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甲乙たけしは今耳に届いたあり得ない言葉に力なく涎を垂れ流し涙を流し失禁した。
「そんなこと……ない。誰にも人の寿命は分からないんだ。お前に俺のことが分かってたまる……か」
「そう思うならそうやって思っていればいいさ。さ、朝倉君、帰ろうか」
出雲さんは甲乙たけしの横を抜け、くしゃっとなっている麻袋をそっと持ち上げた。そこには壁にべったりと張り付いて丸く小さくなって震えながら唸っている白猫の姿。いつもノリコと一緒にいる母猫がそこにいた。白子さんだ。はっきりそう感じた。
「おいで」
恐怖に出雲さんを認識していない白子さんは牙を出して威嚇した。それを軽く無視し、持ち上げ胸に抱いた。とたん、飼い主のにおいを認識した白子さんは大きく鳴きはじめた。
小屋の出口へと颯爽と歩いていく出雲さんを置いて行かれないように追いながらも私は甲乙たけしのことが気になった。このままここに置いて行っていいものだろうか。後ろ手に縛られているから身動きがとれないだろう。
先に猿を抱えて戻った向井さんが警察に連絡しているのか。もしくは櫻井さんのどちらかがきっと園長にも連絡しているはずだ。
櫻井さんは出雲さんと小屋の裏で会い、あれよあれよという間に犬とともに事務所へ帰されていた。
「これで園長も気持ちが変わるだろうね」
「……園長の気持ち? なんでですか?」
「君は本当にあれだね。なんで分からないのかが僕には分からない」前を見ながらまたしても暴言を吐く。
「……わからないですよ。教えてくださいよ」
「まあ、いいよ」
そうなのだ、私はこの場合、素直に開き直った方が出雲さんはすんなり教えてくれるという技を心得た。これだってジャッキーのおかげだ。彼は分からないことはちゃんと分からないと教えを願っていた。これからだって私はジャッキーに学ばなければならないことがたくさんある。
「園長は甲乙たけしの父親だからさ」
「は」
「顔顔。頑張っても綺麗じゃないんだから。顔直して」
開きっぱなしの口を閉じ、顔を直し、
「甲乙さんと園長さんって、親子だったんですか!」
「そうですよ。息子ということを隠して働かせてたんでしょうね。だからこそあの小屋を任せていたわけですよ。普通に考えてあの小屋を使いたい人はここには結構いるはずでしょう? ここは研究者が多いんですから」
園長は自分の息子が何か儀式的なことをしているのに気づいていた。しかし息子に対し負い目を持っていた園長は気づいていても強く言えず、更に警察ざたにしたらここを辞めさせなければならない。そうなると次の就職先がどこもなくなってしまう。今後の人生を考えた時、やはり自分の目の届くところに置いておいたほうがいいと考えた。
しばらく時間を置けば変な儀式はやめるだろうと思っていたが思いのほか彼はエスカレートしてしまった。最初はおそるおそるだったと思う、しかし誰も気づかないとしたら、人はエスカレートする。悪いことなら更に。
「悪い噂は広まるのが早い。園内にもその悪い噂は広がった。と同時期に動物の窃盗が始まった。盗みは更にひどくなった。自分では止められない。これでは収拾がつかないと焦った園長はつてを頼って僕のところに話しを持ってきたわけですよ。いい迷惑ですよ。ねえ、そうでしょ園長」
小屋を出たところで出雲さんは小屋の扉の裏側に向かって声をかけた。しばし後、観念した形で背を丸めて出てきた園長は目に涙をいっぱい溜めていた。帽子を取り、「本当に申し訳ありませんでした」と九十度に腰を折って頭を下げ続けた。何も言わない出雲さんは甲乙たけしを見る目とはまた違った目で園長の薄くなった頭らへんに視線を落とし、
「うちのものは傷つけないという約束でお貸ししたんですが、二人とも傷つけてくださいまして」
「そ、それは本当にすみません。まさかそんなことするとは」
「本当に? 分かってたんじゃないですか」
「そんなことは」
「一パーセントも無いって言えます?」
「ううう……」頭を垂れた。
懐から出したのは請求書だろうか。
「まあ、僕は自分からは警察には言いませんけどね」
「本当に、本当に本当にありがとうございました」これ以上追及されないことに深く頭を下げ、膝に手をつきその恰好のまま動かない園長を無視し、事務所の方へと歩いて行ってしまった。
私は園長に、
「頭を上げてください。中に甲乙さんいますから、見てあげてください」
と言い、それでも何も言わない園長の足元に水の玉がぽたぽたと落ちているのを見て、はっとし、「それでは私たちはこれで」と、足早に出雲さんの背中を追った。
「ほんとに君はデリカシーがないね。あの感じは泣き崩れる寸ででしょう。男は涙を見られたくないものなんですよ。特に女性にはね。仮にも不細工だったとしてもです」
「ちょっと待ってください。今軽く私のことディスりませんでした? ねえ、ディスりましたよね?」
「ふん。俺はそれを良しとした」
「そのフレーズ!」
その時、後ろの方で『ぅひぃぃぃ……』という奇妙な声が聞こえ、小屋のドアに寄り掛かったような音が聞こえた。
出雲さんの横顔には悪い笑みが浮かんでいた。たぶん、きっとそうだと思うんだけど、とんでもない額をつきつけたに違いない。
「僕を怒らせるから悪いんです。約束と違う時にはそれなりのことをしてもらわないと。その場合、これで手を打つのが手っ取り早いでしょう」
親指、人差し指、中指をこすり合わせた。
「それに、僕のものに傷をつけたのですからそれなりの代償もね。君のお腹はかすり傷でよかった。その脂肪にお礼を言っておくといい」
「はっ! お腹視たんですか!」
「ええ。血が出ていましたから」
「誰に断りなく! 考えしか見ないって言ったじゃないですか!」
「お礼を言ってもらいたいのは僕の方です。もう痛くないでしょ」
確かに、痛くない。服の上から触ってみたけれど、既に痛みは消えていた。
「この動物園はもう終わりにしてもらいましょう」
誰にともなく言った出雲さんを敵にだけはしまいと固く心に留め、一人こくりと頷いた。




