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停滞の賢者  作者: 楯川けんいち
精霊の増えた日常編
75/76

14話 賢者の温泉9、弟子と感謝

クレア視点です。

手直ししました(2016/06/08)

「じゃあ、ゆっくりと温泉を楽しんでくれ。僕が女湯に入るわけにはいかないから、なにかあるならウェルティナにな」


 ドワーフの里に着くなり、師匠はそう言っていそいそと男湯へと姿を消した。

 

 それほどに楽しみだったのですか、師匠……。

 

 だけど目の前の立派な建物を見て、私は考え直す。

 

 ここまでのものを三日で建てたほどの熱情だ……。

 私が思うよりずっと……師匠が温泉へ募らせる想いは大きなものなのだろう。

 

 そう認識を新たにすると……ここにきて、師匠をそこまで駆り立てるものへの期待が大きく膨らみはじめた。

 

 

 ***

 

 

 だが湯殿に踏み入った私は、師匠の想いに対する理解がまだまだ浅かったことを知った。


 …………これが、三日で。

 

 師匠の本気とは、なんなのだろう――と、思わず遠い目になって考えてしまう。

 

 なまじ最近は、魔法への理解が深くなっているためか……師匠が何気なく使う魔法がどれほどの高みにあるのかがおぼろげに知れてしまって、以前よりも驚愕の度合いが大きくなっている感じがしていたが……。

 

 これはもう、そういう問題ではなかった。

 

 ただ莫大な――それこそ私がいくらいても賄えないほどの――魔力が使われたことだけが、私にも分かる唯一のことだった。


 師匠の背中はとても遠い、と改めて感じる。

 

「でも、ああ……本当にすごい!」


 だがそんなことは、もとよりわかっていたことだ。


 ならばこそ、今更なことに意気消沈していても仕方ない。

 今は、目の前の素敵なお風呂を楽しもう。

 

「はあぁ、さすが賢者様と言う他ないですね。どんな難事でもサッと魔法でこなすあの方が……三日ほど時間をかけるとこうなるのですか」


 私に続いて入ってきたアイラが、目をあちこちにやりながら静かに驚嘆の声を上げる。

 

「……これが、温泉…………!」


 肩に乗っていたフィアルテは――半露天となっているために――、外から入ってくる光をゆらゆらと反射する温泉へと意識が釘付けになっていた。


「あたしは別にお風呂大好きってわけでもないけど……こう風情があると入るのもやぶさかではないわね」


 さすがに今ばかりは師匠と離れているウェルティナが、そう言ってフィアルテの手を取る。

 

「ほら、フィアルテ。あたしたちは一足先にお湯に浸かってましょ?」


「……うん、行こう」


 体を洗う必要のない精霊二人は、こちらに手を振って仲良く湯船へと突撃した。

 

 ――ばっしゃーーん!

 

 ……文字通り、彼女たちはお湯の表面へと結構な速度で突っ込んだ。

 大量のお湯が飛び散ったが……まあ他の利用者もいないので、私は精霊の二人へと苦笑いを浮かべるに止めた。



 ***

 

 

 体をきれいに洗って、私とアイラもお湯へと浸かる。

 

「ふぁああぁ」


 肩まで浸かった瞬間、口がだらしなく開いてお腹の底から深い息がもれる。

 

 私も温泉は初めての経験だったが……これはたしかに病みつきになりそうな心地よさだ。

 体が芯からじわじわと温まっていく。

 

「……幸せ」


 そんな私の前を、どんぶらこと揺蕩ってきたのはフィアルテだった。

 彼女はいつもならぬ有様で、幸せいっぱいの心情が雰囲気ににじみ出ている。

 特に、にやけた口の端が印象的だった。

 

 そしてフィアルテが漂い去ると、今度はウェルティナがやってくる。

 

「そういえば……この温泉には美肌効果もあるらしいわよ」


 あたしたちには関係ないけど、とウェルティナは言う。

 ちなみに今のウェルティナの姿は、仰向けになってお湯に漂っているというもので……目もトロンとして、もう半分は寝てるのではないかというような様子だ。

 

「美肌か……」


「美肌ですか……」

 

 私とアイラはまず自分の体へ視線を落とし、次に互いの体へ視線を移した。

 

 私の肌は、アイラが手入れをするのもあってそれなりにきれいな方だと思う。

 アイラだって自身のことをおろそかにはしていないようで、肌ツヤはかなりのものだ。

 

 そうなるとやはり、体つきのほうに目がいってしまう。

 

