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『そいつをよこせ』
高宮さんの腕が私に向かって伸びてきた。
その腕は黒くて不気味で氷のように冷たい冷気が散っていて、何がどうなっているのか理解できなかった。
「だからね、君も面倒くさい霊だね」
出雲さんはいつになくイラつく声で私をぐいと自分のほうに引き寄せ、「ちょっとこのまま顔隠してて」と両手で顔を隠せと指示し、その間に両手で素早く空を切るように文字を刻む。
落雷に似た衝撃音が辺りに響き、光と音で辺りが白く明るくなった。
「僕に同じこと二度と言わせないでね。そういうのほんとめんどくさい」
何かに弾かれたように飛び退いた高宮さんは目を白黒させて、出雲さんと私を交互に見て、「えっ、な、なに? なにかあったんですか?」と、キョトンとしながらそんなことを言った。
高宮さんは今起きたことなど知らぬ風だ。
私は目を最大限に真ん丸くして額に三本の横線をこしらえた。出雲さんは、
「ふーん。やっぱり全然気づいてないんだね。これは面白い」
と、余裕たっぷりに笑んでいた。
ようやく分かってきたことがある。
ずっと気になっていたことなんだけど、高宮さんのすぐそばにはいつも黒い靄がかかっていて、それを私は見て見ぬふりをしていた。
それが今ではくっきりと彼女を覆うようにまとわりついている。
最初に仕事場で会ったときからそれにうっすら気がついてはいたけど、嫌な気持ちがしたし、もしかしてもしかしたら彼女はこの世のものじゃないんじゃないかって思ったりして、考えると怖いから見てみぬふりをしていた。信じなかった。
でも、今確実にそれが本物の霊だって実感している。
そう思いたくないから信じてこなかったけど、そして、出雲さんか切る手刀文字でやられるなんて、やはり物体を持たない霊なんだなって、嫌でも気づく。
だから、彼女、高宮さんは……きっともうこの世にはいなくて、あの世の住人で、なんらかの未練があってまだこっちにいるってことだ。からっからの喉に無理やり唾を流し込むように飲み込んだ。
「今頃気づくなんてほんとに君って際限なくあれだよね。あれってわかるでしょ?」
「ことば、濁してくださってほんとありがとうございます。私、今全身に鳥肌総毛立ちです」
「でしょうね。今僕から離れたら君はほら、こいつらに取り込まれちゃうよ」
「それだけはやめてください」
「もちろん。ここで手を放して君が万が一怪我でもしたら……」
「……労災諸々のことで困るんですよね、で……」
「ほら」
最後まで言わないうちに、高宮さんの方を指さした。そして、そこに目をやれば無数の黒いもや。てか人。てか、霊。
「こいつらが高宮さんの魂を乗っ取ろうとしてるやつ。彼女、自分が死んだことに気づいてないから。ねえ、そうでしょ」
呆然と立ち尽くす高宮さんの顔は真っ青で、口をぱくぱく開けたり閉じたりしていた。
自分の体を触って確かめて、『死んでない』ことを自覚しようとしてるけど、つい昨日のことも思い出せないことに違和感を覚えているようにも見えた。
「高宮君、昨日君は何をしたのか覚えてるかな?」
「昨日は……昨日は……昨日……は」
ひたと目を上に向け考えてみるものの、なかなか思い出せないようで、髪の毛の中に両手を突っ込んでわしゃわしゃとやっている。焦りの色も垣間見える。
思い出せないのには理由があると出雲さんは言った。
『幽霊はね、過去のことは分からないんだよ。でも、そのかわり未来のことは分かる』
出雲さんの言うことは突拍子もない。
どこでそんな情報をゲットしてくるのか、はたまた……
はたまたもしかして経験してるとか?
ということはもしかして出雲さんも……
「なわけないでしょ。僕が幽霊だったらこんなめんどくさいことしてないよ。さっさと成仏してる。現世のこの世界が一番きついからね。さっさとこんな世界おさらばするさ。つらいだけの世界なんだから」
「で、ですよね。こんなことしてないですよね、私もそうだなあ」
「そうかなあ? どうだろうね」
「え。どういうことですか、なんでそんなことを」
確かに、つらいだけってところにはちょっとひっかかったけど。
『幽霊は過去のことは分からない……』
もしかして私……
「なわけないでしょ。君みたいな鈍感な人間が死んでいたらまずさっさとあの世に連れていかれます」
よかったー。私はひとまずまだ死んでいないみたいだ。




