26話 賢者の早朝
案の定、留守番にぶーたれていたベーチェルをなだめすかす。
そして疲労に肩を落としながら風呂へと向かい、わずかばかりの癒しを経て床に入った。
そうして多忙だった一日は、静かに幕を閉じた。
***
夜が明けて、早朝。
なにか冷たさを感じて、僕は目を覚ました。
…………。
僕はゆっくりと起き上がると、窓に向かう。
もう起き抜けに少し寒さを感じる頃になったな、と季節の移ろいを実感しながら。
そして僕は、窓にかかったカーテンを開く。
すると、降り注ぐ朝日が部屋に満ちていた気だるげな闇を払った。
さらに窓を開けて、僕は空を仰いだ。
昨日に引き続いて、天気はすこぶる好調だった。
しかし僕は窓枠に頬杖をつくと、ため息をついた。
……頭上の空模様に反して、僕の心には雲が厚くかかっていたために。
…………こんな素晴らしい天気の日は、美味しいものでも食べてゆっくりと寝っ転がるべきだ……。
そうして……得も言われぬ心地よさをあじわうべきなんだ。
なぜならそれこそ、幸せを知るための第一歩なのだから。
食べるものが足りず、眠ることもままならない。
これが不幸と言わずしてなんというのか。
そうした者たちがたんといるというのに、それを満たしている者たちが幸せを感じていないことが本当に多い。
十分に食べて、たっぷりと眠る。
これは、幸せではないのだろうか?
……幸せではないと言うのなら、何をもって幸せと言えるのか。
幸せを勘定する者は、真に幸せを知ることなどないのではないだろうか。
ああならば幸せ、こうならば幸せ。
そんなものは幻想だ。
幸せはいつだって、そこらに転がっているはずなのだ。
それを拾うか、拾わないか。
それだけの違いでしかない。
だけどそれが難しい。
とても単純で、とても難しいことなのだ。
単純だからこそ難しいのかもしれない。
つまり僕が言いたいことは……。
なにもかも忘れて、ゆるりと昼寝をしたいと言うことだ。
それで僕は、幸せとなれる。
……僕には、今忘れてしまいたい哀しみがあった。
「……もう朝なの……」
「……うー、まぶしいー」
そして、その哀しみを作りだした元凶。
枕元で寝ていた精霊たちが、ノロノロと動き出していた。
ウェルティナとベーチェルだ。
彼女たちは、それはもうぐっすりと眠っていた。
盛大に、よだれを垂らしながら……。
……ウェルティナは僕の目の前で、ベーチェルは僕の頭の上で。
その結果、僕の頭髪はべったりとベーチェルのよだれ塗れだった。
おかげで僕の頭は、陽の光を反射してテラテラと光っているのだ。
……はあ。
「≪浄化≫」
魔法によって体はきれいになっても、気分が晴れることはない……。
よし、朝風呂に行こう。
***
……昼寝を、するべきなんだ…………。
朝食の席で、僕は現実を見て見ぬふりをしようと、幻想の幸せを求めていた。
なぜならば――。
「あっ、それわたしのたまご焼き!」
「へへん、早いもの勝ちだい」
「ちょっと静かにしてよ! 賢者様のまえでしょ!」
「……精霊様に王女様もいるけど」
「おいしい!」
「おれの足蹴ったの誰だ!」
「あなたが先にあたしの足踏んだのよ」
「ぼくはなんで蹴られたの……」
少年五人、少女三人――ペトラを除いた、僕たちが保護した子供たち――、それと、僕たち。
――そんな大所帯で食卓を囲んでいたからだ。
我が家の食卓はいつもの姦しさではなく、騒がしさに満ちていた。
場所は食堂だけれど、食堂のテーブルにはどう詰めても八人が限度だったので今は四人用のテーブルを足している。
しかしまあ、元気なようでなによりというべきか……。
彼らは昨夜起きたときは事情が呑み込めずに混乱していたが、食べるものを食べて一晩寝たらこの通りだった。
