おまけ 朝倉湖の事件
「ごめん湖。まじでごめん。別れてくれないかな」
あと数時間で33歳の誕生日を迎えるという時に突き付けられた、心臓に悪い別れのことば。
しばし時間が止まって立ち尽くす私はこの現状をどう捉えていいのかわからなかった。
予定ではこれから誕生日パーティーが始まる。
場所はミシュランの星つきの素敵なレストランで今までに食べたことのないような食事をして、美味しいシャンパンやワインが出てきて、ほろ酔いになって、
サプライズ演出なんかで最高潮に達し、ドレスに身を包んだ私を見ず知らずのみんなが祝ってくれる。
それでそれで、おもむろに指輪の収まっている箱をパカッて開かれて、ダイヤモンドが一番きれいに輝く角度でカットされたブリリアントカットっていうなんかそんなかんじで光の当たる方へ光を放つリングを私の前に差し出して、
『俺と結婚してください』って言われるものだと思っていた。
現実は、自宅アパートの玄関先。家賃5万3千円のアパートの二階の玄関先で、かれこれ8年付き合った彼氏に別れを切り出されているところだ。
前田琴♂35歳。つい1分前まで私の彼氏だった。中堅どころの会社に大卒で入り、可もなく不可もなく真面目に働いてきている。人事の仕事に携わっていて、彼自信、仕事にも遣り甲斐を持ってやっていた。
仕事が楽しいとも言っていた。それっていいことだ。
しかしながら、お給料のほうはなかなか喜べるものではなかった。
多くもない。かといって少なくもない。言葉通り、『ほどほど』だ。
例えば、今の会社でキャリアを積んで、今よりも条件のいい会社に転職したくない? と聞いても、『俺はいいよ、今のところの人間関係だって好きだし』とやんわりと断った。
それなら他のスキルを身につけてみるとか? 今の仕事に役立つスキルを身につけたら仕事の幅も広がるし、自分にとってプラスに働くかも。もっと楽しくなるかもよ。と別の角度からアプローチしてみても、さらっと『んー、考えてみるよ』とかわされてしまう。それ以上言うのはやめた。そんな感じでたらたらと時間ばかりが過ぎ去ってしまったわけだ。そして現在、一方的に別れを切り出されている。
一方的に別れを切り出されても、つい昨日まで至って普通だったんだから理解に苦しむわけだ。てか、無理。だから、
「ちょっと待ってどういうこと? だってそんなのって。昨日までなんともなかったのに、なんでいきなりそうなるの?」
「ほんと悪いと思ってる。でもごめん」
「ごめんじゃなくてね、理由はなんなの? ぜんっぜん分からないよ。なにがあったの?」
一体なんでそうなったの? なんで昨日の今日でそんなことが言えるのか。
「私なんかした? だったらちゃんと言って。じゃないと何が悪いのかとか、ぜんぜん分からないよ」
「いや、そうじゃなくて。悪いとかじゃなくて」
「悪いとかじゃないなら理由は何?」
「いや、そのごめん。もうあの無理なんだよ」
「それじゃ分からないよ。ちゃんと話して。聞くから」
「いや......その、だから、別れてくれって」
「だからなんで? だって昨日まで普通だったじゃん」
「おまえ、重いんだよ!」
「重い?」
できれば、本来だったらまったくもって嬉しくないけど、今は体重の話であってほしいと願った。
「なんか、俺無理だよ」
「そんなこと、それならちょっと話し合えばさ......」
「話し合う必要は無いよ」
結局彼は、私じゃなくて、自分が自分でいられる場所を新たに見つけたわけだ。
今のありのままの彼を受け止めてくれる子。いつもニコニコ、『あなたのやりたいようにやってください。私はついて行きますので』と言う子。
しかもだ、どこぞの会社の令嬢だということだ。
そして、ほいほいとその子の親の経営する会社に転職を決めたと言った。驚いたことは、今まで私がどんなに言っても傾きもしなかったのに、
『今のところよりもお給料もいいし待遇もいい』と言い放った。
彼女は彼のような純粋にひたむきに文句も言わずたんたんと仕事をこなし、自分にだけ好意を寄せてくれているところが気に入ったそうだ。
その新しい彼女と一緒になるという脅威的なことを悪びれる様子もなく言い放った。
『彼女とは別れられるよね? あなたはそのままでいいよ。大丈夫。そのまんまのあなたが好き。私、ついてくよ。楽しい家庭を築こうね』
という言葉をかけられたそうだ。へらへらしながら言っていた。
その子は私という存在がいることを承知で付き合っていたというからなんともまあやりきれない。
「湖もいつも言ってただろ? 向上心を持てって。だから、持ってみた」
何をこいつは胸はって言ってるんだろう。私のことをなんだと思ってるんだろう。
そんなこんなで、あっさりと私を捨てて彼女に乗り換えた。と、そういうふうに言っておきたい。捉えたい。
私はそこまで悪くないと思いたい。
「というわけでね、別れたの。てか、ふられたの」
と、私は管を巻いている。行きつけのバーで。
水曜日の夜。週の中日は意外と暇で、バーには私しかいない。
「ねえマスター、私、なんか悪いことしたのかなあ」
「はあ、今までの話を聞くからにはしていないと思いますけどね」
あたりさわりないことを言うマスターは営業モードだけど、ちゃんと聞いてくれる。
夜野星マスターの名前。これが本名だというんだからインパクトありありだ。
「ねえねえねえ、営業モードはやめてよ、ここに何年通ってると思ってるの?」
「8年ですかね」
「そうでしょ。私の事全部知ってるでしょ?」
「全部かどうかはさておき、だいたいそうですね。歴代の彼氏たちのことや、どういうわけか仕事が派遣社員で転々としていることとか、そのくせ求める男の人のレベルが高いとか、将来像があって、少なからずこだわりが強いところとか、テキーラサンライズが好きなところとか、知ってますね。はい、テキーラサンライズです」
「それはどうも」
テキーラサンライズを受け取り、ぐいっと煽る。
「そんなに飲んだら明日の仕事に響きますよ。って渡したの俺ですけどね」
「いいの。もうそろそろ契約切れるから明日にでも辞めてやる」
「また仕事なくなりますよ」
「いいよもう。どうでもいいわ」
「......お水飲みます?」
「帰したいわけ?」
「心配してるんです」
「仕事無くなって困る人いないし」
「......そこですよ。ご自分が一番困りますよ」
「なにがそこよ。困らないし。また探すし! 酒」
「おいしいチョコレートドリンクがありますけど」
「ちょうだい」
「はい。ああ、そうだ。近いうちにね、面白い人に出会えますよ。彼は変わってるけどきっと朝倉さんと合うと思いますよ」
作ってくれたのはただのチョコレートドリンクだったような気がした。
なんか最後に言ってたけど、でも、そこで私は記憶があいまいになって......




