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04.高慢お嬢様とエピローグ



 それから俺は具体的な行動に出ることにした。失礼だと思ったが、エリカさんのことを調べ始めたのだ。夏休みまで間がない。彼女の連絡先は知っているものの一切連絡がつかなかった。学校という接点を失えば、彼女に会うことなく夏が終わる。


 それは何か決定的な、取り戻すことが出来ない距離を二人の間に作ってしまう予感がした。だから出来るだけ、エリカさんに直接的な迷惑が及ばないよう苦慮しながらも急いだ。シンに仲介を頼み、彼女と同じ三組の女生徒からも話を聞く。


 エリカさんは目立つ人だ。一年の一学期にして、既に色んな噂話が飛び交っていたことを初めて知った。親身に付き合ってくれたシンは、その殆どを知っていた。


 そうして迎えた一学期の修業式。俺は自分たちのクラスの解散の声を聞くと、一目散に三組へと向かった。席を立って走り始める間際、シンと目が合う。


「行って来いよ、相棒」


 奴の眼はそう語っていた。何かを確認するように頷く。


「エリカさん!」


 皆が夏休みを前に浮かれている中、エリカさんは氷の女王のように毅然とし、冷たく、一人だった。身支度を済ませ、教室から出て来たところを捕まえた。


「もう話しかけないでと……そう言いませんでしたか?」


 足を止めた彼女が怜悧さを表情に宿し、俺を見ない儘に言う。


「うむ。だが明日からは夏休みだ。登校拒否は出来ない」

「…………はぁ、下らない」


 呆れたとばかりに嘆息を漏らし、歩き始める彼女。


「エリカさん、話がしたいんだ」

「私は話したくありません」


 取り付く島もないとは、正にこのことだった。


 だが思い出せ。何回、俺はデートを断られてきた。何回、彼女に振られた。冷たくあしらわれることなど、別に何ともない筈だろう。気付くと俺は笑っていた。


 勿論、エリカさんを馬鹿にする為じゃない。笑いたくて、笑っていたんだ。


 そんな俺の態度に彼女が一瞥をくれる。歩みを止めた。


「あなた、何を笑って……」

「ふむ。そういえばエリカさんは期末テストの順位、何番だった?」


「はい? 期末テストの順位?」

「あぁ、そのテストの順位が俺より上だったのなら、話を聞かずに去ってくれていい。俺も女々しく追いすがらない。きっぱりと、エリカさんのことは諦める」


 孤独を飼いならしているという少女が、無言で俺に視線を注ぐ。廊下の通行人を鑑みて、スッと俺の前に、窓際へと寄った。


「だが俺の方が上だったのなら、話を聞いてくれないか? 勝負だ!」


 勝負。それは殆ど呪文だった。

 俺だけが知る、エリカさんに通じる魔法の言葉。


「…………ふ、勝負、ですか」


 シャープな頬を緩め、優美な笑みを形作るエリカさん。


「あぁ、平気な顔をしているが、実はドキドキしているぞ。だが俺の努力を見せつける一瞬でもある。それは努力しかなかった、俺そのものを見てもらう行為だ」


「大げさな。ですが……構いませんよ。その勝負、お受けいたします」

「有難うエリカさん。それじゃ、俺の順位だが……」


「えぇ」

「二十……」


 眉間に作られたエリカさんの険が深くなる。


 緊張が走り抜け、早く言ってしまえという気持ちと、言ったら全てが終わるかもしれないという気持ちに挟まれる。手が震えた。後戻りしたくなる自我を抑え、嘘を吐きたくなる衝動に耐える。逃げ出しそうな弱さの中、彼女を見つめ、そして、


「二番、だった」


 告げた。


 二十二番。それが俺の現実。才能ある人間が集まった世界で、一年の期末という本気を出す人が少ない中、三流の俺がようやく掴み取った順位がそれだった。


 順位を聞いた後も俺の瞳から視線を逸らさず、エリカさんは口を噤んでいた。


 緊張で体が強張り、喉の渇きを自覚する。誰に強制された訳でもない。好き好んでやってきた努力。その結果が、大切な人との別れを左右することになるなんて思いもしなかった。どうなんだ、俺の努力は。俺という存在は、彼女に、届くのか。


