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03.ふたりの距離



「んで、まだ付き合ってない訳?」

「ふむ、そういうことになるな」


 気付けば期末テストが近づく時期になっていた。高校に馴染み始めたと思った途端に一学期が終わってしまう。仕方ないこととはいえ、それは少し寂しかった。


「なんか、あれだよな。変にウブだよな、お前らって」

「む? そうか?」


「あぁ、叶野さんもあぁ見えて……っと、噂をすれば」


 二時間目終わりの放課。教室で話していた俺たちは、エリカさんが移動教室か何かで廊下を移動していく姿を偶然にも認めた。毅然としている。そして、一人だ。


「叶野さん、今日も一人だな」


 エリカさんを見ながら、シンがポツリと感想を漏らす。


「そうだな。一人が似合う女性だ」

「一人が似合うねぇ……」


 その言葉に引っ掛かりを覚えているかのように、シンが意味深な目で俺を捉えた。何だ? 疑問を疑問のままにせず、口に出して尋ねる。


「どうした、シンよ」

「ん? いやさ、お前、どうして叶野さんのことが好きなんだっけ?」


 そんなことかと、俺は薄く微笑みながら応える。


「毅然としているところだな。一人でいるところとか、特に良い」

「ふ~ん、そっか。でもさ、好き好んで一人でいるやつなんているのかねぇ?」


「は?」


 喧騒に膜が張られたように、急に周囲が静かになったような錯覚に陥る。


 ――好き好んで一人でいる人間?


「それは、どういう意味だ?」


 シンの一言は俺を厳粛にさせる力を持っていた。好きで一人でいる人間。一人であることを選択している人間。それも少なからずいるように感じる。多分、だが。


「叶野さんがいつもあぁやって一人でいる理由、ジュンは知ってんのか?」

「いや……そういえば、聞いたことなかったな」


「へ~そっか」


 急に自分の立ち位置が不安になった。何だろう。落ち着かない気分だ。エリカさんはあまり自分のことを話さないし、俺も努めて聞かないようにしていた。


 先程の深刻な気配から一転し、シンがくだけた調子で続ける。


「まぁ何かしら理由があるんだろうけどな。んでさ、これから叶野さんと真剣に付き合っていきたいと思うなら、そこら辺の理由とも向き合っていった方がいいんじゃないか? ジュンが手軽に恋愛を楽しみたいってんなら、話は別だけどさ」


「なるほど。確かにそうだな。流石シンだ。言うことが最もだ」


 するとシンは、いつものように片頬を窪ませて笑った。


「そ~かい、有難うよ」


 奴の笑顔を認めながら目を細める。たまに、思うことがあった。


 その窪みがとても痛々しいものに見える時があって、一体その窪みは何が作らせたのかと。お前はどんな人生を歩んできた人間なんだと、そう思うことが。


「シン……お前は」

「ん? どうした?」


「いや、何でもない」


 そして――俺とエリカさんの仲に中断を挟ませることになる、週末が訪れた。


 その日は栄にある県の美術館ビルに赴いていた。常設展の他に企画展もあり、ガラス張りのビルの中にはお洒落なカフェも土産屋さんもある。それらを巡っているだけでも楽しいし、外に出れば繁華街だ。遊ぶ場所はいくらでもあった。


