9話 弟子の寒気
クレア視点です。
私の手は、血で真っ赤に染まっていた。
いや、手だけではない。
視線をそのまま下に向ければ、至る所が赤黒くなった神官服が視界に入る。
私が怪我をしたわけではない。
しかし、それなり量の血を浴びていた。
足元やその周りに積もった雪は、血を啜って鮮やかな緋色から薄紅色のグラデーションを見せている。
私は、視界を正面に戻す。
山の裾野は、初めて見たときの白銀の景色から一転していた。
所々の雪がひっくり返されて、茶色の地面が見えている。
雪も真っ白に無垢なものではなく、黒や褐色に汚れたものが多い。
――そして、山のように積み上げられた、おびただしい数の魔獣の死体。
辺りには、きつく血の匂いが立ちこめていた。
その光景に、私は寒気を覚える。
実際の寒さはないはずなのに、恐ろしさが背筋を冷やす。
服がさらに汚れることもかまわず、寒さを遠ざけてくれているはずの大事な、とても大事なワッペンがある懐の上に、手を置く。
そうしているだけで、恐怖も遠ざけてくれるような気がする。
そのときだった。
――――――ふわあぁっ!
もう、何度目かになる魔力の波動が走り抜けていった。
それは穏やかに、しかし確かに広がっていく。
一定の周期でそれは起こっている。
……その後に起こることも、毎回同じだ。
様々な獣の声と、大量の生き物が地を蹴る音が聞こえてくる。
また、地響きが次第に大きくなっていく。
そして、雪を巻き上げながら迫る魔獣の一団の姿が見えてきた。
だが次の瞬間、その先頭の魔獣たちは壁にぶつかったように潰れる。
後続も吹き飛ばされたり、一刀両断にされたりしていく。
それを行っているのは、二体の精霊だ。
それほど時間をかけずに、あの魔獣の一団は壊滅するだろう。
今までがそうだった。
そこまで考えたとき、私はボーっと立ち尽くしていることに気付く。
……私は、私の仕事をしなければ。
私は屈み込んだ。
そして手に持った無骨な刃物を、目の前にある肉に突き立てる。
私は肉を割きながら、事の始まりを思い出していた。
***
師匠が言った言葉に、私は思考を止めていた。
「解体、ですか?」
横でアイラが、師匠に問う。
「そうだ。僕は魔法の制御で数刻は動けない。防衛については僕も障壁を張るけれど、ウェルティナとベーチェルに頼みたい。そして、クレアとアイラには魔獣の肉を回収してもらいたい」
目の前に座る師匠は、全員を見まわして言った。
「クレアも防衛にしなくていいの? いい実戦訓練になるんじゃないかしら」
ウェルティナが師匠の肩に座りながら確認する。
私はそこでようやく、意識が戻ってきた。
実戦訓練……。
師匠の元にきてどれほど成長できたのか、確認したいと思わなくもない。
少し心が揺れる。
「うーん、ダメだろう。物量が多すぎる。それにクレアは攻撃に向いているわけでもない」
しかし、師匠が一刀に切り捨てた。
……まあ、私の得意属性は聖と水なのだから。
仕方ないのだろう。
「なら、久しぶりに暴れましょうか。ねえ、ベーチェル?」
「よーし、ウェルティナ姉さん。ぼく、がんばるよー」
ウェルティナとベーチェルはハイタッチしながらやる気を見せている。
「で、だ。さっき言ったように、アイラには魔獣の解体をしてもらいたい。クレアはそれの手伝いだな」
解体は、実のところ私にはあまり経験がない。
冒険者時代でも大体はマイクが、時折にアイラが行っていた。
みんなが私にさせようとしなかったというのもあるが、なによりの問題は私の体力と筋力不足だった。
なにせ、硬い筋を切り続けるには私は非力だったのだ。
刃物を固く握りしめ続けるのも、走り回るのとは違う疲れがある。
だから数回しか経験がなかった。
でも、なぜ肉を回収するのだろうか。
「師匠、なぜ肉を? もったいないからですか?」
私が聞くと、師匠は口角を上げた。
「もちろんそれもあるけれど、これはクレアのためでもある」
私のため?
「ここらへんは、アイシクルバイソンやチリ―エルク、フローズンタイガーなどの魔獣が生息している。クレアは、アイシクルバイソンのベーコンがお気に入りだったよな? 最近どんどんと在庫が減ってきたから、近いうちに補充しようかと思ってたんだ。あと、チリ―エルクの肉は煮込むと美味いんだ……ぜひ、夕食に食べたいね」
それは、とても魅力的です!
