。そんな日
が1年続き吃音も一向に改善されず会社に来るのが嫌になり1972年の夏の
ボーナスをもらった後、体調不良を理由に、辞表を提出し、受理された。そして
1972年6月30日退職した。
すると藤岡隆三も大屋泰治も1972年8月には企業のペースになじめず退職
した。そんな失意の時、東大時代に投資クラブで親しくしていた重野陽子さんに
電話をして久しぶりに会った。そして、佐光俊充がMB銀行を退職した話を
すると、同情してくれた。次に、佐光が重野さんに現状を聞くと、父と兄が
マンションで開業医をして、姉が薬剤師で薬局、医療事務を自分がやっていて
、いつも変化がない生活で面白くないと言い、自分が学んできたことを全く
生かせないのに不満がたまっていると打ち明けた。
だから我慢できなくなったら退職金をもらって辞めたいなと言った。私、
こう見えても、小さいときから親戚の人達からもらったお年玉をしっかり貯め
、貯めたお金を父に言って日本株で運用しているのよと言った。その金額は
既に300万円を越えたと言った。その後も月に1回程度、4人の仲間と会い
、楽しく話をし、1972年が終わり1973年を迎えた。そして1973年
4月1日、藤岡隆三が父から100万円を借りて、貸事務所を探し進学塾を
やってみないかと言い、大屋も佐光も、その話にのって3人で進学塾を始める
ことにした。
この話を重野陽子に電話で知らせると、是非、私にも参加させて下さいと
言ったので、佐光が藤岡に聞くと、最初は、たいした給料を払えないが、
それで良ければ大歓迎だと言ってくれた。その話を重野陽子にすると大喜びした。
数日後の藤岡隆三、佐光、大屋、重野の4人が集まって、進学塾の話をし、
数学を藤岡が、理科と社会を佐光が、国語、論文他を大屋、英語を重野が
担当することに決まった。その後、7月10日に重野が突然、佐光のアパート
へ現れた。驚いて経緯を聞くと、重野が父に、医療事務の仕事を辞めたい
というと激怒され出て行けと言われ退職金が欲しいと言うと100万円渡す
から二度と、ここへ来るなといわれ仕方なく佐光君のアパートに来たと語った。