 また、エリカさんは絵画が好きなようで、美術館では豊富な知識を俺に披露し、俺が上げる感嘆の声に気持ちよさそうにしていた。そんなところも可愛いと思う。


 カフェでもお互いの好みが徐々に分かり始め、二人で週末の時間を共にしているのが自然なことのように思える、そんな雰囲気が形作られていた。


「それで、どうしてエリカさんはいつも一人なんだ?」

「え?」


 その中で、俺は唐突に切り出した。


 柔らかな空気が変質するのを肌で感じる。エリカさんが静かに険を作り始めていた。それでもメープルシロップのようなツヤツヤの髪は、変わらず綺麗で……。


「そんな下らないことを聞いて、どうするつもりですか?」


 火のついた怒気を隠すことなく、紅茶を啜った後にエリカさんが問う。

 視線を真っすぐ彼女の瞳に注ぎながら呼びかけた。


「エリカよ」

「だから、呼び捨てにしないでと……まぁ。いいですけど」


「君のことが好きだ。俺と付き合ってくれ」

「なっ、お、お断りよ! そんなことよりも、私は真剣な話を」


「俺はいつも真剣だ。そしてエリカと真剣に付き合おうと思っているからこそ、エリカのことが知りたくなったのだ。気になったのだ」


「それは……」

「俺のクラスメイトに松田信というナイスガイがいる。二流の男だ」


「は? 二流? それはどういう」


 そこで俺はシンのものでもあり、自らの持論とも化した言説を披露した。とことん自分がない奴で、俺はそんな面からもやはり魅力に乏しいのだろう。


「じゃ、じゃあ。松島君はその中でいうと、何流になるの?」


 一流や二流、三流の定義。それに反駁するでもなく、エリカさんが尋ねる。

 自分の存在そのものをぶつけるつもりで、俺は答えた。


「俺は三流だ。三流の中の三流だ」

「そんな……自分で」


「事実だからな。脱線したが、そのシンが俺の相談に色々と乗ってくれているんだ」

「相談? わ、私のことも、そこには含まれているんですか?」


 躊躇いなく俺は首肯する。


「そうだ。そしてシンに聞かれたんだ。“お前は叶野さんの、どんなところが好きなんだ”と。その時に俺は答えた。毅然としているところが素敵だと。容易に人になびかなそうなところが魅力的だと。一人でいるところが格好良いと」


 ある時期から、しっかりと俺の目を見て話すようになったエリカさん。当初はその真っすぐな視線を痺れるようにくすぐったくも思ったが、それにも慣れた。


 今では彼女とは目を見て話さないと何処か不安になり、居心地が悪くなる程だ。それが俺の言葉を前に、息が抜かれたようにエリカさんは目を伏せた。


「っ……そ、そうですか。まぁ、当然ですね」


 肩を強張らせ、ぎこちない笑みを見せる彼女。

 俺はテーブルに両肘を乗せると、指を組み合わせて言葉を吐く。


「すると、シンにこう言われたのだ」

「え?」


 じっと目を合わせる。その瞳に俺の気持ちが放射されればいいと願いながら。


「でも、好き好んで一人でいる人間なんて、本当にいるのかと。もし真剣にエリカと付き合いたいのなら、そういったことも含めて向き合った方がいいと。どうしてクラスで孤立しているのか。どうしていつも一人でいるのか。その理由も含めて向き合った方がいいと。恥ずかしい話、俺は感心してしまったんだ」


 言い終わってから考える。友の言葉を借りているだけの俺の何と頼りないことか。自分の言葉が、哲学が、考えがないことが俺をたまらない気持ちにした。


 同時に、俺のすっかすかな人間性を認める努力を強いられた。誰にか? 自分自身にだ。自分の歩んできた道の、人生の、努力だけしかなかった道程の。


 数秒の間を挟んで、エリカさんが立ち上がる。


「……ふ、不愉快です」

「エリカ?」


「私は……私は、好き好んで一人でいるんです。孤立しているんじゃありません。孤高を貫いてるんです。お、お分かりですか?」


 その言葉は、一目見れば尖っていることがよく分かる類のものだった。だがじっと眺めると、その鋭利な部分に自ら震えていることが分かる種類のものでもあった。


「そうか、そんなエリカさんはとても恰好いいぞ」

「っ、ま、また、そんなことを、臆面もなく」


「それで、どうして孤高を貫いているのだ?」

「ま、周りの人間が、下らないからです」


「ちゃんと話したのか?」

「は、話さなくても分かります」


「どうして分かるのだ」

「わ、分かるものは分かるのです」


 両肘を抱え、挑発的に唇を吊り上げて微笑む彼女。しかしその裏側に隠したつもりらしい、寂しさとも苦しさともつかないものは、残念ながら丸見えだった。


 どうして気付かなかったのだろうと、俺はようやく思えた。


 ――高嶺の花? 毅然としている? 一人が好きな人間もいる?


