01.プロローグと三流男
大概のことは、今まで努力で何とかなってきた。
だから今回のことも上手くいくに違いない。経験則がそう囁いている。事前に勉強もした。要するに押しだ。めげない心だ。イタリアンでカジュアルフレンチだ。
「やぁやぁ、エリカさん」
「う……あなた、また来たの?」
皆がワイワイと昼食を摂っている昼休み、一年三組後方の扉を開く。そして窓際の席で物憂げに頬杖をつくエリカさん目掛け、今日も突撃を仕掛けた。
ウェーブがかった蜂蜜色の長い髪に、細面の鋭い顔立ち。キツメのお嬢様といった印象を見る者に与えるエリカさん。彼女は整った顔を向けるなり、眉を顰めた。
だがその反応には慣れている。大丈夫だ。無視されていない内は全然余裕。まだまだイケる。頑張れ俺。勉強の成果を披露しよう。さぁ、軽快なトークタイムの始まりだ。
「いやぁ、今日は天気がいいな」
「あ……雨よ」
直後、その場の空気を切り裂くように雷音が鳴り響く。視線を外に向ければ、指摘された通り、窓の外は曇天が支配していた。
「ふむ、目も覚めるような晴天。ピクニック日和だ」
「だ、だから……雨ですよ」
稲光が窓から侵入する。光に照らされた彼女は何故か、額に汗していた。劇的な運命にも似た音が再び遠くから響き、教室内の女性徒が小さい悲鳴の声を漏らす。
「エリカさん……」
「なっ、なんですか?」
挨拶はここまでにして、と、俺は彼女をじっと見つめた。
「ビューティフォー」
「え? ま、またそれ?」
「あぁ、一日一度は褒めろと愛読書に書いて……いや、何でもない」
「ちょっと、今何か、とても不審なことをおっしゃいませんでしたか?」
「そんなことよりもだ……エリカ!」
「毎回毎回、訳がわかりません。あと、突然そうやって呼び捨てにするのは」
「今週末、俺とデートしよう!」
「お、おおおおお、御断りよ!」
そこで三度目となる雷音が、昼休み中のクラスを包んだ。
そんなこんなで今日も断られたが、昨日より会話がスムーズになっていた気がする。これは進展と捉えていいだろう。やはり冒頭に天気ネタを取り入れたのが効いているに違いない。よし、いいぞ。これはメモしておかなければ。
「え~~~、天気の話題は、とても効果的……っと」
「あ、あなた、用件が済んだらさっさと帰って下さいませんか?」
メモをとっていたらエリカさんが心底面倒そうな顔で述べてきた。ほぉ、まだ俺とトークを弾ませたいとは。よぉし、いいだろう。弾ませるぞトーク。
「ん? 待てよ。そういえばこれを忘れていたな」
「ちょ、人の話を聞いているんですか?」
「エリカ!」
「な、なんです? しかも、また人を呼び捨てにして」
「今週末、イタリアンでカジュアルなフレンチを俺と食べに――」
「い、行かないと言っているでしょ!? それにイタリアンなのかフレンチなのかはっきりしなさい! 大体、あなたカジュアルフレンチの意味が分かって」
こうして通算十五度目のお誘いが撃沈した訳だが、こんなの何でもない。諦めない内は物事は鋭意改善中なのだ。だから俺は、明日も明後日も誘い続けるだろう。
「エリカさんと今日はちょっと仲良くなった、と……よし!」
「だから、人の前でよく分からないメモをとるのはやめなさいと!?」
* * *
努力、それは世界へと働きかける行為だ。
勿論、世の中には努力で解決出来ないこともある。例えばお婆ちゃんが癌で亡くなったり友人が交通事故に巻き込まれたりしたことは、俺一人の努力ではどうにも出来ない。そういうことは、よく、分かってる。努力は万能ではない。
しかし、努力しなければ世界はただ目の前を流れていくばかりだ。時間は前にしか進まない。だからこそ、こちらから世界へ積極的に働きかける必要がある。
そのことに俺が気付いたのは小学五年生の頃だった。
意識が芽生えた頃から既に俺は肥満体形だった。そこそこ嫌な思いをすることもあったが、幸いなことに苛められたりすることはなかった。俺は運動の出来るデブで、
「やばい、やばいぞ! 皆、気をつけろ! 田辺のボールがくるぞ!」
「どいてな、俺が盾になる」
「ジュ、ジュンジュン!?」
「この脂肪にどれだけ金を掛けたと思ってる。デブは伊達じゃないぜ」