 やがて意中の女性が、ふっと息を漏らした。緊張が高まる。


「そう、ですか」

「あ、あぁ……それで、エリカさんは」


 そこでエリカさんは、悲しそうに可笑しそうに笑うと、言った。


「二十五番でした。業腹なことにね」


 一瞬の思考の空白の後、安堵と歓喜がない交ぜになった感情が、炭酸水のように弾ける。高揚と興奮に支配され、あぁ、と、思った。思わずにいられなかった。


 何問だろう。一体、幾つのケアレスミスが、記憶違いが二人の順位を分けたのだろう。一つボタンが掛け違った世界では、きっと俺はエリカさんに負けていた。


 それでも今、努力はどうにか繋がった。


 それから俺たちは、一年の廊下から人気のない図書室へと場所を移した。夏がこれから始まろうとしていた。浮かれて騒ぐ生徒の間を縫い、何かを取り零してしまわないようにと、そんな慎重な足取りで図書室の隅に辿りつく。カビ臭い場所に。


「俺は芸のない人間だ。だから、愚直に思いを伝える」


 郷土資料を並べた棚の前とその周辺には誰もいなかった。図書室自体、人が殆どいない。息を吸い込む。俺自身の決意に、新たな空気が触れるようにと。


「エリカ、俺は、君のことが好きだ。付き合ってくれ!」


 エリカさんが、呆れたように鼻から息を抜く。


「……本当に、芸のない人ですね。もうそれは、何回も聞きました」

「うん。だがどんな所に惹かれたのかは、はっきりと伝えていなかった」


 言葉の先を促すように、エリカさんが俺を睨みつける。


「俺は初め、エリカの毅然とした態度に惹かれていた。だが実際に話をして、デートを重ねるにつれ、それだけじゃない、君の弱さとか、強さとか、可愛さとか、人間らしさに惹かれるようになった。どんどん、君のことが好きになっていったんだ」


「何を……抜け抜けと」


 他人からの理解を拒み、顔を背ける彼女。構わず続けた。


「気付くと、エリカのことを毎日考えている自分がいた。いつのまにか君が俺の日常に入り込んでいたんだ。俺は努力しか能のないつまらない人間で、恋愛だってしたことがなかった。だがあの日、初めてエリカとデートした日。君に見つめられて人生初の感覚を味わった。苦しい程に胸の鼓動を自覚したんだ。バレーの大会や受験を前に心臓の鼓動を感じたこともある。だがそれとはまるで異なる切ないような甘いような感触で、俺はその時、心の在り所を知った気がした。自分が生きているんだって。恋とは、生き物になることかもしれないって、そう思ったんだ」


 荷物は足元に置かれ、彼女は両肘を抱えて横を向きながら話を聞いていた。

 俺は必死になって、借りものじゃない、自分自身の言葉を探した。


「多分、その日からだ。世界がこんなにも豊かだということに気付いたのは。君のことを思うだけで、何をするにも楽しく、心が弾んだ。滴るような緑の美しさも、徹夜明けの、寂しくなるように綺麗な瑠璃色の空も、夕方の幻想的に燃える茜空の素晴らしさも、光にも感触があるんだってことも、全部、全部、君が教えてくれた」


 拙くてもいい。それでも自分だけの表現で、俺は思いを伝えた。


「エリカ、君が俺の人生を豊かに、美しく彩ってくれたんだ」


 エリカさんは口元を引き絞ると、崩れそうな強気な顔を俺に向けた。


「勿論、恋愛の全てが素晴らしいものじゃないだろう。喧嘩もするし、酷い場合はそれで仲違いすることがあるかもしれない。消えない傷を負うかもしれない。でも俺は、それでも構わない。エリカの存在を通じて、世界の素晴らしさを知った気がするから。君が笑うと嬉しくなる。君をもっと笑わせたくなる。可愛く、怒らせたくなる。君はそうやって、俺のつまらない世界に色を運んでくれたんだ」