 何を、何をお前は言っているのだ? ならどうして今、彼女は動揺しているのだ。そんなこと、決まっているじゃないか。一人が嫌だからに、決まっている。


「そうか、じゃあ、好き好んで一人でいる訳だな」

「え、えぇ」


「これからもか?」

「その、つもりですが」


「誰にも心を許さず、一生、一人で生きて行くのか?」

「そんな大袈裟なことじゃありません。私も、別に、心許せる人間がいれば、その」


 あぁ、と密かに感じ入る。その言葉は殆ど俺の中で救いだった。

 僅かに開いた扉の向こうから、光の線が零れ出るのを見た気がする。


 寂しさの中の光。あの、輝くもの。


「なるほど。俺はな、エリカ。君にとってそんな人間になりたいと思っている」


 エリカさんは沈黙を保った。その沈黙には、彼女の憂愁がそっくりそのまま漂っているように感じた。すとんと、ようやくエリカさんが椅子に腰をおろす。


 見慣れ始めた彼女の顔。長い睫の帳の下に、宝石のような瞳がけぶる。

 昂る気持ちを息として吐き出す。十分に気を落ち着かせてから言った。


「エリカ、俺じゃ駄目か? 確かに顔は整ってない。頭も三流だ。家柄も普通。しかし、努力は好きだぞ。努力で手に入らないものも多いが、俺は努力を止めない」


 口を動かしながら、今必要なものは何だろうと考える。それは先程まで、俺が欲していたもの。自分の哲学、思考、考え方。そして――



「現にずっとこうやって、エリカをデートに誘い続けているようにな」



 自分自身の言葉。


 それは借りものじゃない。滑稽に積み重ねてきた俺だからこそ言える言葉だった。めげずにエリカさんに働き掛けてきたからこそ、ようやく言える言葉だった。


 落ち行く砂時計の砂を眺めるような、もどかしい時間が二人に圧し掛かる。


 やがて彼女は睫に隠していた瞳を俺に向けた。俺を通じ、何か別のものを見極めようとするかのような目で。そんな目で、エリカさんが俺を見ていた。


「汚い、家だと……」

「ん?」


 瑞々しい、花のように可憐な唇が動く。


「汚い、家だと。そう、言われたことがあるんです」

「家が? それは、どういう……」


 口を噤み、彼女は俯く。何かに耐えるように視線をテーブルに注いでいた。


 何かを言いたかったが、俺の中に言葉はなかった。乾き始めた下唇を水で湿らせていると、視界の中で動くものがあった。立ち上ったエリカさんに視線を転じる。


「エリカさん?」

「松島くん。あなたに見てもらいたいものがあるんです」


「見てもらいたいもの?」

「黙って、ついてきて下さるかしら?」


 それから俺たちは美術館ビルを後にすると、エリカさんが呼びとめたタクシーに乗り込んだ。行き先はエリカさんが運転手に伝えた。市内の一等地となる住所だ。


 タクシーに揺られ、無言の中、景色と時間だけが着実に過ぎ行く十分弱。


「着きました。降りて下さい」

「着いたって、ここは……」


 促されてタクシーから降りる。瞬間、俺は言葉を失い、眼前にある豪邸を仰ぎ見た。テレビなどでしか見たことがない、立派な、白亜の邸宅がそこにはあった。


 表札は掛っていなかったが、ある確信が俺の中で信号を発する。


「ここは、ひょっとして」

「えぇ、私の家です」


 両肘を抱えて振り返り、豪邸を背景にエリカさんが立つ。軋むように笑っていた。僅かな気後れを挟み、俺は言葉を押し出す。


「そうか。凄いな。こんな家に住んでいたのか」

「それで、松島くん。この家を見てどう思いましたか?」


「どう? とは……」


 その直後、誰の為でもない風が吹いた。夏の予感を孕んだ温い風が。俺はエリカさんと静かに対峙する。うつろいがちな思考、空白。数瞬の間を置き、口を開く。


「ふむ、純粋に凄いなと。そう思った」

「他には?」


「とても大きい」

「他」


「広いな」

「他」


「金がかかってそうだ」

「そう、ですか。例えば、」


「ん?」