「アイラ……やはり少し大きくなったのではないか」


 彼女の胸部をジトッと見ながら、私は自身の懸念を言葉にした。

 

「そ、その……最近はわたくしもあまり動いていないので、お肉がついてしまって……」

 

 そう言って両手で胸を隠すアイラだったが、私は誤魔化されない。

 アイラはもとからスラッとした体つきで、胸もそれに見合ったものだ。


 けれど……私は知っている。

 近頃の彼女は、下着がきついと時々に口から零していることを――。

 

 それに比べて……。

 私は自分のものへと手を添える。

 

「くうぅ……なぜ私は…………」


 これといった成長が見られないことに、知らず嘆きの声がもれた。

 

 母上はあんなに大きいのに……なのに、なぜ……。

 

「だ、大丈夫です殿下。まだまだ、これからですよ……!」


 気遣わしげに、アイラは言う。

 そんな彼女に私は一つの疑問を投げかける。

 

「そう、だろうか。……ちなみに、アイラが私と同じ年頃のときはどうだったのだ? 私と比べると?」


 その頃には、もうアイラは私のメイドとして傍にいたはずだが……何分昔のこと、私の記憶はおぼろげだった。


「そ、それは……………………でんかのほうがおおきいですよ」


「そ、その間はなんなのだっ!? しかも棒読みのようだぞっ!」


 うう、アイラめ……。

 持つ者の下手な同情こそ、持たざる者の心を傷つけるのだ。

 

「アイラなんて、もう知らないのだ……!」


「で、殿下っ!?」


 私は浴槽の隅――露天部分の端――へと歩き、そこでアイラに背を向けて座り込んだ。……傷が癒えるまでこうしていよう。


 後ろからは、アワアワとするアイラの気配と涙まじりの声が聞こえてきた。

 

 だがそれを余所に、私は膝をお湯の中で抱えると外の景色へと顔を向ける。

 

 

 ――そして、そこにあった光景に、私は目を奪われた。

 

 

 山間でひっそりと雪に埋もれるようにある、ドワーフの里のすべてがここからは見えた。

 雪が深々と降り続けている中でも、至る所の煙突からはふわふわとした煙が吐き出されている。

 それは特別なものでも、何でもない光景だろう。

 けれどその静かな、ただ静かな在り様に……私はどこか無性に惹かれた。

 

 

 何でもない平和な営みであっても、こうして一歩引いて見ると。

 ――なぜ、こんなにも……心を揺さぶるのだろうか。

 

 

 私は不思議な感慨に浸りながら、その景色を見続けていた。

 

 

 ***

 

 

 そうして、私たちは温泉を堪能した後――。

 山を下ったところにある、里の長であるぺルド翁の居宅へと移動した。

 

 私たちと師匠、どちらが先に風呂から上がってもそこで集合することになっている。何分、外は雪が降り続けているからだ。

 

 ペルド邸に着くとペトラと彼女の母パトラが出てきて、私たちを迎えてくれる。

 開けられた扉の向こうからは、良い匂いが漂ってきていた。

 

「ようこそ、みんな」


「さあ~、入ってくださいな。お昼にしましょう」


 この家の主であるぺルド殿の娘と孫娘にあたる二人は、到着するなり温泉へと直行してしまった私たちの食事を作ってくれていたのだ。

 ぺルド殿の妻はすでに亡くなっているようで……私たちをもてなすためにと彼が呼び寄せたのが彼女たちだった。

 

 私自身は歓待されることなどなにもしていないので、大変恐縮なのだが……師匠のついでだからと言われてしまえば断ることもできず……。

 だから感謝しつつも、その好意に甘えることにした。

 

 玄関をくぐりながら、彼女たちに聞く。

 

「師匠はまだだろうか?」


 するとなぜか……彼女たちは顔を突き合わせてから、こちらへと困ったように笑いかける。

 

「実は……うちのお馬鹿な亭主と父、さらに五人ほど暇人たちが酒瓶を握って集まったかと思うと……そのまま裏山に向かっていってしまって~」


「たぶん、賢者様は……捕まっちゃってると思う」

 

 ああ……なるほど。

 ドワーフたちの酒盛りに師匠は付き合っているのだろう。

 

「それでは、しばらくは戻りそうにないな……」


「ごめんなさいね~。ほんと、うちの連中が」


 私は首を横に振って返事とすると、

 

「なら、私たちは先に頂こう。折角作ってもらった料理が冷めてしまっては、申し訳がないのだ」


 ……決して、空腹が辛いわけではない。

 