そうやって皆の盾になってドッジボールをするのも楽しかった。
体型にあまり不満はなかったように思う。
「あ、痩せてみよう」
それが小学五年の夏休み。ダイエットという言葉をテレビで知り、ふと痩せてみようと考え始めた。方法論とかよく分からなかったから、両親にその旨を告げてご飯の量を減らし、自転車で毎日そこら辺を駆け巡った。大好きなお菓子も止めた。
腹は減るし食べたい物を口に入れられないのは切ない。自転車も飽きた。それでも途中で投げ出すのは、自分が何だか駄目な人間になるような気がして嫌だった。
結論から言えば、途中で諦めなくてよかった。ダイエットが俺の人格形成に大きな役割を果たしたからだ。その夏、どうにか俺は脂肪を落とすことに成功した。
「え? ジュ、ジュンくん?」
「お~よく気づいたな。おいす。おはよう」
夏休みが三分の二以上過ぎた登校日のこと。最初に俺の変化に気付いたのは、クラスで人気者のヒメノちゃん(腹黒い)だった。
「へ、う、嘘? ね、ねぇ! みんなぁ!! ジュンくんがぁ!」
それから暫く、俺は皆からチヤホヤされた。
それは別にいい。まぁ嬉しかったけれども。それよりもだ。
「ジュンくん、努力したんだねぇ」
「努力?」
担任のヨシコ先生が俺の変化に目を留め、そう言ったことが俺の人生を変えた。
キョトンとしていた俺に、少しおっとりしているが人気者の先生が続ける。
「そう、努力というのはね、世界を変える行為なの。とっても凄いことなの」
「先生、難しくて意味がちょっと分からないんですが」
俺は頭をボリボリ掻きながら応じた。ご推察の通り、あまり頭はよくないのだ。
そんな俺にヨシコ先生は優しく微笑む。
「うふふ、ごめんなさいね。でもね、ジュンくん。君はとても凄いことをしたのよ。これから先、何か辛いなぁとか、難しいなぁとか、嫌だなぁと思った時は、今日の日のことを思い出して。あなたはきっと、それを乗り越えられる。痩せたみたいに頑張れば、自分の世界を変えられるの。まぁ頑張りすぎはよくないけどね」
先生も小学五年生に向け、努力を難しく説明し過ぎだ。
「世界を、変える……」
だが俺はその時、世界の真理に触れ、自身が空洞になったかのような感に打たれた。その空洞に響くのだ。先生の言葉が、残響を伴って。世界を変える力、それが努力。小学五年生には魔法じみて響く言葉が、俺の生きる上での指針となった。
それからも結構、色んな困難があった。
リバウンドしたり、マラソンが駄目な儘だったり、中学で入部したバレーボール部でなかなか上達しなかったり。或いはそれは、学業上のことだったりした。
でもまぁ、どれもそれなりに努力でどうにかしてきた。
世界を変える遊びは俺にとってゲームより何十倍も何百倍も面白かった。不可能だったことが可能になるあの瞬間。何かが結びついたように閃きが訪れる瞬間。
馬鹿みたいに興奮し、俺は努力を続けた。世界は俺の手の中にあった。
勿論、それでバレーボールの大会に優勝したり、テストで学年一位が取れたりする訳じゃない。運の要素もあるし、才能や環境、方法論なんかも多分に影響する。
それでも俺はこの遊びに夢中になった。まるで世界に俺というダイスを必死になって投げ入れるように。そうして中学を卒業し、家から少し遠いが、偏差値のかなり高い公立高校にも入れた。さぁ、高校生になったら何を努力してやろうか。
「エリカさん、おぉ、あなたの髪の美しさは、アフロディテも嫉妬する」
「は? い、いきなり現れて、また何を」
「エリカさん、おぉ、あなたの眼差しはアルテミスに劣らず優美だ」
「ひ、人の話を聞いてるの?」
「エリカさん、おぉ、あなたの口元はゼウスの妻、ヘレネですら感嘆するだろう」
「あ、あの、ちょっと?」
「エリカさん、おぉ、パリスの審判中ですら、あなたが通りかかればパリスはあなたを選ぶだろう。アフロディテにも、アルテミスにも、ヘレネにも勝って、あなたは美しいのだから」
「え……あ……?」
「…………」
「…………」
「エリカ」
「な、なんです? あと、呼び捨てにするなと」
「デートしよう、今週末」
「お、御断りよ!」