「例えばこの家を見て、引け目とか、畏怖を感じることはありませんか?」


 俺は慎重に自分の心を点検し、嘘偽りなく応じた。


「いや、思わない。偏見は恥だと思っている。だからただ単に、おぉ豪邸だな、と」


 そこでエリカさんは、「やっぱりそうですか」と一人納得したように自嘲気味に頬を緩めた。翳りを帯びた眼で俺を捉える。口を開きかけ、閉じ、また開いて、


「ねぇ松島くん。私、怖いの。人を信じるのが、あなたを、信じるのが」


 意味を計りかねるように、俺は目を瞬かせる。


「それは、どういう……」

「だから言って下さらない? お前の家は汚い家だと、それでもう、最後にしない? 私、これ以上は耐えられないの。嫌なの、自分が……私は……」


「エリカ」

「ねぇ、お願いだから、言ってよ!? ねぇ! 早く!」


 再び乾き始めた唇を自覚しながら、俺ははっきりと告げた。


「そんなことは、言えない。何よりも俺は、エリカとの仲をこれで終わりにしたくない。だから言わないし、言えない。エリカの家は、汚くなんかない」


 俺はその時、どうすべきだったんだろう。何故そんなことを言うのかと、いや、何がそんなことを言わせているのかと、理由を尋ねるべきだったんだろうか。


「そう、ですか……」


 孤独なトンボの羽音が風景に溶けて消えるように、エリカさんの目から何かが溶けて、消えた。自身の悲しみを見つめるかのように、俺の姿を瞳に映す彼女。


 その彼女が最後に微笑んだ。

 発せられている怯えが、踊り、うねり、そして……


「エリ……カ?」


 雫となって、零れた。


 拭いきれない筈のものが、直ぐに拭われる。手にしていたバッグをエリカさんが開き、財布を取り出した。何も出来ないまま呆然と彼女の行動を見守る。タクシーに戻ると運転手に何事かを告げ、紙幣を渡した。それから俺の前に立つと言った。


「タクシーに乗って、帰って下さい」と。


 瞳を潤ませながら。


「そしてもう二度と、話しかけないで」と。


 そのまま体を反転させ、門の指紋認証装置か何かに指を当てると、開いた小さな扉から敷地内に入ってしまった。焦燥に駆り立てられるように彼女の名を叫ぶ。


「エ、エリカ!」


 そんな俺を一顧だにせず、扉が閉められた。


 混乱に慄く。一瞬の間で何かが起こった。しかしそれが何かが、俺には分からなかった。何だ、何が起こったんだ。俺は、何をしてしまったんだ。


『ねぇ松島くん。私、怖いの。人を信じるのが、あなたを、信じるのが』


 いや、何かをしたのではなく、何かが出来なかったのか?


 経験のないことに、まるで思考が働かない。自分が突然、酷く曖昧な存在になってしまったかのようだ。一人残され、自分を持て余す。だが何故か、俺が彼女を取り残してしまったようにも感じた。どこにだ? 何にだ? 何故そう思う?

 

 分からない。分からないことだらけだ。それでも……


 エリカさんが背を向けるその時。垣間見た横顔は、今まで見たどの彼女の顔よりも頼りなく、寂しそうに見えた。まるで孤独と憐憫を友達とする、少女のように。


 仰げば空は斜陽に燃え盛っていた。その分だけ、俺の形をした黒い影がくっきりと地面に刻まれていることが分かる。視線を移し、再度、豪邸を見上げた。


「エリカさん、どうして……」


 そのまま呆けていると、近くでクラクションの音が鳴る。助手席の窓から首を伸ばしていた運転手が、困ったような気配を滲ませていた。


「乗らないんですか? あなたの帰宅分も頂いてるんですよ。だったらお釣りを」


 のろのろとした足取りでタクシーに近づき、お釣りを受け取った。混ざるといけないのでポケットにその分を突っ込む。黒塗りのタクシーがその場を去った。


 携帯電話を取り出してエリカさんに向けて発信するも、機械は二人を繋げてはくれなかった。途方に暮れたように俯き、その場から歩き始める。地下鉄かバスを探そうと思った。それで、とにかく帰ろう。明日になれば、何かが……。


