8話 賢者の温泉3
ペトラに手を引かれて、彼女の家の扉をくぐった直後の出来事だった。
「たとえ、相手が賢者様だとしても……! うちの娘は絶対にやらんっ!!」
「なに馬鹿言ってるの、あんたはっ!!」
――スパーンッ!
と、華奢な女ドワーフの放った気持ちのいい張り手が、強面な男ドワーフの顔面に炸裂した。
しかし、それはその細腕からは考えられないほどの威力をもっていたらしく……張り手を喰らったドワーフは後ろ向きに吹き飛んだ。
そして、ガゴゴッっと音を立てて頭から地面に着地したのだった。
「あらあら、賢者様に精霊様。こ~んなあばら家に、またようこそいらっしゃいました」
おほほ――と、張り手の主は先の一件と背後の状況をさらりと無かったことにしていた。
そんな目の前の、ペトラを少し成長させたようなドワーフの女性こそペトラの母であるパトラ。
「っててて、母ちゃんよぅ。もうちょっと優しくしてくれてもいいじゃないか」
そしてその後ろで、言うほどダメージがあるようには見えない様子でスクッと立ち上がったのは、同じくペトラの父であるペイダだった。
……うん……夫婦仲は、良好そうだ……。
僕はあまりのことにあっけに取られつつ……思考が停止した頭の片隅にて、そんなどうでもいいことを思っていた。
ウェルティナも似たようなもので、「いい手首のキレね……!」などとズレたことを零しているのが聞こえてくる。
ちなみに僕の隣にいたペトラは、冒頭にあるペイダの言葉からずっと顔を真っ赤にしてあわあわとしていた。
***
出会いがしらに起こった事態をなんとか収拾し、いつもなら一家団欒を行っているだろう部屋に僕たちはいた。
「しばらくぶりだけれど、二人とも健勝そうだな」
僕は、まずそう口火を切った。
この部屋には、以前も来たことがある。
けれど、そのときとは全くと言っていいほどに雰囲気が異なっていた。
その要因は、端的に言えばただ一つ――――ペトラの存在だ。
あの日も同じ部屋、同じ席に座って、彼ら――ペイダとパトラ――に向かい合っていた。
そのときの彼らは、見るに堪えないほどの悲痛な影を顔に落としていた。
愛しい我が子が行方知れずになり……。眠ることもできず、喉にものも通らずに幾日いたのか……。
そんななか、手掛かり一つ得られていなかった彼らの思いは、どれほどのものだったのか……。
ただ僕に推し量れるようなものではないだろうことだけは、理解できていた。
だが、そんな陰鬱な雰囲気など、もうここには微塵もありはしなかった。
ペトラという心臓を取り戻し、ここに温かな血が再び通い始めたのだ。
今そのペトラは……猫舌なのか、僕の隣の席でカップのお茶にふーふーと息を吹きかけている。
「ええ~、おかげさまで。うちの馬鹿亭主なんて日増しにうるさくなって……」
僕の言葉に、パトラが笑みを見せながら困ったように言った。
「……母ちゃんが叩くたびに馬鹿になってんじゃないかって。最近の俺は思うけどなぁ……」
肩を落として、先ほどの跡が赤く残る頬を撫でながら、ペイダが遠回しに抗議する。
だが、この場にその抗議を取り合ってくれる者はいなかった……。
「まあ、いきなりアレはないわね」
僕の肩に乗ったウェルティナは、バッサリと切り捨てた。
「そうでしょう~、精霊様」
パトラはそれに追従した。
するとペイダは、僕に救いを求める視線を向けてきたが……僕はそっと、目をそらした。
……彼には悪いが、こういった場合での僕の無力さは折り紙付きだ。
そして彼は最後の砦とばかりに、愛娘へと顔を向ける。
――しかしそこにあったのは、氷の眼差しだけだった。
ペトラも多感な年頃だ、父親の暴走にひどく羞恥心を覚えたのだろう……。
娘の視線にとどめを刺され、ペイダはガクリと頭を落とした。
「なんだい、なんだい。娘に悪い虫がつかないようにするのは、親父の役目だろうがよぅ……」
悪い虫って、おい…………。
「お父ちゃんのばかっ。賢者様はウチの恩人、そんな扱いなんて許さないんだから!」
ベーっと、彼女はペイダに向かって舌を出した。
パトラはそんなペトラに微笑むと、ペトラに向かって次のように言った。
「そうよね、どっちかと言えばくっついてほしいものよね~」
……どういう意味だ?