僕が懸念していたような、心に深く傷が残っている様子は見えない。
……今現在のところは、だが。
これからも要観察ではあるだろう。
子供たちへの思考をそこで区切ると、僕は食堂の一角へと目をやった。
そこにいるのは精霊たち。
ウェルティナとベーチェル、そしてフィアルテだ。
フィアルテの覚醒の際には、ある事件があった。
あれは僕にとって、理不尽極まりない事件だった……。
僕が朝風呂に入っているとき、それは起こった。
突然、クレアが風呂場に突っ込んできたのだ。
――胸元にフィアルテを抱えて。
クレアは「師匠ー、師匠ー! フィアルテがー!!」と叫びながら風呂場の戸をバンッと開いた。
洗髪中だった僕は、当たり前だが突然のことに驚いてそちらを振り返った。
もちろん、風呂に入るのだから服は着ていない。
振り返った僕の目はクレアの目とバッチリと合う。
そして、クレアはピタリと固まった。
まばたきもせずに彼女の目は見開かれ、その顔は急速に赤く染まっていった。
そうして、耳まですっかり朱に染まると今度は目元に涙を浮かべ始めた。
そこでようやく僕は思考を取り戻し、予測される彼女の次の行動を止めようとした。
「く、クレア! ま……」
「キャ―――――――――!!」
彼女はその小さな体のどこから出すのかという叫びをあげると、両手で顔を隠し身を翻して風呂場から駆け出して行った。
その後ろ背を見ながら僕の口から出た言葉は「クレア……走るなら前を見るんだ。転ぶから」だった。
もうすでに、僕は先のことを考えないように努力していたのだ。
だって、ろくなことにならないことはわかり切っている……。
だから頭を切り替えて、クレアが顔を隠すときに放られてしまった彼女の契約相手であるフィアルテとの初めての会話を試みようとした。
というか、契約したての精霊をほっぽるなんてクレアも大物だな……。
それにフィアルテが起きた途端、風呂場であることも忘れて駆け込んでくるなんてな……。
しかし切り替えたつもりでも、そんな風にごちゃごちゃと考えているのだから……僕もかなり混乱しているのかもしれなかった。
「改めてになるが……。はじめまして、フィアルテ。僕はクレアの師匠をしている者だ」
「……はじめまして。……わたし知ってるよ、クレアはあなたのことばかり考えているから」
へえ、僕は師匠思いの良い弟子をもったな。
おっと、泡が垂れてきた。
さっさと洗い流してしまおう。
僕が体を洗ってお湯で泡を流す間、フィアルテは標準でそれらしいボーっとした眼差しを僕に向けていた。
……そんな見られていると、落ち着かないのだけれど。
僕は体を洗い終えるとフィアルテに聞いた。
「その君の契約者はどこかへ行ってしまったけれど、君はどうする? 一緒に風呂にでも浸かるか?」
「……いいの?」
頷いてやると、フィアルテは湯船に飛び込んだ。
彼女は水の精霊なので、基本的には水に浸かることを好むはずなのだ。
それに精霊は服を着ているように見えるが、それも魔力でできているものなので精霊自身が濡れようとしなければ濡れることもない。
ゆったりとしたワンピースのような装いのままに湯船に浮かぶ彼女は、先ほどまでの無表情から一転してほわーっと見るからに心地よさそうな顔をしていた。
そのわかりやすい様子に微笑みながら僕も湯船に浸かった。
「気持ちいいか?」
「……うん。それにこの水は、とてもいい水」
さすが水の精霊、そこまでわかってくれるか。
「そうだろう、そうだろう。温泉は掘り当てられなかったけれど、かなり地下深くの水脈から水を引いているからな。……本当なら泉の源泉から引きたかったんだが、生活用水にするのは泉の主どのが許してくれないかったからな……まあ仕方ない。これでも十分いいものだしな」