と、前置きが長くなったが、俺は今エリカさんに向けて努力している最中だ。
叶野恵梨香。波打つ長い蜂蜜色の髪に、少しキツイお嬢様風の顔立ち。周囲に品格を立ち昇らせた女性。窓際で一人頬杖をつく、別のクラスの女生徒。
彼女にアタックし始めたのは、高校で同じクラスになった松田信の言葉が切っ掛けになっていた。松田信。俺のクラスメイトにして、唯一無二の親友だ。
「きみ、どこの中学出身? いやぁ俺、同じ中学出身の奴が殆どいなくてさ」
入学式。割り当てられたクラス毎に別れて体育館で並んでいたら、背中を突かれ話しかけられた。小さい顔に大きな瞳。イケメン過ぎて吹き出すレベルの男だ。
シンを通じて俺は何か、世の現実を見た気がする。県下有数の進学校だからと皆が地味でガリ勉という訳ではない。バランス感覚に優れたシンのような奴もいる。
ただ授業は中学に比べてはるかに進行が早く、皆が集中して受けているのは肌で感じた。授業中は緊張の糸が張り巡らされているかのように静かで、気迫がある。小テストも多い。学力に優れた才能ある人間たちの中で、俺は三流の人間だった。
三流。つまりは必死に勉強しないと点数がとれないタイプだ。そこまで勉強しなくても出来る人間が二流。これはシンみたいな奴。その他にクラスに数名いる、勉強しなくても点が取れる癖に、自分の興味を満たす為に勉強している奴が一流。
この区分けを教えてくれたのはシンだ。入学後の実力テストが終わった昼食時のこと。必死で勉強したにも関わらず、俺とシンの順位にさしたる差はなかった。
二人の順位や点数を見比べた後、シンが驚いたように言う。
「へ~~、なんだ、意外だな。ジュンって努力家タイプだったのか。飄々としてて我が道をいくって感じだから、一流のヤツだと思ってたぜ」
「む? ふぁんふぁ、その、いひひゅうふぉいうふぉふぁ?」
「いや、口の中のもん飲みこんでから話せよ。言いたいことは分かるけど」
そこでシンが実にあっさりとした口調で、一流と二流、三流の区分けについての持論を述べた。それは俺も感じていることであり、特に反論もなく納得した。
「面白いな。その区分けに従うならシンは二流で、俺は三流の中の三流といえるだろう。ふむ、シンよ、これからは俺のことはキングオブ三流と呼んでも構わんぞ」
「キングオブ三流って……お前、自分で言うのかよ」
「事実だからな。なにせ俺は努力しか能の無い人間だ。それはよく分かってる」
「ふ~んそっか。ははっ、そういう風に言い切っちゃうところ、好きだけどねぇ」
シンはよく片頬を窪ませて笑う。そんな気障な笑いも絵になる男だ。基本的に誰とでも仲良くなる奴だが、気が楽だとか、妙に馬が合うとかいう理由で、俺とつるむことが多かった。それは俺にとっても同じで、奴との空気は自然で心地よい。
「しかし一流、二流、三流か。ふふ、やはりここの学校に来てよかったと思えたぞ。シンのような人間とも会えたしな。三流の俺だからこそ努力し甲斐がある」
「おっま、ドMだな。まぁいいけどさ。んで何よ、そんなに努力が好きなの?」
「うむ。努力以外に何もない人生だったからな」
「は~~~、恋愛とか興味ねぇの?」
「恋愛?」
「そ~そ~、女の子と付き合うとかさ」
「女の子と……か」
言われて、ふむ、と思った。思えばそこから全てが始まる。
恋愛。惚れたり腫れたりするアレだということは認識していたが、正直あまり興味がなかった。それに俺はシンみたいに整った顔をしてもいなければ、格好良く制服を着こなす術も知らない。そんな俺が異性から好意を寄せられるとは思えない。
だが思い返せば中学生の頃、同級生からバレンタインチョコを貰ったり、後輩から告白されたことはあった。努力の邪魔だからと相手にしてなかったが……。
「うっわ、最悪だな。それ」
「む? そうか?」
素直にそのことを伝えると、シンにそう評された。考え込んでしまう。確かに最悪だったかもしれない。しかし中学の時は異性や恋愛に全く興味を持つことが出来なかった。勉強や部活への努力が面白くて仕方なく、それに熱中していた。
「んじゃ高校一年くらいは、少しは恋愛に努力してみたらどうだ?」
「恋愛に、努力?」