 何を言っているのか、自分でも混乱する。拙い、まずい、理路も整然もない言葉たちが矛盾を矛盾の儘に、一度に溢れ出そうとする。それに俺は身を任せた。


 多分、それが、恋だった。


「俺は君との恋を通じて、この世に新しく生まれ直した気がした。君は気付いていないかもしれないが、デートの時はいつもドキドキして仕方なかった。そんな豊かになった俺の世界で、一際特別に君は色づいて輝いていたからだ。俺は宝石のことはよく分からない。だけど俺は多分、ダイヤモンドよりも輝かしいものを知っている。太陽みたいに眩しい輝きを感じていたからだ。そっと盗み見る、君の横顔から」


 そこまで言うと、俺はふっと息を抜いた。


「すまん。冷静になってみると、俺は自分の得ばかり語っているな。エリカのことを思いやったりとか、そういうことが全然出来ていない……。愛想を尽かされても当然だ。それでも、もし、エリカが少しでも俺との付き合いで楽しむところがあったのなら、出来たら、これからもそんな関係を続けて欲しいと思うんだ。こんなどうしようもなく、つまらない俺でも。努力しか能の無い俺でも、俺は、君を――」


 そう言葉を紡ぎかけている最中、烈しい叫びが俺に叩きつけられた。

 まるで俺の魂そのものを揺り動かすような。そんな、烈しい叫びが。


「つ、つまらないなんて……」

「え?」


「つまらないなんて、言わないでください!!」


 俺は目を見開かせ、新たな思いでエリカさんを見た。何かしらの感慨に肩を震わせている彼女が、泣きそうに皮肉そうに、ぎこちなく微笑もうとしていた。


「し、知っていますか? あ、あなたは……。私が、私が初めて認めてあげた男性なんですよ。それを、つまらないなんて、言わないでください。言わないで!」


「エリカ……」


 それからはもう、堰が切れたようにエリカさんの言葉は止まらなかった。


「わ、私だって、楽しかった。訳のわからないことも沢山あった。だけど……楽しかった。楽しかったの! でも、あなたといると、辛くなる時があるの。あなたが何を考えているのか、わらからないから。そもそも、出会って間もないのに、デートに行こうだとかそんなことを言って……。私が、クラスの皆に、不遜な態度で接していたから……誰かに言われて、私をからかっているんだと、思ってました」


 今度は俺が口を固く噤み、エリカさんの話を聞く番だった。


「でも、違った。嫌がらせとか、そういうのでは、なかった。訳が分からなくて、腹が立って、私が何を言っても、平気な顔をして話しかけてくるあなたが……気になって。いつしか、そんな自分に気付いて、また腹が立って。でも、楽しかった。楽しかったの! 私は、私は……たの、し……かった、の……」


 そこでエリカさんは、瞳から感情を湧き上がらせた。俺は言葉を無くす。水の膜に反射してゆらぐ光は美しくて、まるで、彼女の感情そのもののように見えた。


「だけど、だから、怖くなったの」

「何にだ?」


「あなたが、いつか、いなくなることに!!」


 エリカさんが塗っていたマスカラが溶け、黒い雨となって頬に降り注ぐ。その黒い五月雨に、彼女の苦悶そのものが溶けていそうだ。ハンカチで涙を拭う彼女。


「私の、私の家は、白亜の豪邸ですよ。欲しいものは、小さい頃から、何でも手に入った。頭も、よかった。小さい頃、私は一流でした。勉強なんかしなくても、勉強は出来た。それでも、自分の興味の為に、家庭教師の先生から色んなことを習った。ピアノも、お稽古ごとも、全部、得意だった。直ぐに、直ぐに一番になった」