 意識の中では、エリカさんが吐き出した言葉の幾つかが陽炎のように揺れていた。



* * *



 何も解決せず、何もなしえなかったデートの翌日。


 俺はまた芸がないことに、今度は朝から友人に相談を持ち掛けていた。エリカさんにメールやLIMEを入れても、返信されることも既読になることもなかった。


「と、いうことがあったんだが」

「ふ~~ん。そっか、叶野さんが一人でいる訳が、なんとなく分かった気がする」


「シン? それは」

「ま、安心しろ。お前は嫌われている訳じゃない、むしろ逆だな」


「逆?」

「そ」


「でも、それじゃ何で……」


 深い瞳の色を湛えた友人が、薄っぺらい俺の存在を射抜くように見つめてくる。だがそれも僅かな間で、深刻な気配を打ち消すように整った顔をニッと崩す。


「何かあったんだろうな、家のことで。叶野さん、スンゲー親が金持ちなんだろ。市内に幾つもビルを持ってるとかで。建設会社のご令嬢だって話だし」


 噂……だろうか。俺の知らない情報がそこに含まれており、何と応じれば良いか分からず、黙ってシンを見つめた。奴が少し真面目な顔になって続ける。


「で、問題はここなんだが。そんなお嬢さんが何で公立に来たんだ? 設備の整った私立に通い続けてればいいだろ? 現に中学まで、県内の有名なお嬢様学校に通ってたらしいって話だぜ。いくらこの学校の進学率が高いからって、不思議な話だよな。わざわざ外部受験までしてまで来る価値があるとは思えない。そうだろ?」


「それは……確かにそうだが」

「まぁ、やっぱり。色々と何かあったんだろうな」


「色々と……か」

「あぁ、生きてりゃあるんだよ。色々とな」


 昼休憩に入ると、俺は席に遣って来たシンの「行くのか?」という問い掛けに頷き、エリカさんに会いに行った。昨日の延長線上にある今日を、歩む、歩む。


『あぁ、生きてりゃあるんだよ。色々とな』


 強さとは、人間的な魅力とは何だろうと、そう考えながら。


 だがエリカさんはいつもの窓際の席にはいなかった。欠席しているのかとクラスの人間に尋ねると、どうもそうではない様子で、ならばと学校中を探し回る。


 結局、見つかったのは探し始めて三十分近くが経過した頃だった。木陰に隠れた校庭隅のベンチに腰かけ、彼女は食事を終えた様子で参考書を開いていた。


「やぁやぁ、エリカさん。この間のデートは楽しかったな」

「…………」


 常と変らぬ陽気さで声をかけると、エリカさんは純度の高い氷のような一瞥で俺を迎えた。そんな反応は初めてだったが、臆さずに続ける。


「それで今週末だが、またデートしよう。長島の方まで赴いて今度は遊園――」

「まったく……わざわざこんなところまでやって来て」


 俺のわざとらしい調子を、深い嘆息を伴った言葉でエリカさんが遮る。ざわりと耳鳴りがした。切れ長の眼で俺を威嚇するように彼女は睨みつける。


「もう話しかけないで下さいと言いませんでしたか? お引き取り願います」


 言葉の端々まで神経が通っているかのように、有無を言わせない迫力がそこにはあった。そんな彼女の態度を打ち消したくて、呆れて欲しくて、笑って欲しくて。

 

「ちょ、調子でも悪いのか? なら」


 俺は、俺は……。


「帰って、」


 足元から緊張感が膨れ上がる。前髪に隠された彼女の表情。見えない、分からない。俺の鷹揚な調子を退けるように、次の瞬間にはエリカさんが立ち上がり、


「帰って下さいと、行っているのです!!」


 参考書が膝から落ちるのも構わず、彼女は叫んでいた。

 静寂が人のいない校庭を間借りしている。


 俺の中の何か感じやすい部分が怯え始めた。流れる時間の感覚が不確かになる。目と鼻の先では、何処か作り物めいた気丈さでエリカさんが俺を見つめていた。


「……前のデートで、気に障るようなことをしたのなら謝る。すまなかった」


 何とかしたかった。この場を。でも努力で出来ることと出来ないことがある。


 再び俯いたエリカさん。俺は地面に落ちた参考書を手に取り、砂埃を叩いて彼女に差し出す。ポケットに入れていた、タクシーのお釣りが入った封筒も重ねた。


「あ、謝らないで!」


 それをエリカさんは、受け取らなかった。


「しかし、俺には謝ることしか出来ない」


 心を開いてくれと、そう訴えるように声に感情を込めた。エリカさんはそんな俺を認めると、怒りとも悲しみともつかぬ感情を顔に滾らせ、口を震わせ始める。


「あ、あなたを、あなたを見てると、イライラするんです。何で、私に興味を持って話しかけてきて。わ、私……もう、嫌なの! 本当に嫌なの! だから、私を一人にしてください。お願いだから構わないで! 私なんかに、私なんかに……」