椅子に腰かけて腕を組んだ態勢で思案していると、シンが鼻から息を抜いて言う。言っている言葉の意味が分からず、シンに焦点を結びながら繰り返した。
「おいおい、まさか努力の対象が学力やスポーツに限定されると思ってる訳じゃないだろ?」
「それは……確かにそうだが」
その時の俺は、奴の口から出た「恋愛」と「努力」という言葉の組み合わせに斬新さを感じ、思わず言ったに過ぎない。恋愛に努力。だがその直後、待てよ、と何か発想の転換を迫られるような、あの独自の、世界がぐるりと回る感覚に陥った。
それは勉強をしていると、稀に体験することでもあった。
これだと決めつけていた指先を別の方向に向けてみる。あるいはその指先の方向性を疑う。すると見えてくる物があった。その時の感覚に、どこか似ていた。
風に吹かれた風見鶏のように、俺の中で回転したものが確かにある。
シンが机に頬杖をつきながら続けた。
「こればっかりはどうしようもないけどさ、才能を持ってる人間は本当に凄い。ほら、俺たちのクラスにもいるだろ。木下とか吉田とか、一流の奴。中学の頃から進学塾の全国模試の上位常連で、今も授業と全然関係ない本を開いて勉強してる」
話に出た二人の席を一瞥した後、答える。
「あぁ、逆立ちしても俺は彼らには敵わないだろう」
「高三になったら、全国のそんな奴らと戦わなくちゃいけないんだ。なら今の内に青春を謳歌したり、その戦いを一緒にやれるパートナーを作っておくのも悪くないんじゃないか? まぁ、恋愛に飲み込まれないよう気を付ける必要があるけど」
「なるほど」
「それに恋愛だって頭使うし、効率的に物事を処理する演習にもなる。バランス感覚だって養える。生活にメリハリだってつくしな。どうだ、恋愛に興味でたか?」
「ふむ」
はっきり言えることがある。それは俺がつまらない、魅力のない人間だということだ。シン的に言うならばバランス感覚が悪かった。中学の頃は勉強や部活ばかりに励み、友達とも遊ばず恋人も作らず、人間的な幅というのを育ててこなかった。
シンにその意図があった訳じゃないだろうが、俺はその時、俺の駄目な部分を指摘されたような気にもなった。高校では勉強一本に絞ろうと思っていた為、部活はやらないと決めていた。一年なら勉強にも余裕がある。バランス感覚……か。
「シンよ、お前の言うことは一々もっともだな」
腕を組み直し、感心したように述べる。シンが薄く笑った。
「はは、それはど~も。んで、誰か気になる娘とかいないの?」
「気になる娘、か……。そうだな、他のクラスの女生徒なんだが」
そこで俺は初めて、物語的にいうならようやく、叶野恵梨香さんのことを口に出した。シンは「お」の形に口を開けながら驚いて見せた後、ニヤニヤと笑う。
「はいはい、叶野さん。あの気の強いお嬢様みたいな人だろ。見たことあるぜ。一年三組だっけ? へ~~しっかし、まさかジュンがねぇ。ははっ、お前やっぱドMだよな。キツメの女子が好きなんだ。まぁ、美少女なことに間違いはないけどさ」
「よく分からんが、気になるのだ。あの、人になびきそうにない所がとてもいい」
事実そうだった。一目見た時から存在に心が奪われていた。高嶺の花とでもいうのだろうか。周囲に高貴さを咲かせ、凛とし、毅然とそこにある女性。
この学校でシンを見ても驚いたが、エリカさんには更に驚かされた。同時に笑ってもいた。凄いな、この世界は、俺が思っている以上に面白そうだ、と。
「おまっ、それを世間ではMとか奴隷体質とか、あれ? ちょっと違うのか。まぁいいや。んじゃ、俺が色々と調べてきてやるよ、叶野さんのこと」
「ほぉ、助かる。何と有能な男だ、お前は」
「ほぉって……ははっ、お前って本当、面白い奴だよな」
シンはエリカさんのことを調べると言った翌日には、早速情報を仕入れてきた。
が、奴の顔が躊躇いに少しばかり曇っていたことを俺は見逃さなかった。
「ジュン、叶野さんは少し難しいかもしれないぞ」
二限、三限の放課には姿を消し、昼休みの開始と共に俺の席にやってきたシン。
奴の珍しく自身が無さそうな言葉に俺は訝しむ。
「シンよ、それはどうしてだ?」
「いや、三組の男子と女子にちょろっと話を聞いたんだけどさ」