「あぁ」


「しょ、小学校だって。県内で一番のお嬢様学校に通った。それが当たり前だった。友達もたくさん出来た。皆、品のいい人たちばかりで、両親は、誰もが知っているような人たちばかり。お互いの家を行き来した。友達だから、当然ですよね」


「うん。そうだな」

「それが、ある日、言われたの」


「エリカ……」

「私の家は、“汚い家”だって!!」


 心痛を伴って吐き出したであろう言葉を前に、体がゾクリと震えた。まるで目の前の少女と同じ寒さの中にいるような。汚い、家。白亜の豪邸が、汚い、家。


「だからもう、遊びに行かないって。ある日、言われたんです。犯罪者の家だから、近づいちゃダメだって。両親に、そう、言われたからって。私とも、もう遊ばないって……。ねぇ、分かりますか? その時の私の気持ちが? 分からないでしょ! あ、あなたには、分からないでしょ!? 私の、私の気持ちなんか!?」


 そこで俺は瞼を閉じる。俺は知った。シンと調べてしまったからだ。エリカさんの家が、「叶野建設株式会社」が引き起こした、汚職まがいの事件のことを。


 決して頻繁ではないが、よくある話だ。受注が上手くいくよう力ある人間に賄賂を包み、公共事業を得る。それを凖大手ゼネコンの叶野建設が、他県の同業他社と組んで行っていた。もう随分昔の、俺が小学五年生の、夏の頃の話だ。


 当時は騒がれたようだが、逮捕者もなく事件はうやむやの内に終わった。誰もが忘れたようなその事件。だがその事件の裏で、苦しんでいた一人の少女がいた。


 そしてこの世界では、一度起こったことは消えず、元には戻らない。事件の事実は残り続ける。レッテルと共に。いくら隠したいと願っても、残り続けてしまう。


『ねぇ松島くん。私、怖いの。人を信じるのが、あなたを、信じるのが』

『それは、どういう……』


『だから言って下さらない? お前の家は汚い家だと、それでもう、最後にしない? 私、これ以上は耐えられないの。嫌なの、自分が……私は……』


『エリカ』

『ねぇ、お願いだから、言ってよ!? ねぇ! 早く!』


 あの日のやり取りが、意味を伴って俺の中で静かに開かれる。

 エリカさんが信じたかったもの。信じられなかったもの。


『ねぇ、分かりますか? その時の私の気持ちが? 分からないでしょ! あ、あなたには、分からないでしょ!? 私の、私の気持ちなんか!?』


 俺は、俺は……。


「エリカ、」


 いつしか俺は呼びかけていた。泣いて、諦めて、人を信じるのが怖いと言った彼女に。それでもきっと、本当は何かを待ち侘びている、揺れる瞳の……。


「な、何です――」

「俺には、分かるとは言えない。分かると言った瞬間、それは嘘になるからだ」


「あ……は、はは。そ、そうですよね、誰も、誰も! 人の気持ちなんて」

「だが、分かりたいと思う」


「え?」

「分かりたいと、そう思うぞ。エリカ」


 そこでエリカさんは自嘲するような笑みを零す。笑顔を吐き捨てた。


「分かりたい?」

「あぁ、分かりたい」


「人と人との間は、どこまでいっても隙間だらけですよ?」

「そうかもしれない。それでもだ」


「そんなこと、そんなこと……」


 可笑しくて堪らない、だから笑いたいと。そういう表情を多分、エリカさんは作ろうとしたんじゃないかと思った。それが失敗すると、項垂れて、続けた。


「は、はは。私は、私はそれから……一人になった。お嬢様学校。笑ってしまう。後ろ指を一度さされた人間は、もう、どうにもならない。狭い、狭い社会ですから。私は一時、会社を、父親を憎んだ。でも、それはお角違いだった。父親を憎むことしかできない無力な私を、私は、憎んだ。だって私は子供で、何も、何も、すべて、両親から与えられたもので生きていたんですから。ねぇ、ねぇ、そうでしょ!?」