「そうね、待っていてもしょうがないもの」


 ウェルティナが苦笑いで賛同する。


「……ふぇ、なに?」


 フィアルテは温泉からこっち、ぽわぽわとした様子だったので……話が耳に入っていなかったようだ。


「ドワーフの里の料理……気になりますね」


 アイラは彼女たちの作る料理に興味を持ったようだ。


 ――あの後、涙ながらに平謝りしてきたアイラとは既に和解している。

 どこかすがすがしい気分であった私には、もうあのことなど些末なことに思えるものになっていたのだ。

 だから全然、傷跡になんてなっていない。

 ないったらないのだ。

 

 

 そして私たちは歓談に花を咲かせながら、昼食を頂くのだった。

 

 

 ***


 

 食事を済ませてから、一刻ほどして――

 ようやく、師匠は姿を現した。

 

 ……両脇から、ペトラの父ペイダとぺルド殿に支えられる形で。

 

「あー、わりぃ。飲ませすぎたみたいだ……」


「それと湯疲れもですかな……まこと、申し訳ない」


 ぐったりとした師匠を見て、私は慌てて彼の許へと駆け寄った。

 横では、同じようにしてペトラも。

 

「し、師匠、大丈夫なのですか……!?」


「賢者様、だ、大丈夫ですか……?」


 赤い顔を俯かせていた師匠は、私たちの声に顔を上げる。

 そしてぼんやりとした瞳に私を映すと、ろれつの怪しい様子で私に言う。

 

「……あぁ……ちょっと、のみすうぃた……らしい…………しゅせいを、ぬく……まほーはかけたから……しひゃら、く……よこに、なってれば…………」


 グテンッと、それきり言って師匠の体からは力が抜ける。


 し、師匠――――!

 

 そのとき穏やかな息が師匠からは聞こえてきていたが、初めての事態に私は頭が真っ白になって右往左往してしまう。

 

「はあ……しょうがないわね。しばらく寝かせとけば大丈夫だから、どこかで横にさせてやってくれないかしら? あ、あと枕元に水の用意も」


 そんな私と異なり……ウェルティナは溜息一つすると、師匠を支える二人にテキパキと頼む。

 呆れたような様子を見せている彼女だったが……しかし、どこか嬉しげな雰囲気を醸し出しているような気もした。


「はいよ、ウェルティナ様」

 

「ええ、もちろんです。ペイダ、こちらに――」


 ドワーフの二人が精霊の言葉を無視するわけもなく、身長の関係で足をずるずると引きずられる形で師匠は別室へと運ばれて行った。


 それを見届けてしばらくして、浮足立っていた空気が落ち着く。

 私とペトラも席へと戻った。


 だが、ペトラは席に着くとむーっと頬を膨らませる。

 

「まったく、お父ちゃんもおじいちゃんも……!」


 ペトラは、あの師匠の様態の原因たる己の父と祖父にご立腹のようだ。

 だが恐るべきは……師匠があの様子なのに対して、まったく酔った様子を見せないその二人のような気もするが……。


「ほらほら、ペトラ。あの人もお父さんも、後でお灸は据えておくから……」


 パトラはそのような言葉によって、ペトラの怒りを鎮めさせる。

 そのパトラの目には、なにやら怪しい光が宿っているような気がして……私はそっと目を逸らした。

 

 

 そこで私は自然と、運ばれて行った師匠に意識を向けた。

 

 しかし師匠があれほど体調の悪そうなことなど、今までなかった。

 ……あとで、具合を見に行こう。

 

 うん――と一つ頷き、私は思い定める。

 

 

 そうした私の横では、フィアルテとアイラが問答をしていた。

 

「……湯疲れって?」


「簡単に言えば……入浴のしすぎですね。案外入浴というものは体力を使うものです。それゆえに長居し過ぎれば疲れますし、立ちくらみや頭痛も起こってしまうことがあるのです」


「……わたし精霊で、よかった。湯疲れしないから」


「ふふふ、そうですね」


 ……それでいいのだろうか、フィアルテ。

 まあ、彼女が嬉しそうだから……いいか。

 

 

「あの様子だと……あいつが起きてくる頃には夜になってそうね。それまではゆっくりしてましょ」



 ウェルティナの言葉通りに、私たちはその後ゆっくりとお茶を飲みながら何気ない話を楽しんだ。

 

 

 ***

 

 

 ――時間は瞬く間に過ぎていった。

 