そこでエリカさんが一年三組で孤立していることを知った。
同じクラスの男子曰く、無愛想で口数も少なく、高慢にさえ見えるとの話だった。家は有名な建設会社でかなり裕福らしいのだが、それを含めてあまり良い印象を持たれていない。話を聞いた女子に至っては色々と言葉を濁していたという話だ。
「要領が悪いタイプだな、あれは。勉強も出来るみたいだが、まぁ三流だろ」
「ほぉ、となると、三流の俺とはピッタリだな」
「勉強面ではな。しかし向こうはかなりの美人だぞ、しかも金持ち」
「ふむ、母親はパートに出て父親は冴えないサラリーマンの息子である、庶民の俺の血が騒ぐというものだ。当然、家のローンはバッチリ残っている」
そこで俺はシンに向け、ニヤリと自覚的に微笑んでみせた。
「あれ? お前、まさか努力モードに入ってる?」
俺のやる気が伝わったのかシンが目を瞬かせる。その言葉に頷いた。
「あぁ、友の厚意には全力で応えたいからな。昨日の帰りには本屋に寄ってネットで評価の高い恋愛に関する本を購入した。そして夜の勉強時間と早朝のランニング時間を短縮し読書に励んだ。無論、通学電車の中でもだ。そして今朝、その全ての読破に成功した。フハハハ、という訳で完璧な筈だ。よし、ちょっと行ってくる」
そこまで述べると、俺はおもむろに席を立った。
「は? 行ってくるって……ちょ、おい、ジュン?」
シンの声を背後に聞きながら、俺はずんずんと歩を進める。目指すは一年三組だ。「ちょ、待てよぉ」という友の声が聞こえてくるが、すまんが無視する。
恋愛。それは攻めあるのみ! ぐだぐだまどろっこしいことをやらないで、ただひたすらに攻め、断られても攻め、足蹴にされても攻める。これこそ迂遠に見えて最短の、そして最も効果的な方法だと幾冊の本を読んだ中で結論づけた。
「ちょ、ジュン? おま、行くって? えぇ!? ちょ、ま」
ご丁寧にもついて来てくれたシンの声を振り切り、そうして俺は一年三組の扉に手を付け、開いた。以後何度も開くことになる、エリカさんに通じるその扉を。
そしてサンドイッチを摘みながら勉強している彼女を見つけると、近寄り、
「エリカさん!」
「え? あ……え、えっと、あなた、どなた?」
エリカさんとの対面を果した。
その勢いのまま、朝から考えていたとっておきの自己紹介を披露する。
「俺の名前は松島潤。一年一組だ。気軽にマツジュンと呼んでくれ」
「は? ま、マツジュン?」
結論から言おう。だだ滑った。ワックスを塗ったばかりの教室の床くらい滑った。ツルッツルだった。焦った。焦りに焦った。だがそれを悟られてはいけない。
「そんなこよりも、エリカ! 俺と今週末デートしよう!」
「でーと? でーとって……は、はぁぁぁ!? い、いきなり現れて何を!?」
「ちょ、ジュン!? ええぇえっ? えぇええぇええぇぇええっ!?」
そんなこんなで、今に繋がる。
俺はそれ以降殆ど毎日エリカさんの元に足を運んでいた。そう、現に今もだ。
「エリカさん……髪、ちょっと切った?」
「切ってません。というか、あなたはまたいきなり現れて」
「あ~~前髪のバランス難しいよね。わかる~~」
「あなた、とことん人の話を聞かないのね」
「プリン・アラモードって、流行りのプリンって意味だって知ってた?」
「は? あぁ、アラモードはそういう意味だったんですか」
「わかる~~ちょ~~うける~~~」
「あ、あなた……やっぱり人のことを馬鹿にして」
「エリカ! そんなことよりもデートだ!」
「だ、だから、しないと言ってるでしょ! い、いい加減にして下さらない?」
「ふむ。いい加減にしない。絶対にだ!」
「っ、そもそもここは三組ですよ。自分の教室に戻ったらどうです? ま、まま」
このようにして果敢に攻めているのだが、今日も今日とてデートは断られた。
まぁそんなことよりもだ。
「松島君!」
その時、驚くと同時に思わずニタ~っとしてしまった。何ということだ。あのエリカさんが俺のことを初めて苗字で呼んでくれた。”あなた”から”松島君”への変化は大きい。つまりは確実に俺を意識し始めているということだろう。違いない!