 そう言い終えると、エリカさんはまた両肘を抱える。腕を組むのとは違う、よく彼女がする独特の姿勢。それが今は、寒さに凍えているかのように見えた。


「そのまま中学に上がり、新しいクラスでも陰口を叩かれて……。そこで私は、決めたんです。もう泣かないと。毅然と、一人でやっていくと。両親の力にも頼らない。私は私の道を生きる。その為には努力だってする。だから人一倍努力しました。いつの間にか、小さい頃の一流の魔法は解けていた。三流の人間に、なっていた」


「エリカ」


「この学校に入るのだって、本当は苦労したんですよ。塾にも家庭教師にも頼りませんでしたから。でも私は、ようやく檻から抜け出せた。自分の力で、ううん、そこには両親の、生まれの力もあったかもしれません。ですが、不格好でも、例え容量が悪いと思われても構わない。参考書と机に向かい続け、人に何と言われても、気にせず、いつも、どこでも一人で! ペンを動かし続けてきた私の、私の努力は、私だけのものだと、そう思うから。それがようやく誇っていえる、“私”だから!」


 その言葉の連なりに胸が突かれたようになる。彼女もまた、歯を食いしばって生きて来た人間だと分かったからだ。そうやって彼女は自ら世界に働き掛け、新しい環境に、新しい場所にやってきた。


 檻から、抜け出したと言って。


「その檻から抜け出したのに、まだ一人がいいのか?」

「信用できませんから、他人なんて」


「エリカ……」


「はっ、はは。だって、そうじゃ、そうじゃありませんか? ドキドキ、しました。外部受験をして、受かって、公立の学校に行くの。でも私は、どんな自分でクラスメイトに対すればいいのか、分からなかった。だけど自己紹介を終えて、気の良さそうな女の子たちが話しかけてくれて、嬉しかった。嬉しかった……なのに、」


「あぁ」


「どうしてあぁも調べるのが好きなんでしょうね。意地の悪い人は、何所にでもいる。エスカレーター式の私立から来たことが、そんなに珍しいの? 何か自分たちが納得いく筋道を見つけたがって、叶野建設のことを調べられて、広まって、直ぐに反応が変わって、目を逸らされるようになって……。あぁ、ここでもかと、そう思いました。どうやっても、逃れられないんだって! だからもう、ここでも一人でいるって決めたんです。それがいいんです。それが、それで、よかったんです」


 自分自身に言い聞かせるように、よかった、よかったのと、彼女は苦悶を飲み下すように、涙するように続けた。脆く、崩れそうで、また、涙を瞳に溜めて。


 細い川の水面。そこを朝の光が滑るように、輝く何か。その光景に俺は締め付けられる。指先に血が奔るのを感じ、心臓から押し出された血が何事かを告げる。


「なのに、なのにあなたは……」


 その姿は、悲しさや辛さ、自分が不自由な人間だということを分かっている人間のものだった。環境から来るどうしようもなさを、抱きとめて、慰めて欲しそうで、



「人の、心に! 土足で、踏み込んできてぇえ!」



 だから、俺は――


「エリカ!」

「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿ぁあ!」


 たまらず、エリカさんを抱きしめていた。


 初めて、その優しさを絡めていそうな柔らかい髪に触れた。震えている華奢な体を胸に収めた。人を抱きしめると、こんなにも切なく痺れるのだと知った。


 彼女は抵抗することなく、しゃくりあげながら熱い吐息をぶつけてくる。


「なんで、なんで、あなたは……私に、信じさせるの……そんな人、いる訳ないのに。私を私として、見てくれる人なんて、いる訳、ないのに……。見なさいよ、先入観で、偏見で、私を、私をぉ」


