花井里美の事件
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同じ場所にはやはり地下へと続く階段がある。
昨日の帰りには無くなっていたのに。壁をさわって確かめたはずだ。しかし、今日になったらまた出ていた。
夢じゃなかった。
深く考えると脳は大量の酸素を使うという。必要以上に使うとどこかにその穴埋めがきてしまう。要は忘れちゃいけないことを忘れたりすることも起きるので、考えるのをやめてみた。
だって、いくら考えたって私の新しい仕事は……
『猫のお世話』なんだから。
階段を下りていくにつれ、体にあたる空気は冷たくひんやりとしてくる。壁の左右には緑色のつたが絡まり、青いにおいが鼻にまとわりつくが、それすらもこの新宿のど真ん中の路地裏には心地よかった。
重厚な鉄の扉に手を当てたらぽふっと音をたてて内側へ開き、中からオレンジ色の光がこぼれてきた。
「……はよーございまー……」
自分にしか聞こえない声での挨拶だったのがいけないんだと思う。返事が無いということはそういうことだ。
部屋の中は昨日と変わらずミントのいい匂いが漂っている。違うことはといえば、どこにも猫の姿が見あたらないこと。一匹たりとも見当たらない。
あんなに探していた黒猫だっていまのところ見つけられていない。更にはコテツやノリコの姿すらも見えない。いる気配すら感じない。
「すいません、占い師さーん」
少し大きめの声で呼び掛けてみた。
「あ、おはよう。来てたの? ほら、学校でもなんでも朝来たらまず大きな声で挨拶しないと。幼稚園で教わったでしょ。覚えてない? 忘れちゃったかな?」
くっ……
清々しい朝なのに嫌味からのスタートはぜんぜん嬉しくない。
しかめっ面に無理矢理笑顔をはっつけ、今度は聞こえるように大きな声で挨拶をしてやった。
目の前の占い師さんは、麻素材のパンツにゆるいTシャツで楽チンな格好。それに素足だ。髪の毛は寝起きのためなのか寝癖がついていた。
裸足ってことはここ土禁かもしれない。と、思い、歩き出そうとした足をひっこめ、もじもじと靴を脱ぎ……
「あー、いい、いい。靴脱がなくてもいい。この部屋は大丈夫。でも奥は脱いで」
「あの、でも、占い師さん裸足だし」
「出雲」
「はい? あ……、ああ、あのその、なんだ、出雲さん裸足だし」
「僕はいいの」
それより来て。と、手招かれて着いて行けば、キッチンのところには私のやるべき仕事がリストアップされていた。
「じゃ、よろしく」
なんの説明もなしに手をあげるとそのまま奥の部屋に引き返し、部屋のドアを開け……
「絶対にここ覗かないでね。絶対にだよ。何があってもダメ。やめてね、約束できる?」
と、目の前の部屋を指さした。
「人の寝室なんて覗く趣味ないですからご安心を」
「あっそ」
あからさまにつまらなそうにしながら奥へ入っていく失礼な占い師を見やる。
その時の気分で『俺』って言ったり『僕』って言ったり『私』って言ったりするのも気になるけど、ひとまずキッチンの上に置かれた『トゥードゥーリスト』なるものを手に取った。