でも……。
師匠、私を食いしん坊だと思ってませんか?
……否定できないかも、しれないけど。
それは、師匠が悪いのです!
私が食いしん坊になっているのは、師匠の責任です……!!
美味しいものを、食べさせ過ぎるから……。
こんな理不尽なことを、言えるわけもなく。
私は顔を抑えて、額を机にくっつけた。
「あれ? クレア?」
「あんたね、ストレートでない言い方はできないの?」
「なにが? よく食べるのは良いことだと思うけど」
「それよ、それを言い直しなさい! まったく、クレアは年頃の女の子なのよ! デリカシーがないんだから」
チラリと見ると、ウェルティナが師匠の耳をぐいぐい引っ張っていた。
「相変わらずー、仲がいいねー」
そこに、ベーチェルがのほほんと言った。
私は気になって、訊く。
「ベーチェルが知った頃から、あの様子なのか?」
「うんー、そうだね。賢者とウェルティナ姉さんは昔からああだよー」
なるほど。
「殿下、どうしたのですか? 難しい顔をしてますが」
アイラが私の顔をのぞき込む。
そんな顔をしていただろうか……。
頬を揉むようにして、顔を戻す。
「それで、師匠! 私たちは具体的にどうすればいいのですか?」
ようやくウェルティナから解放された師匠が、答える。
「ああ、僕の張った障壁の内側で作業してほしい。魔獣は本当に大量にくるだろうから、解体できるだけでいいよ。あとはウェルティナが回収するから、時間のあるときにやろう」
「わかりました!」
私は大きく返事をした。
***
それから、もう一刻ほどが経つ。
その後、師匠は障壁を張り、探知の魔法を唱えた。
今はその制御を続けている。
ウェルティナとベーチェルは、目の前で嬉々として魔法の乱舞を繰り広げている。
私の横では、アイラが動いていた。
アイラは今も魔獣の皮を剥ぎ、内臓を切り出している。
その動作は洗練され、流れるようだ。
実はこの刃物は師匠に渡されたもので、切れ味が鈍らない魔法の道具だ。
しかし、彼女のその目は虚ろだった。
……たぶん、私も似たような目をしているだろう。
師匠の言う『大量』を見誤っていた。
普通の町なら今頃更地になっているだろう。
それくらいの規模だ。
また今の私は、ファルシウェン王都に構えている肉屋――王宮にも肉を卸している――を涙なくして称えることができない。
――――解体・精肉というのは、これほどの重労働だったのだな。
そしてなにより、これは精神が参ってしまう。
血の匂いというのは、なによりも人が反応してしまうものだろう。
そして、生肉特有の匂い。
匂いだけでこれなのに……。
感じる生暖かさと目に入るものに、本能的に不快になる。
耐性のない者は、まず吐くだろう……。
そもそも作業すらできないかもしれない。
だが、食べるためには必ず必要なことだ。
いつも誰かがやっていることで、私たちはそれを知っていないだけなのだ。
それは、悪いことではないかもしれない。
しかし、正しいとは言えるだろうか。
食べるためとはいえ、命を奪いさらにその身を切り刻むことを、手放しで良しとしていいのだろうか。
それは、罪ではないだろう。
人は、生き物は、何かを食べなければ生きてゆけない。
それは間違いのない事実だ。
食べることを罪としてしまうことは、命を否定することに他ならない。
だから、私たちは受け止めて、考えて、抱えなければならないのではないか。
その重みを。
そうでなければ私たちは、無意識に命を奪い続けていることになってしまう。
それは、とても恐ろしいことなのではないだろうか――――。
そのとき、私の手の甲に温かなものが落ちた。
同じ温かさのものが、頬を流れていくのを感じる。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
雪が舞い落ちる空を見上げる。
風が吹き付けるが、やはり冷たさは感じない。
先ほどと同じように、師匠のワッペンがある懐の上に、手を置く。
服の上からでも、刺繍の凹凸がわかる。
そしてその下に、確かに脈打つ、私の鼓動があった。
エルクというのは、英語でユーラシア大陸のヘラジカのことです。
ヘラジカは巨大生物です。
場所によっては『森の王』と言われています。
カッコイイ称号ですよね。
……ただ交通事故で、毎年数百人の被害があります。
また、今話はちょっとスプラッタだったかもしれません。
いや、流血表現はないからスプラッタではないかも?