 胸に顔を埋め、声を枯らすように訴える彼女。回した腕に力を込めた。俺の想いが伝わるようにと、強く。不確かな言葉じゃなく、態度で伝えるように。強く。


「なによ。あなたは……あの時、傍に、傍にいてくれなかった癖に」


 鼻を鳴らしながら、彼女が寂しそうに言う。情けない声でそれに応えた。


「すまん。いてやれなくて、ごめん。謝る、許せ、頼む、本当に悪かった」


“あの時”がどの時なのか、俺には残念ながら分からなかった。彼女の過去を知る中で、思い当たる節が多過ぎる。だが一つの事実として、俺はその時、何も決定的なことを彼女にしてやることが出来なかった。環境や運命で隔てられていた。


「わ、私が寂しい時、い、いてくれなかった癖に」

「過去は変えられない。だがな、これからはいてやれる」


 でも今なら。そう、これからなら、出来る。


「私のこと、何にも、何にも分かってくれてない癖に」

「その通りだ。でも、これから全力で分かろうとする。任せろ、努力なら得意だ」


 俺たちにはまだ沢山の、明日と呼ばれる日があるのだから。


「そんなの、そんなの……」

「俺は一流の人間じゃない。三流の人間だ。だからこそだ。三流の人間にしか分からないこともある。世界に働きかけなければ、三流の人間は何も変えることが出来ない。不出来な頭、不器用な神経。努力以外、何も、俺は何も持っていない!」


「あ……あぁ、あぁ」

「だから俺はこれからも、世界に働きかけ続ける。エリカ、お前にも働きかけ続けるぞ」


「私は、私は……私は」

「寂しい時代は、必ず終わる。俺がお前をずっと、笑わせてやる。隣に居つづけてやる。何気ない幸せで笑わせて、昔、自分が孤独で寂しかった存在だったなんて、忘れさせてやる。当然、これからも問題はたくさんあるだろう。努力で解決できないことも多いかもしれない。それでも、それでもな、エリカ!」


 俺はそこで彼女を包んでいた腕を解き、両肩を掴んで顔と顔を合わせた。


「俺はやってみようと思うんだ。世界に、お前に、働きかけ続けてみようと思う」


 ぐにゃりと、涙に濡れた、整った彼女の顔が歪む。俺は微笑みながら続けた。


「俺の粘り強さは知ってるだろ? そうではなければこうして今、お前と話すことすら出来ていなかったんだから。なぁ、エリカ。だから」


 そして言ったんだ。俺の決意を、言葉に乗せて。



「俺と生きよう。世界に、働きかけ続けよう!」



 単純な言葉は単純なままに、少し遅れてエリカさんに作用した。嗚咽を漏らした彼女は、それから泣いた。俺の胸に頭を預け、さめざめと、涙に暮れた。


「好きだ、エリカ。さぁ、もう夏がくるぞ」

「うっ、あ、ああ、うっ、ああ、ああ」


「どこに出かけようか。プールか、海か、山もいいな。おっ、そうだ、夏休みは一緒に図書館に出かけるのもいい。努力の耐久勝負だ。一緒に勉強しよう」


「そんなの、そんなの」

「夏が終わったら秋か。いいなぁ、メシが上手い。秋はどこに行こうか。そういえば、遊園地には行ったこと無かったな。おっ、日帰りで京都はどうだ? 実はプライベートで行ったことがないから、是非とも行ってみたいんだ」


「ば、馬鹿……ばかぁあ! ばかぁぁあ!」

「冬も楽しみだな。プラネタリウムに出向くのもいい。そうだ、クリスマスもあった。夢の国に行ってみるか? 田舎者丸出しではしゃごう。それから初詣にも行って、バレンタインにホワイトデー、ははは、イベントが目白押しだな」


「やめて、やめて、わ、私は、私は、」


 そうやって、楽しめればいい。悲しいことがあった分だけ、楽しめるといい。それこそがきっと、未来や希望と呼べるものに違いない。なぁそうだろ、エリカ?