「……泉?」
「ああ、この家の目の前にある泉のことだ。魔の森に満ちる魔力の上澄みを染み込ませたような、濃厚な魔力を湛える泉だよ」
「……それは、居心地よさそう」
生まれたばかりの、おとなしいそうな気質のフィアルテであるがウェルティナやベーチェルと同じ精霊であることに違いはない。
……もし無体を働けば主どのの怒りを買いかねない。
「泉の守り手たる主どのには敬意を払うようにな。じゃないと丸呑みにされるぞ」
「……わかった」
一応、注意はしておいた。
これで丸呑みにされるようなら……フィアルテと彼女の契約相手たるクレアの監督責任だな、うん。
僕とフィアルテは朝風呂をじっくりと堪能してから、風呂をあがった。
――そして家に戻ったところで、ウェルティナとアイラのニッコリとした笑顔に出迎えられた。
彼女たちの笑顔に、僕はドラゴンに睨まれるような錯覚を覚えた。
しかしそれでも精神力を費やし、僕は冷や汗を流しながら笑顔を返した。
……彼女たちの笑みはますます深まった。
食堂へ続く廊下から未だに赤い顔だけを出してこちらを伺っていたクレアに、僕は救いを求める視線を投げかけた。
……しかし彼女は目が合うと「ひゃっ!」と言って、あわあわとしながら逃げ去ってしまう。
そして去っていくクレアの背には、ベーチェルがくっついていた。
……彼女はひらひらと手を振って、僕に別れを告げていた。
僕の味方は、いなかった……。
そしてそんな僕に、ウェルティナが判決という名の断罪の言葉を向けた。
「なにか、言い残すことはある……?」
まさかの極刑だった。
「…………僕は、なにも悪くない」
それだけが、事実だ……!
「ふふふ、殿下があれほど錯乱し涙を流しているのです……。その罪は万死に値します!!」
このメイド、おかしい。
加害者と被害者の区別が、クレアを中心におかしい。
「デリカシーを叩きこんでやるわ」
僕の契約相手の精霊も、おかしい。
これはデリカシー云々の話では、ないはずだ。
そして子供たちが全員起き上がってくるまでのおよそ二刻の間、僕は正座させられた上で叱責の嵐にさらされたのだった。
…………理不尽だ。
今になって思えば、朝風呂に入るはめになったのはベーチェルなのだから原因は彼女にあるのではないだろうか……。
そのベーチェルはフィアルテに向かって楽し気になにかを話しかけている。
……精霊ってやつは、ほんと気ままで羨ましい。
今目の前にある、精霊が三体も顔を突き合わせているという世にも稀な状況を眺めながら思った。
***
朝食後、子供たちは満腹になって比較的おとなしくなっていた。
アイラが僕やクレア、子供でも希望するものにお茶を淹れてくれる。
それを一口飲み、朝から強烈な疲労を抱えた僕は長い吐息を出した。
するとそこで、既に調子の戻ったクレアから質問が投げかけられる。
「昨夜に聞き忘れましたが……。師匠、彼らはこれからどうするのですか? 目星はついているとおっしゃっていたと思いますが」
彼女の言葉に、弛緩していた食堂の空気が引き締まった。
子供たちが姿勢を正し、耳をそばだてたからだ。
あれだけの経験をしてしまった彼らだ、自分たちの処遇に関する話には過敏に反応してしまうものなのだろう。
僕は彼らを見てから安心させるように一度頷くと、クレアに顔を向けた。
そしてしっかりと、彼女と目を合わせる。
なぜならこれは、彼女にも強く関係のあることだからだ。
「クレア、ちょっと里帰りしてみないか?」
なぜだか少し顔を赤くしていたクレアは、僕の言葉に「へっ?」と声を上げた。
フィアルテをやっと起こせました。
これからも拙作をよろしくお願いします。