 もう陽が見えるなら、だいぶ傾いている頃だろう。

 そこで一度、私は師匠の具合を見に行くことにした。


 テーブルを囲んで歓談に耽る女性陣の邪魔をせぬよう適当な理由を言って席を立つと、隅にあるソファセットでちびちびと飲み続ける男ドワーフ二人を横目にして部屋を出る。

 そして私は一人、師匠のいる部屋へと足を向けた。

 

 

 ***

 

 

 師匠が寝かされているのは、ベットが一つにクローゼットが一つあるだけの簡素な部屋だった。

 何のための部屋かというと、客室だそうだ。

 ……ほとんど使われることはないらしいが。

 

 そこで、師匠はすうすうと安らかに寝息を立てていた。

 

 顔色も良好で、心配は無用そうだ……。

 ……よかった。

 

 ベッドの端に腰掛けると、何となしに師匠の顔を覗き込んだ。

 あどけない寝顔に、髪がぺたりと張り付いていた。

 そっと、顔にかかっている黒髪を指で払う。

 

 ――もう、このときから。

 のぼせたように、私の頭は空回りし始めていた。


 そのまま手を伸ばして、師匠の頭に。

 そして、いつも私がしてもらうように――その髪を撫でる。

 起こさないように、静かに、優しく。

 

 私のそれと違って、師匠の黒い髪は固くてごわごわしている。

 でも、なぜか……その感触が心地よかった。

 

 心音がどきどきと、体の内にうるさく響いていた。

 それも気にもとめず、私は手を動かす。

 

「気持ちよさそうに、よく寝てるわね……」


 ――だが突然後ろから聞こえた声に、私は心臓が飛び上がった。

 

「……!」


 師匠を起こしてはならぬと叫び声だけは押し殺しながら、バッとすばやく手を引き戻した。

 心音はすでに、バクバクとしたものに変わっている。

 

「そのままでいいのに……クレア」


 そして私が恐る恐る振り返ると――そこにいたのはウェルティナだった。

 

「ウェ、ウェルティナ……驚かさないでくれないか。寿命が縮まったぞ」


 私はホッと息を吐く。

 だがそんな私を見て、彼女は微笑む。

 

「別に、驚かせたつもりはなかったんだけれど……でも、ドアが開けっ放しな時点で廊下からは丸見えよ」

 

 えっ……。

 

「大丈夫。ふふ……誰もいないわよ」


 思わず廊下へと視線を飛ばした私の様子に、ウェルティナは肩を震わせる。

 

「……それで、ウェルティナはなんの用なのだ?」


 気恥ずかしさに顔が赤くなるのを自覚しながら、私は話を逸らそうとした。

 だが……ウェルティナがここにいるのには何か理由があることは、確かでもあったのだ。

 精霊の彼女はお花摘みの必要性はないし……そもそも、それだったら廊下の反対側だから。

 

「すこし、ね……場所を変えましょう?」


 いつもの溌剌(はつらつ)としたものではない……どこか透き通った雰囲気の笑みを彼女は浮かべていた。

 その常ならぬ彼女の様子に私は驚き、目を見開く。

 

 なにか、半端ではない話なのだろうか……。

 

 私は驚きを内にしまってから、彼女の言葉に頷いた。

 

「じゃあ、行きましょうか…………ああ、みんなに長く席を外すことは伝えてあるわ」

 

 背を向けて進みだすウェルティナ。

 その後について、私は歩き始めた。



 ***



 ――私たちは、再び温泉へと浸かっていた。

 先と同じく私は湯船の縁で、ウェルティナは仰向けに湯を漂いながら。

 

 なんとウェルティナが私を連れてきたのは、師匠が掘った温泉だったのだ。

 

 しかし互いに言葉はないまま……暗くなり始めた空から舞い落ちる雪が、数え切れぬほど湯船へと落ちては消えていった。

 

 口を噤んだままのウェルティナに、私はちらりと目を向ける。


 

 彼女の長く美しい銀の髪が、湯の中でその身を包むようにゆったりと広がっていた。

 そして……目を閉じ、手足を無造作に投げ出して湯面に浮かぶ彼女は――例えようがないほどに神秘的で――綺麗、だった。

 陳腐な言葉しか、出てこないほどに。


 

 そんな沈黙が、どれほど続いたのか……。

 ようやく、ウェルティナの口が開く。


「ねえ、クレア――――ありがとうね」


 唐突に、彼女は私へと礼を述べてきた。

 