 そんなことを言われたからといって、引き下がることは出来なかった。理由は分からなくても、自分が好きな人が苦しんでいる。それは耐えられない苦しみだ。


「エリカ、どうしたんだ? 悩んでいることがあるなら話してくれ。一人で抱えてちゃ心が痛いだろ? 痛くなるばかりだ。大丈夫だ。俺はずっと、お前の傍に」


 だが、そう諭すように言うものの、


「う、うるさい!!」


 またしても俺の言葉は、エリカさんの激情に押し留められてしまった。


「エリカ……」

「だ、大体、あ、あなた。人の気も知らないで、ヘラヘラ、話しかけてきて、そ、そういうの、すごく……すごく。き、ききき、き」


 俺が「あ」と声を漏らすと、彼女は体の底から絞り出すように声を放った。



「気持ち、悪いのよ!?」



 意識は拡張感を伴って、白く白く、俺を塗り潰した。

 無限の速度を伴った何かが俺の間を通り抜ける。苦笑しながら応じた。


「すまない……気持ち悪くて」


 傷つかなかったと言えば嘘になる。でもその通りだった。とても、とても俺は気持ち悪い奴だ。だが極まった冷静さが囁く。今泣きそうなのは誰なんだ? と。


「分かったら……もう、来ないで下さい」


 激情の残滓にひたひたと洗われながら、静かに、震えた声でエリカさんが言う。


「エリカ……」

「もし次、来たら。私は今後、登校を拒否する覚悟があります」


 その口調は雄弁に彼女の決意を語っていた。プライドの高い彼女だ。ヤルと言ったのなら本当にヤルだろう。そういうことを短い付き合いながら俺は知っていた。


 自分を持て余すように考える。

 これはもう、終わったということなのだろうか、と。


『エリカ! そんなことよりデートだ!!』

『だ、だから、しないと言ってるでしょ! いい加減にして下さらない? そもそもここは一年三組ですよ。自分のクラスに戻ったらどうです? ま、松島君!』


 これが、恋愛に努力するという言葉から始まり、彼女に話しかけ、デートし、付き合おうとした結果だというのだろうか。俺がしていたのは恋愛じゃなかったのだろうか。自分から一歩も外に出ることは出来ず、単なる打算にまみれた……。


『ねぇ松島くん。私、怖いの。人を信じるのが、あなたを、信じるのが』


 自分の気持ちが、分からなくなった。


「分かった。なら謝らないし、もう、話しかけない」

「……えぇ、そうして」


 静寂の泉から、様々な感情が溢れて来そうになる。俯き続ける彼女に参考書とお金の入った封筒を差し出すと、彼女は力なく受け取った。一人、言葉を探す。


「楽しかった。本当に、楽しかったんだ。有難う」

「……はやく、行って下さい」


 彼女に背を向け、その場から離れた。踏みしめる校庭の砂の音が意識に刺さる。昇降口に戻ると学校の喧騒がよく聞こえ、室内履きに替えようと視線を上げる。


「よぉ、ジュン」


 現実的な思考も目も、よほど下を向いていたらしい。廊下に立って俺を見ている男の存在にようやく気付いた。ソイツが、手を上げる。ソイツが、笑う。


「時間なくなっちまうぞ。さっさと昼飯食おうぜ。冷めちまう」

「シン……あぁ、そうだな。ははっ、弁当だから、とっくに冷めてるがな」


 それから俺はエリカさんに会いに行くのを止めた。


 翌週から期末テスト週間も始まり、俺は必死になって努力した。テストが終わる。中間よりも順位は上がっていたが、結果は二百三十六人中の二十二番だった。


 全力でやって、それだ。それが俺の立ち位置。


 シンは軽くこなすようにやって四十三番という順位だった。少し熱を込めれば簡単に抜かされてしまいそうな、僅かな差しかない順位だ。一流の人間が前方に整然と並び、二流の人間が背後に乱雑にひしめいていた。


 デートに気と時間を奪われていたということもない。エリカさんとの初デートを終えてからは、殆どいつもの勉強のペースを取り戻していた。むしろ遊びに出かけるのは良い息抜きにもなった。この結果は要するに、才能の限界だろう。


 努めて見ないようにしていた考えが、ふと現れてしまう。見て、見えてしまう。


 俺は努力に時間を費やし、今ここにいる。なら努力しなかった俺は今どこで、どんな顔をしてるのだろうか。それはそれで幸せなのかもしれない。分を知り、そこそこにやっていくことも。意地になって世界に働きかけず、自然体であることも。