首を傾げる僕を余所に……ペトラは母の言葉にカーッと顔を赤く染める。
「お、お母ちゃんってばっ、もう、そんな、こと…………!」
歯切れ悪くペトラは言うと、俯いてしまう。
それをパトラはニコニコと見つめていた。
「あら~、ないのかしら?」
追い打ちをかけるように母に問われると、ペトラはその僅かに尖った耳の先まで赤くして、かわいそうになるくらいに縮こまってしまった。
さすがに僕は見かねて、言葉をかける。
「よくわからないが……そこらへんにしといてやってくれ。一家そろって仲がいいことはしっかりとわかったよ」
すると、肩にいるウェルティナから呆れたような視線と呆れたような声が送られてきた。
「……あんたってやつは、ほんと…………」
はあ――と、息を吐いたウェルティナはまさしく呆れているようだった。
…………なぜだ。
そんな僕たちを見て、パトラは穏やかに笑っていた。
***
「じゃあ、俺は少しばかり抜けるが……賢者様は夜までいるんだろう? なら、今夜は酒盛りだな! 楽しみだぜ!!」
実は今まで仕事を抜け出していたらしいペイダが、家の隣にある鍛冶場へドシドシと戻っていった。
そうして、少しばかりの静けさがやってきた。
「ふう、ようやく落ち着けるわ」
ウェルティナがそう言うと、パトラは苦笑して言う。
「あれでも、あなた方にとっても感謝してるんですよ~。……お酒が入るたびに『賢者様とウェルティナ様には足を向けて寝れねぇなぁ』って零すんですから、あのひと」
……まったく、ここは良い人が多すぎる。
だからペトラも……不用心に誘拐されたりしてしまったんだ……。
しかしそんなことを思いつつも、僕はこの里の雰囲気が今と変わることなど一片も望んではいなかった。
「そしてもちろん~、ウチも同じ気持ちでいるんですよ」
ペトラと同じ一人称を用いて、パトラは感謝を伝えてくる。
どっちかと言えばおそらく、ペトラの一人称が母親譲りなのだろうが。
どう返せばいいのか悩み、僕が口を閉じていると……ウェルティナがパトラに向かって、僕が思うところそのままの言葉を並べていく。
「そう…………なら、感じる恩のぶんはそのまま、ペトラへの愛情にしてあげなさい。感謝を言い表すよりもまず、あなたたちの幸せを育みなさいな。……それが私たちにとって、一番の恩返しよ」
ウェルティナは言い終えると、僕に視線を送って同意を求めた。
「ああ、その通りだな。……これでも見てくれ以上の長寿なんだ、僕もウェルティナも。そんな年寄りに、必要以上にかまうことはないさ」
そう言った僕の耳に、いきなり激痛が走る。
「いだだだっ!」
犯人は――もちろんウェルティナ。
彼女はこめかみをピクピクと動かして、わかりやすく怒っていた。
「……ほんっと、あんたはデリカシーがないわねっ」
どうにも、彼女を年寄り扱いしたことがいけなかったらしい……。
謝るも時すでに遅く。彼女がそれを聞き入れることはなかった。
ぐりぐりと耳を捻られること、しばし――。
そんな僕を救ったのは、ペトラだった。
――――いや、僕たちを糾弾したのは、かもしれない。
「でもっ! でも賢者様は、ウチや皆を助けてくれました……!」
ペトラは、声を上げる。
「賢者様とウェルティナ様がありがとうを求めてなくたって……ウチはありがとうって言いたいし……言わなくちゃいけない、と思い、ます」
彼女のその眼差しは、ひどく真剣な様子で僕たちに向いている。
「だって、だって……ありがとうを言えなくちゃ、幸せになんてなれない。嬉しいことをしてもらったら、幸せにしてもらったら、ありがとうって言わなくちゃダメだよ……!」
彼女のその言葉は、幼げながらどこか力強く感じる。
「じゃないと、嬉しいことをしてくれる人は――賢者様たちは、どうやって嬉しくなれるの……幸せに、なれるの…………。ウチは、賢者様たちが幸せじゃなきゃ、幸せになんて……なれないよ…………」
彼女のその深緑色の瞳は、次第に濡れていく。
「……だからウチたちに、ありがとうって……言わせてっ……!!」
そして一滴の滴が、彼女の頬に流れた。
…………ああ……これは確かに、僕たちの間違いだな。
「ごめんよ、ペトラ。全くもって、君の言う通りだ」
まさか、こんな幼子に教えられてしまうとは…………。
ああ……僕もウェルティナも、まだまだ年寄り気取りはできないな。
「君たちの感謝は確かに……僕たちを、幸せにしてくれるよ」
肩を震わせる幼い少女の頭に、僕は手を置く。
「ありがとう」
そして僕は、感謝の思いをうんと乗せた手で、彼女を撫でた。
「……とってもいい子ね、ペトラは」
ウェルティナは、とても柔らかな目をして言った。
それに、エプロンの裾で目を拭っていたパトラがこう答えた。
「ええ、ええ……。なんたって、自慢の娘ですから」
温かで優しげな空気が、そのとき部屋いっぱいにつまっているようだった。
ペトラちゃんが良い子すぎて、つらい。
これからも拙作をよろしくお願いします。