 言葉の後、ゆっくりとウェルティナは目を開ける。

 その視線は上に向けたままに。


「いきなり、どうしたのだ……ウェルティナ?」


 何に対して、なぜ改まって――なぜ、感謝を表しているのか……。

 私には思い当たることなど、何もなかった。


「いろいろと……あいつのことで、お礼が言いたくなったの。こんなときぐらいじゃないと、言えないと思ってね」


 意図のわからないその言葉の中で、ただ一つわかることは――師匠のことを言っているということだけ。

 ……彼女が、『あいつ』と親しみを込めて言うのは彼だけだから。

 

 ウェルティナは、さらに言葉を続ける。


「あいつが自発的に、人と関わってなにかをするだなんて…………ほんとうに、久しぶりなのよ。その理由が――温泉にゆっくりと浸かりたい、なんてものでもね」


 まだその言葉では、彼女が何に対して感謝しているのかは分からない。

 

「そう、なのか……?」


 相槌もかねて、私は一つ疑問を投げかけた。

 師匠がそれほど人との関わり合いを避けているとは、思えなかったから。

 おそらく彼はそれを面倒に思っているのだろう、くらいに考えていた。


「そうなのよ。そして、それはクレアのおかげなの。あなたがやってきて、あいつだってかなり影響を受けているのよ。本人の自覚の有無に関わらずにね」


 彼女はそう言って、私に微笑む。

 先ほどと同じように、それはひどく澄んだ印象を私に与えてくるもので。

 

 私の胸のどこかを、きゅっと締め付けてくる。

 

 彼女は胸に手を置く私を横目に見てとると、その視線をまた前に――つまり上に――向けた。


「ゆっくりしたいからって、温泉好きだからって……ちょっと前のあいつなら、できるとしても新しい温泉を掘るなんてしなかったと思うわ。ましてや……人のいる場所になんてなおさら」


 ウェルティナは言い終えると……少し悲しげに眉を落とし、また目を閉じる。


 

 そして、彼女は静かに語りだしたのだ。

 ――師匠のことを。



「……あいつは、臆病なのよ」


 とってもね――と彼女は言う。


「自分の力がどれほどのものか、ちゃんと知ってるから……そこにあるだけで、たやすく世を歪めてしまうことが分かってるから……だから魔の森なんて場所に引きこもっているのよ」


 両手を持ちあげて手のひらを重ねると、彼女はそれを自分の額の上に置いた。

 そうすると、彼女の顔は私からは見えなくなった。


「あいつはね、心の底から……自分が必要とされないことを望んでいるの。あいつは、自分がすることが何もないのなら、それこそ世が平穏であることの証だって真面目に思っている。……それが、あいつにとって『穏やか』であるということ」


 ばかばかしいでしょ――彼女は言うが、その声は震えていた。


「だからこそ、あいつは――自分が寝転げていられる(・・・・)ことに、幸せを覚えるのよ」


 真実なら、それはどれほど――悲しいことなのだろう。


「たしかに、あいつは正しいわ……正しすぎるくらいに。そして、あいつが聞けば否定するだろうけど……その正しさを通せるほどに、あいつは強かったの」


 いつだって……師匠は、自らを『弱い』という。


「あいつはね……なんでもできる力を持ちながら、なんにもできないの。誰でも救えるくせに……自分だけは、救えないのよ」


 ――っ。


「自分を人外だって言うくせに、心では人であろうとし続けてる。けれど、人であろうとしていながら、人とは共に在れない……」


 ――。


「……あいつ自身、自分のことを人外みたく標榜するのだって……自分から人との間に線引きをして、傷つかないようにするため」

 

 ――なんて。


「ほんと、人の気も知らないで……あいつは――」


 ――なんて、ことだろう。


「でも精霊のあたしじゃ、それだけは埋めてあげられないから……」

 

 ――こんなに近くに、長くにいたのに。

 

「だから、クレアに……ありがとう、なの」


 ――私は全然…………。

 

 

 今、ウェルティナがどんな顔をしているのかは……彼女の腕に隠されて、わからない。

 けれど、仰向けに湯に浮かぶ彼女の――その頬に伝うものがあることは、わかった。


 

 ただ固まる私と押し黙る彼女の間には、絶えず雪が降り続ける。

 無垢な雪は湯に落ちると、溶けて消えていった。

 しかし、私と彼女の間に降りた沈黙は――消えずに積もっていく。

 

 

 私は、ウェルティナになんと声をかければいいのか……。

 

 ――――まったく、わからなかった。

 

 


 

……迷って、迷って、でも書きたかった。


これからも拙作をよろしくお願いします。

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