「だから、」


 そういう思いが伝わればいいなと願いながら、それから俺は言った。

 もう何度も何度も言い続けてきた言葉を。過去と未来と、祈りを添えて。













「だからこれからも、俺とデートしよう」













 時間は常に前にしか進まない。その中で何をするのかは当人の自由だ。その自由が時に重圧になることもある。自分の自由を自分で定めることは、かなり困難だ。


 ただ、一つだけ言えることがある。

 世界に自ら働きかけなければ、何も変えることは出来ないということだ。


 これはそんな三流の俺の物語だ。そして人を遠ざけ、人から高慢とすら思われていたお嬢様の――不器用で負けず嫌いな、叶野恵梨香というお嬢様の物語でもある。


 あの日、図書館の隅でエリカに想いを告げてから、新しい夏がやって来た。


 二人はそれからも歩き続ける。新しい色々なことを知っていく。美しいこと、醜いこと、二人を元気づけてくれること、悲しくすること、楽しくすること、様々なことを。時に立ち止まり、自分自身に尋ねながら、それでも二人で歩いて行く。



 全ての新しいことを知る為に、自らの質問に答える為に。



「ふむ、何というか、馬鹿だな」


 そういうことを繰り返し続け、気付けば十二年もの歳月が過ぎていた。二十七歳になった俺は今、過去に撮った写真を自宅マンションのPCで眺めている。


「まったく、本当にお馬鹿さんね」


 あの気難しいお嬢様と。叶野恵梨香と一緒に。


 十二年の軌跡がそこには記録されていた。遊園地で、海で、山で、京都の寺で、夢の国で、神社で。俺とエリカが、時にはシンが一緒になって映っていた。


 それだけじゃない。図書館で勉強に疲れたエリカが机に伏せっている姿や、ハイヒールが路上に嵌って動けないでいる姿。決め顔なのに目を閉じている姿や仏頂面。受験の成功に震えている姿など、日常的なものを含め様々なものがあった。


 昔のものであればあるほど、エリカの顔はブスッとしたり、照れて横を向いたりしていた。喜びの表情を素直に表すことに、あまり慣れていなかったのだ。


 それが徐々に変わっていく様子が日付の経過で分かる。ある時から笑みを口端に表し始め、少しずつ自然に微笑むことが出来るようになっていった。第一志望の同じ大学に入ってからは、歯を溢して笑っているものすらある。あの彼女が……だ。


 自分が働きかけてきたもの、自分が得たかったもののことを思う。


 恋愛を経験したことのなかった俺がエリカと出会い、彼女を毎日のようにデートに誘った。その結果として今がある。それを何か、奇蹟のようなことだと思った。


 世界には沢山の人がいる。そして人の数だけ恋や愛があり、その営みに纏わる物語や笑顔、涙がある。この瞬間にも世界の何処かでは恋や愛が始まり、そして終わっているんだろう。始まりがあれば当然、終わりもある。それでも……。


 一枚を、付き合い始めたばかりの頃に撮った一枚を、おもむろに眺める。高校一年の夏の日。それはエリカを撮った、初めての写真だった。


「ふむ、仏頂面も好きだったのだけどな」

「あら、そうですか。ではまた喧嘩した時に披露して差し上げます」


「それは……うむ。楽しみだな」

「もう、まったく、楽しみにしないでください」


 嘆息を吐くように言われ、苦笑を返す。

 今、こうして昔の写真を眺めているのには訳があった。


「分かっているんですか? 私たち、結婚するんですよ」

「ははっ、分かっているとも」


 式場で流す、二人の馴れ初め用のVTR写真を選んでいたのだった。


 二人の間にはそれなりに色んなことがあった。喧嘩、嫉妬、仲違い。エリカと両親の確執や、俺との結婚に関することもまぁそれなりに色々と。


 ただ俺は、俺たちは泥臭い人間だった。そういった困難に対しても努力した。勿論努力は万能じゃない。それでも俺たちは出来るだけ、自ら世界に働きかけ続けた。


 その日々を回顧しながら、思う。創り出したかったもののことを。彼女に与えたかったもののことを。それは、今のような心安らげる場所ではないかと考えた。


 二人の今のような時間が、こんな時間が、二人の間に流れればいいと願っていた。例えこの先、強い恋愛感情が薄れたとしても、それが形を変えて習慣の中に潜み、そのことに俺も彼女も深い安心感を覚えるような、そんな安心と呼べる場所を。


