1話 賢者の午睡
麗らかな昼下がり。
家のウッドデッキで揺りいすに深く腰掛けていれば、おのずと悟るものだ。
人は魅惑的な睡魔に抗うことなどできないのだと。
「寝ては食べて、食べては寝る。あんたは、痴呆の老人か!」
ああ、うるさい。
この世で最も幸福なひと時を邪魔しないでくれ。
「……≪静寂よ≫」
世界からあらゆる音が消えた。
風でこすれる木の葉の音や鳥の鳴き声、もちろん小うるさい声も。
「…………!」
「!……」
「…………」
***
日も傾き、影が長く伸びた頃に目が覚めた。
揺りいすに座ったまま、腕を上にあげて体を伸ばす。
「(はああー、よく寝た)」
うん……? 出したはずの自分の声が聞こえない。
いつの間にか静寂の魔法が僕自身にかかっていた。
……なぜだろうか?
そして、あるかないかわからないほどの重さゆえに気づかなかったが……僕のへその上に、よく見知っているものが、これまたいつの間にか乗っていた。
ちょうどいいから、事情を知っているか聞いてみるか。……想像はつくけれど。
「≪戻れ≫」
魔法を解く。
「ウェルティナ、起きろ」
「…………」
腹に乗っていたのは、僕にとってとんでもなく長い付き合いになる精霊、ウェルティナだった。
それはもう気持ちよさそうに、彼女は寝ていた。
彼女は赤子より一回り小さいくらいの大きさで、しかし赤子のような丸々とした感じはなく精巧な人形よりも洗練された姿かたちをしている。
その身はまっさらなワンピースのようなもので包んでいて、そこに腰まである暗い銀色の髪が絡んでいた。
幻想的で、この世のものではないような雰囲気を持っていた。
――そんな彼女は僕の上で、うつ伏せになってよだれを垂らしていた。
おい、よだれ……。
僕は彼女の襟首をつまんで、椅子の外にポイした。
「みゅっがっ!!」
変な悲鳴を聞きながら、よだれの跡に手をかざし僕は魔法を使う。
ふう、きれいさっぱり。
「ちょっと、なにすんのよぅ!? 痛いし、ひどいじゃない!」
「人の上で寝た挙句によだれ垂らしてたんだ、相応だろ」
ウェルティナは、僕の眼前に浮き上がり腰に手を当てて、いかにも私怒ってますという雰囲気だ。
顔を真っ赤にして、彼女は声を上げる。
「なっ、起きないし、魔法まで使ったくせに! 大体、あんたが起こしてあげようとしたあたしの善意を踏みにじったんでしょう!」
「やっぱり僕が使ったのか……。それはそうと、善意で起こしに来た奴がなんで寝てたんだ?」
「……そ、それは」
「それは?」
ウェルティナは、赤い顔のまま、鋭く僕を睨んだ。…若干目尻が濡れている気もする。
「叩いても! 上で飛び跳ねても! 起きないから、疲れて眠くなったのよ!」
「そうか、それなら仕方ないな」
睡魔は誰しも、抗えないのだ。うん。
「よだれは、いただけないけどな」
「わ、わるかったわね。…………あたしとしたことが堪能するつもりが寝ちゃうなんて、しかもよだれ……」
ウェルティナは、宙に浮きながらぼそぼそと落ち着きなさげに言っている。
僕は気になった一言を拾ってみる。
「堪能?」
「なんでもないわ!」
間髪入れずに、有無を言わせぬ勢いで叫ばれた。
まあ、ここまでにしとくか。
「で、なんで僕を起こそうとしたんだ?」
「それよ、それ。あんたね、ここしばらくなんにもしていないでしょう。起きて食べて寝てるだけだわ」
ふむ、確かにそれは否定できない事実だ。
「でもな、ウェルティナ。僕は何にもすることがないぞ。僕の世界は素晴らしく穏やかで、食べるものも困らない」
「穏やかね……二日前に目の前にある泉で何があったか、忘れてるわけじゃないわよね」
僕の住む家は、森の奥にあるささやかなコテージといえるものだ。
家から、三十歩ほどのところにかなり大きな泉がある。ちょっとした闘技場ならすっぽり収まるほどの広さだ。
そこには澄んだ水が湧きだしていて、様々な生き物がいる。
「たしか、泉の主どのが分をわきまえない振る舞いをしたジャイアントリザードと争ったんだよな」
「争いになんてなってなかったわよ! 獲物の血で泉を汚したジャイアントリザードに、あの巨大なイワナのお化けみたいなのが跳びかかって池に引きずり込んだんでしょうが! 泉の波紋もすぐに収まったし、なにも浮き上がってこなかったのよ!」
ジャイアントリザードは体長三メートルほど、主どのは五メートル弱だもんな。
ウェルティナはぶるぶる震えながらつぶやく――丸呑みこわい。
彼女の精神の闇を刺激する出来事だったようだ。
「さすが、主どのだな」
「そうじゃなくて、なんであんなのがいるのよ……。そのすぐ近くで気負いもなくよく生活できるわね」
「主どのは、この魔の森でも神秘と言われるあの泉の守護者だぞ。きちんと線引きされた秩序を古より守り続けている。線引きを踏み越えさえしなければ襲われることなんてないさ」
「相変わらず図太い神経ね」
失敬な。僕ほど繊細で、か弱いものなんてないのに。
「……あんたが、繊細なんてちゃんちゃらおかしいわよ」
「心を読むな」
「顔にでてるのよ」
そうかい。
「で、ここが穏やかと言える? あるのは自然の厳しさだけで、心休まるところでは決してありえない場所だと思うけど」
たしかに、ここは凶暴な生き物も多いし自然の猛威が骨身に沁みるようなところだ。
僕達ぐらいでなければ、生活どころか一昼夜も無事ではいられないかもしれない。
ここでは、楽し気なことや愉快なことどころか、今日と昨日で変わるものもない。
だが、それゆえに。
ここでは、悲しいことも辛いこともない。
あらゆる自然の摂理だけが、ここでは唯一取り巻くものだ。
穏やかであることは、何も起きないこと。
何も起きないから、何も進まない。
穏やかとは止まり滞ること。
つまり、停滞すること。
僕は、なにもしていない。だからこそ『穏やか』なのだ。
「もちろん、それ以外の何物でもないほどにね」
「……そう、ならいいいわ」
ふと、夕暮れになりつつある空を見上げる。
そこには、美しい色彩の階調が広がっていた。
その光景に胸を打たれながら、僕は祈った。
――――この静けさが嵐の前のものではありませんように、と。