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「おっと、そこまでだよ。それ以上近づいたらこの人のこと殺しちゃうかもしれないよ」

 ナイフを麻袋に近づけた。

「白子さん! あんた白子さんに何したのよ!」

「まだ何もしていませんよ。言ったでしょう? ミルクに薬を仕込んだだけです。で、袋を被せて引っ張って連れてきた。それだけ。そしたら小屋に入ったとたん、猫みたいな悲鳴をあげて暴れたので腹を数回蹴りましたらぐったりと」

「蹴ったの? 今蹴ったって言った?」

「ええ、仕方なく」

「最低!」

「ありがとうございます」

 まあまあ今日はお日柄もよく晴天に恵まれて清々しいですなあ、とでも言う口調で普通の顔をして淡々と言っている。

「これもみんなあなた方のせいなんですよ。占い師さんでしたっけ。せっかく儀式の用意が完成して、全ての動物が揃ったところでなんとも厄介なあなたたちが首を突っ込んできたわけでしてね、あなた方が悪いんです。他人の家の事情に土足で入り込んできたんですから。でもよかった。女二人くらいなんてことはありません」

「っ……!!」

「おい、俺のこと忘れんじゃねえよ」


 小屋の壁がドンと音を立てて揺れた。なんとも薄い作り。櫻井さんが壁を叩いている。


「忘れてなどいません。彼女は犬を逃がしてしまったんですから。許されることじゃありませんよ。そこで彼女が殺される声でも聞いていてください。そのあと、向井君もあなたも殺しますから」

「向井さんも櫻井さんも殺す?」

「はい」

 黄色い歯を見せて笑い、ナイフを握りしめるとタンと地を蹴り砂ぼこりを舞いあげて距離をつめた。


 素早い動きに息を飲んだ。瞬時、ナイフは私の腹をかすめていた。間一髪、ジャッキー仕込みのくの字逃げが発揮された。つまり、腰を後ろに引き体を字のごとく『く』の字に曲げて避けるわけだが、そのおかげで刺されることはなかった。しかし、踏ん張った足は怖さに震えていた。


「あなた自分が何してるかわかってるの! てか、その足」

「ええ。邪魔者を消そうとしているだけです」

 器用にナイフを持ち変え、またしても私の腹を目掛けて懐に入り込んだ。その素早さに完璧には逃げ切れず、ナイフが脇腹をかすめた。甲乙たけしは足を引きずっているのに、早い。

 痛みと苦痛と怒りに震え、血が流れる腹をおさえて地に膝をついた。


「けっこう深く入ったでしょう? 出血多量で死ぬまで苦しんでください」と、赤く光るナイフを舐めるように眺めながら、目は最大限に開かれていた。


 このままじゃ殺される。


 足を肩幅に開いて腰を落として踏ん張っているけど、怖さで震えていて思い通りに動かない。手はファイティングポーズを決めてはいるが、がっちがちに固まっている。


 幾度となく擦りきれるほどに観て研究してきたジャッキーの手法はなんだったっけ。ナイフを持ったやつのやっつけかた、どっかにあった。どのビデオだ。思い出せない。怖くて頭が働かない。くそ、なんでそれを極めずに酔拳なんか練習してたんだ私。


「あなた方のような人のおかげで私の計画は水の泡。また一から作らなければならない。でも、ここを知ってしまったからには生きては帰れないんですよ。死んでもらわないと。ここを辞めるわけにはいかないので、なんとしても」


 体が動かない。前から歩いてくるのに逃げられない。その手にはナイフが光ってる。血がついてるのも見える。ここから逃げなきゃ刺されるのは分かってるんだけど、ダメなものはダメだ。


「怖くて動かなくなっちゃいました? そのまま突っ立っていてください。一瞬で殺しますから」


 この時間が恐い。ジャッキー助けて。

 どうしたら動けるようになるの。そこはまだ教えてもらってないよ。緊張のほどき方、まだ研究してないよ。教えてよ!


 ナイフが目の前に見える。笑いながら両手に握っている。それを私の腹目掛けて構えている。あとは私を刺すために前に踏み込めばいいだけだ。


 肩が大きく上下する。悔いはたくさんある。まだやり残したことだってたくさんあるのに。それでも白子さんは助けたい。ここで死にたくない。呼吸が乱れる。汗をかく。心臓が早い。震える。


 最後に白子さんの方を見たとき、そこには麻袋がしなだれて残されているだけだった。今まで見えていた白子さんの足や体はどこにもない。


 もしかして……


 迫るナイフの恐怖におののきながらも希望を掴んだ気がした。それを期待した。


「出雲さん! 助けて!」


 刺される寸前私は声を大にして叫んだ。師匠であるはずのジャッキーではなく、出雲大社の名前を叫んでいた。


 目を閉じた。腹に、身体中に力を込めた。

 痛みがくるのをこらえて体に力をこめていたが刺さる気配はいつまでたってもない。

 恐る恐る目を開けるとそこには……


「ふーん、あーそう。うちの子の腹蹴っ飛ばしたの君? それと僕のアシスタントを傷つけたのも、君?」


 甲乙たけしの目は飛び出るほどに見開かれていた。一秒前までいなかった人が目の前にいて、ナイフを持っている手はがっちりホールドされている。


 お洒落なデニムに黒いTシャツ。そこにはブランド物の「G」の字が角度によって浮き上がって見える。筋肉質な体(実際は弱いけど)に手入れのされたスニーカー。待ち望んでいた出雲大社の姿がそこにあった。


「君ね、」


 素早い身のこなしは無駄がなかった。初めて見たその動き。

 カキンと音を響かせてナイフが下に落ちた。それをきれいな弧を描くような動作で遠くへ蹴る。いつの間にか甲乙たけしの両手は出雲さんによって後ろ手に組まされていた。そのままかくんと膝を折られ、地面に膝をつけている。


「僕のものに手を出すとどうなるか分かる? 君は僕の怒りを買った。ただじゃすまさないからね、ニセもの君」


 にせもの?


「……クソ。おまえが、出雲なのか」

「あら。光栄ですね。君のようなゲスにも僕の名前が浸透しているなんて。まあ、君のようなゲスの底辺には僕は到底雇えないだろうけどね」


 ふんと鼻を鳴らして手で髪をかきあげた。


「さて、それじゃあ僕はさっさと君を殺しちゃおうかな。君一人でも殺したらきっと地球にとっても優しいと思うし。言い残すことは無いよね。うん。無いね。まあ、あっても聞かないけど」


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