10話 賢者の温泉5、弟子の寂寥
クレア視点です。
――――師匠の様子が、なにやらおかしい。
始まりは、そう一昨日のことだった……。
***
いつもなら、講義を行っている時間に。
いつもなら、講義を行っている場所で。
――私は、ただボンヤリとしていた。
食堂のテーブルの定位置に座って、手元ではすっかり飲み干された空のティーカップをなんとなしにもてあそんでいた。
その隣、ソーサーの傍に足を伸ばしてペタンと座っているのは、私の契約精霊フィアルテ。
私は時折に、手元に落としている視線を左斜め前へと向ける。
そしてそこにある、主のいない椅子を眺めていた。
――いつもなら、そこにいるはずの人を求めて。
しかし何度見ても、もちろんそこは空席で……私はその度にため息を吐いてしまう。
師匠は朝ご飯をかきこむように食べたかと思うと、あっという間に身支度をして、ウェルティナと共にどこかへと出かけていった。
…………去り際に、「ああ、クレア。しばらくは講義も修行も休みにするから、ゆっくりと休んでくれ」とだけ言って。
とりつく島もなく、師匠は行ってしまうのだった……。
正直に言えば、悲しく思っていることは否めない。
私もついていきたかったし……そうでなくとも、せめて行先と目的くらいは伝えてほしかった……。
私が何度目かわからない溜息を吐いたとき……。
見かねたらしいフィアルテが、こちらを向いてこう言うのだった。
「……賢者、なんだか楽しそうだったね」
そう、そうなのだフィアルテ……!
珍しく師匠が弾んだ様子であったことが、私をひどく気がかりな気分にさせていた。
あの燦々とした天気の下に日陰で目を閉じているときが最も幸せそうにしている師匠が…………見てわかるくらいに上機嫌で出かけていくなど、これまでにはなかったことだ。
一体、どこに……なにをしに行ったのだろう……。
……。
…………。
……もしかして――という、一抹の不安が私のなかで生まれていた。
「もしかして、意中の女性にでも会いに行ったのかもしれませんね」
……っ!?
いつの間にか後ろに立っていたアイラが、腰を折って私の耳元でつぶやいた。
驚いた私は思わず身を竦ませたが、その言葉の内容はまさしく……私の胸のなかで膨れ上がっている考えそのものだった。
そう、もしかして師匠は……その……す、好いた、女性がいて…………もしかするといま、その方に、あ、会いにいっているのでは、ないかという…………。
そ、そんなことに、なっていたら……わ、わたしはっ…………!!
ジワッと、目から涙が染み出してくるのを私は感じた。
想像するだけでカタカタと手が震えて、目の前が真っ暗になったかのような気分に陥っていく。
――わけもわからないほどに怖くて、心が裂けるほどに辛くて、仕方なかった。
「……クレア、たぶん大丈夫だよ。ウェルティナだってついてるんだから」
今にも目から滴が零れそうになったとき、フィアルテが妙に確信をもって私に言った。
えっ…………?
「ええ、わたくしもそう思います。それに…………あの賢者様にそんな甲斐性があるとも思えませんし……」
アイラもそれに笑いながら相槌を打った。
なぜか言葉の後ろは耳に届かないほどの小さな声だったが……しかし、今私のとって重要なことはそこではなかった。
「なっ!? わ、私をからかったのか、アイラ……!」
潤んだ視界のままに、アイラに指を突き付けて私は抗議する。
……ピンと伸ばした指先が未だに震えていたために、それはどうにも締まらない光景ではあったけれど。
「すみません、殿下。この場にいない賢者様が、これほど殿下の心を煩わせていると思ってしまうと無意識に……。…………ですが、ここまでの反応をされるなんて……賢者様と言えど許しがたい所業ですね」
しかし、ニコリと笑いかけて謝罪するアイラを見て……私の背筋には寒気が走った。
彼女は今その身に、まるで見たものすべてを凍てつかせるような……凄まじい冷気を纏っていたのだ。
その感情の矛先が師匠に向かっていることだけは、動転する私にも伝わってくる。
だから私は焦って、師匠の擁護を始めた。
「ア、アイラ、落ち着くのだ……私はもう、大丈夫だから。師匠だって、なにも悪いことはしてないだろう……?」
だって師匠は、ただ出かけただけなのだから。
――私を残して、だが。
「殿下が、そういうのなら……」
そう言って、アイラはいつもの落ち着いた雰囲気に戻る。
ふう――と、安堵の息を吐いていた私には、アイラの最後の囁きは聞こえていなかった。
「…………後で、ウェルティナ様に報告ですね」
***
しかし、そこからが問題だったのだ。
日が暮れた頃に帰ってきた師匠は、いやに上機嫌で帰ってきた。
帰りを出迎えた私の頭を、いつも以上に長く撫でてくれる様子にもそれは現れていた。
そのときばかりは、私も安堵の笑みを浮かべていたのだ。
だが夕食の席で、私がどこでなにをどうしてきたのかと聞いても……「もう少ししたらな」と何も教えてはくれなかった。
ウェルティナにしても「秘密よ」と微笑みながら言うばかり。
俄然、気になってしかたなかった……。
次の日も、師匠たちは同じように出かけていく。
そして同じように帰ってきて、また私にはなにも言ってはくれない。
また次の日――今日も――、師匠は同じように出かけていった。
「…………ししょうぅぅ……ぐすん……」
ここ数日の疎外感のあまり、私はテーブルに突っ伏して嘆いていた。
その背中には、まるで暗い影が寄り添っているようだった。
「……クレア、大丈夫だよ。たぶんそろそろ教えてくれるはず」
そんな私の姿に、フィアルテが私の髪を撫でて慰めてくれる。
ううう、私の味方はフィアルテだけなのだ……!
「フィアルテがそう言うのなら、そうなのだろうか……」
そのフィアルテが示した希望に、私はようやく顔を上げた。
「ええ、わたくしもウェルティナ様から似たようなことを仄めかされましたよ」
そう言って食堂に入ってきたアイラは、ティーセットを乗せたお盆を手にしていた。
「さあ殿下、お茶でも飲んで一息入れてくださいな。……賢者様たちから秘密とやらを打ち明けられても、気疲れしていてはいけません。今は彼の言う通り、ゆっくりと体と心を休めましょう」
どうぞ――と、アイラはお茶を注いだティーカップを、私の目のまえに置いた。
ふわりと、良い匂いがそこから立ち上る。
――その香りは、私の心を柔らかにほどいた。
音を立てずに持ちあげたカップに、私は口をつける。
こくりと、熱いお茶をそっと流し込む。
――その熱さは、私の体を緩やかにほぐした。
そしてゆるやかに下ろしたカップに、私は目を落とす。
――――ああ、いつまで経っても……アイラにはかなわないな。
幼い頃からずっと変わらないお茶の味に、私はひどく安らかな気持ちにさせられていた。
これは昔から……アイラが私の専属になってから飲み続けている、アイラが私の好みに合わせてブレンドしてくれているお茶だ。
いつもはメイドとして、時折には姉のように……いつでもアイラは私と共にいてくれた。
どんなときだって、アイラは隣で私を支えてくれてきた。
そんな彼女には、私はどんなみっともない姿でも見せられるだろう。
でもだからといって、そんな冴えない様子を見せ続けるわけにはいかない。
――彼女が支えるに相応しい、私でありたいから。
顔を上げた私に、もう暗い影はなかった。
これからも拙作をよろしくお願いします。