 そうして迎えた、俺の、いや、俺たちの新たな努力のステージ。


「永遠の愛を誓う……か、言ってて恥ずかしいが、なかなか努力し甲斐があるな」

「そうね。でもきっと、大丈夫な気がします」


「おいおい、少しばかり見通しが甘いんじゃないか?」

「ふふっ。そうですか? あは、あははは」


 俺が少しばかり茶化して言うと、エリカは何とも云えず楽しそうに笑い始めた。その光景は俺をたまらない気持にする。その景色の何気なさが、何気ないだけに。


 ただ彼女の笑いはなかなか止まず、クスクスとした微笑みに代わる。何処か悪戯でさえあった。それが嬉しくも不思議であり、つられるように笑いながら尋ねる。


「どうしたんだ、そんなに楽しそうにして」

「いえ、ちょっと待っていてくれる?」


 彼女はそう言って笑顔のまま席を立つと、持参してきた紙袋から何かを取り出し始めた。取り出したのは、サッカーボール程の大きさの透明なボックスだった。


「これ、覚えてる?」

「ん? これは……」


 その箱に何かが飾られていた。色鮮やかな何か。何かじゃない、目を凝らせばちゃんと分かる。ただ一瞬、何故そんな物が入っているのか分からなくなる物だ。


「花束……か?」

「えぇ、枯れないようにプリザーブドにしてもらって、箱に詰めてあるの」


 瞬間、過去が俺に囁きかけた。その花束には見覚えがあった。決して豪華な花束ではない。持ち運べるブーケタイプのものだ。花の種類は正直よく分からない。


 ここでうっかり、これって何だっけ? 等と尋ねようものなら、エリカの不興を買うことに繋がりかねないので黙っておく。むむ、と凝視を始め、思考を巡らせる。


「ふむ、これは……」

「ひょっとして、忘れてるの?」


「いや、そんなことはないぞ……って、すいません、嘘をつきました」

「仕方のない人ですね。正解は――」


「いや、ちょっと待て。ここまで出かかっているんだが……何だっけな。花束だろ、しかもそんな高そうじゃなくて、小さな……」


 そこまで声に出して確認した時、ある決定的な過去が俺の脳裏を過った。

 角砂糖のように、一匙の熱量を持った解が疑問を溶かす。


「あっ、分かったぞ! これって」


 そこで俺はその花束の正体に気付いた。まさかこんな形で残っているとは思わず、驚嘆の声を上げてしまう。間違いない。あの花束だ。しかし、どうして?


「ようやく思い出しましたか。ふふ、全く。それでアナタはあの時、何と言ってこれを差し出したか覚えてます?」


「え……それは……」


 それはデートで勝負だとか、したこともないデートに対しお互い見栄を切っていた頃に渡したものだ。初デート記念に、俺がエリカにプレゼントしたもの。


「アナタは言ったんですよ。私に花束を差し出しながら。そしてその言葉を、ちゃんと今まで守り続けてくれた。その言葉を私、ずっと覚えているんです」


 スイートピーの花が咲くように、エリカが柔らかく微笑む。


 俺は静かに過去へと沈滞した。二人が初めてデートをしたあの日。お互い何も分からなくて、ただ意地だけはあって。走ってエリカがいた場所に向かい。


『エリカさん!』

『っ、ようやく来ましたわね…………え?』


 それで……。


 それは甘く、心地よい理解だった。懐かしさに胸が締め付けられ、自然と頬が緩み、口元が和らぐ。それから俺は言ったんだ。エリカに向けて、大胆なことを。


 今思えばあの日から、全てが始まったのかもしれない。


 それは永遠よりも、遙かに前の日。

 現在と未来が、太陽のように眩く輝き出した日。





『アイラブユー、エリカ』





 三流男と高慢お嬢様の恋が、きっと、始まった日。




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