「な、何を笑ってるんです?」
「いや、別に」
俺が個人的にはチンしたバター位にふやけた顔をしていると思っていたら、エリカさんが不満げに問い質してくる。のみならず、
「そ、そもそも、こうやって毎日来られて、その、デートに誘われるの……恥ずかしいんですけど。止めて下さらないかしら?」
せわしなく視線を俺と周囲の交互に置きながら、苦言を呈してきた。
おぉ、これが噂に聞く揺れる女心というやつか。知っている、知っているぞ!
「ふむ。恥ずかしいとは、エリカさんが周囲の目を気にするとは思わなかったな」
「は? あ、べ、別に、私も周囲の目を気にしている訳では」
「なら大丈夫だな。明日も誘いにくるぞ」
「え? あ、はい……じゃなくて! も、もう来ないでくださらない?」
「分かった」
「…………え?」
「明日も来る」
「わ、分かっていないじゃありませんか!?」
そんな具合で一か月になるが、未だにお誘いは一度も成功していない。しかし着実に仲は進展している気がする。何よりもエリカさんが俺のことを覚えてくれた。
関わり合いを持たなければ、関係性はいつまで経ってもゼロの儘だ。それが一になった。ゼロと一の間には無限にも似た距離がある。気になっている相手にも声をかけなければ、月日は無情に過ぎ去る。ゼロと一。その間を俺は飛び越えたのだ。
シンに言われてお洒落にも気を遣い始めた。これも努力だ、バランス感覚だ。洗顔や洗顔後の化粧水など新たな習慣を取り入れ、美容室で髪を切って貰う。顔面の偏差値はどうしようもないが、清潔感だけは心がけた。中々に充実した毎日だ。
「おう、お帰り」
昼食時のお誘いから戻ると、例の如くシンは昼食に手を付けず前の席に腰かけて雑誌を開いていた。前の席の小清水君は学食利用だ。シンはコンビニ弁当が多い。
「なんだ、今日も待ってくれてたのか。先に食べてくれてよかったのに」
「はは、お前の失敗談を聞きながら食うのが美味いんだ。んで、どうだった?」
雑誌を閉じながら面白可笑しそうに尋ねてくるシン。俺は口元に笑みを溜めた。
「ふむ、聞いて驚け。シンよ」
「おっ!? ま、まさか!?」
「エリカさんが俺のことを、名字で呼んでくれたぞ」
俺が自信満々で言い切ると、シンは緊張していた肩をガクッと落とした。
「あぁ、そうですか。ん? でもそれって結構、進展してそうな」
「しかし、エリカさんは中々の大関だ。いい足腰をしている。土俵際まで運べている気がするのだがな、なかなか外にうっちゃれない」
「お前さ、相撲に例えるの止めろ。毎回毎回、伝わりにくいから。ん~~でも、大分良さそうな感じだな。なら、たまには引いてみるのもいいんじゃないか?」
「ほぉ、引く。奇襲戦法の一種か? 猫騙しか? 立合い一番のぶちかましか?」
「だから相撲は……って、まぁそれに似たもんかな。急に誘うのを止めてみたりだとか、目の前で他の娘に誘いをかけてみるだとかさ。方法論が色々とある訳よ」
「そんな誠意のないことは出来ん」
「あぁ、そうですか。相変わらず頑固もんだな」
ふむ。だが言われてこうも思った。この頑迷さこそ、俺が伸ばしつつも矯正すべき部分ではないかと。長所と短所は表裏が一体となっているという説もある。
そうだ、俺は恋愛を通じてバランス感覚こそを養わねばならんのだ。俺という存在の更新だ。思考の転換だ。それにはやはり柔軟性を身につけることが……。
そこで俺は閃きに促されるままに、考えを口にした。
「しかし、少しだけ誘い方を変えてみるのはいいかもしれんな」
「は? 例えば?」
「例えばだな……」
別に周囲を気にする必要もないのだが、一つの様式美のように辺りを見回すと、俺はシンの耳に口を近づけ、ごにょごにょと計画を打ち明けた。