 エリカさんのこと。高校に入って初めての期末テスト。自分の才能との直面。落ち込むことが多かったからかもしれない。そんな風にネガティブになっていたのは。


『努力というのはね、世界を変える行為なの』


 ねぇ、ヨシコ先生。その世界が、働きかけても働きかけても、無機質な現実でしか応えてくれなかったら。


『だ、大体、あ、あなた。人の気も知らないで、ヘラヘラ、話しかけてきて、そ、そういうの、すごく……すごく。き、ききき、き』


 その世界が、働きかけることを拒んでいたら。


『気持ち、悪いのよ!?』


 先生、俺は……。


「よっ、らしくねぇぞ。落ち込んでるのか?」

「シン……」


 期末の順位が発表された日の放課後。皆が帰った後も一人、俺は教室でぼうっとしていた。何処かに行っていたらしいシンが戻ってきたことにも気づかなかった程だ。恐らくそれは、自身の同一性に揺らぎを感じた、人生何度目かの日だった。


「どうした相棒? 世界の複雑さとか、自分の才能とかに嫌気がさしたかい?」


 虚脱状態にあった俺にシンの軽口がぶつけられる。焦点を奴の顔に結んだ。

 嫌気が差す。確かにそんな状態だった。落ち込んでいたといってもいい。


 そう、その筈なのに…………。


「まったく、誰に言ってるんだ。挫折や失敗なんて、嫌という程に経験してる」


 気付くと、苦くも微笑んでいる自分がいた。友が笑みを深める。本当になんて奴だ。随分と簡単に言ってくれる。でもコイツが言うとそれも嫌味に聞こえない。


 シンよ。


 心の中で呼びかける。お前のように成れたらなと、時々思うことがあるぞ。格好よくて人間味もあって、色んな経験則を溜めこんでて。勉強せずとも出来て……。


 友の憎たらしいくらいに大きな目を覗きこみながら、そう考えた。考えたが、


「いや、でも……まぁこれが俺だな」


 らしくなかった。そんな考えは、全く、自分らしくない。


「ははっ、なんかスゲェなお前って。んなことよりもさ、いいのか? 叶野さん」

「いい訳あるまい」


 そして、問われたなら自然とそう答えていた。校庭で別れてから先、俺は何度も考えていた。自分のことを確かめるように。彼女のことを、エリカさんのことを。


 俺が彼女をどう思っているのか。その心に偽りはないのか。


 結果として、まだ上手く言葉にすることは出来ないが、俺が彼女に惹かれていることは間違いようのない事実だった。遊びなんかじゃない。打算でもない。


 彼女を想い、俺は生き物となる。初めての自分とばかり対面する。馬鹿だなと思う。そんなことを確かめなくてはいけないなんて……本当に、馬鹿だ。


「そっか、こっぴどく振られたみたいだけど。まだ気はあるんだな」

「あぁ、俺はエリカさんのことが、好きだ」


「おーおー、恥かし気もなく。んじゃまっ、色々と頑張ってみようぜ」

「シン……」


 俺が弱気を籠らせた声で呼びかけると、アイツはまた笑った。


「物事って結構、単純で簡単なんだよ。困難にぶち当たった時ってさ、結局二つしか方法はないんだ。これが単純なだけに、色々と楽でさ」


「そうか、ちなみにその二つとは?」

「ん? 決まってんだろ」


 そこでシンが、ニィっと口元を綻ばせて言う。


「諦めるか、努力し続けるかの二つだよ」と。


 随分と似合わないことを言っているなと、少し驚いた。すると再び笑っていた。


 ただシンの言葉は他人のものじゃない、経験という名の重みを乗せた、自身の言葉としての響きが込められているようにも感じられた。諦めた経験があり、それを何処かで悔いているような。それでも仕方なく生きているような、そんな感じが。


 ふと、お前は何かを諦めた経験があるのかと、一人の友人として尋ねてみたい気持ちに駆られた。本当によく分からない奴だ。本当に……だが、……こうも思う。


 ひょっとしてコイツは、生涯の友人になるかもしれない、と。


「いずれにせよ、二流のお前に追いつける、そんな人間ではありたいな」

「は? ったく、お前って本当に変わってるよな」


「自覚はしてる」

「ははっ、本当、変な奴。あははは」


 苦笑を引き絞るようにして応えると、シンが楽しそうに笑う。

 教室には黄昏が忍び寄り、男二人の輪郭を音もなく茜色に染め始めていた。



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