17話 王女の選択
クレア視点です。
私はたった今閉ざされた謁見の間の扉を見つめていた。
いや、私だけではない。この部屋にいる誰もがそこを見ていた。
あの扉の向こうを歩んでいるだろう賢者様を、私は想う。
賢者様はその姿からは絶大な力を持っているとは思えない。
一見、ただの思慮深そうな青年に見える。
ご本人も、威厳がないとか貫禄がない、などと言ってた。
しかし、それは途方もないことであると私は思う。
なにもかもを思うがままにできる力を持っていながら、普通であることはどれほど難しいことなのだろうか。
誰に驕り高ぶることもなく、万象に価値がないと倦怠するわけでもない。
私ならば、そんなことができるとは思えない。
賢者様の最も凄まじいところはその魔法の力や叡智ではなく、精神のありようなのではないだろうか。
その精神は、理性というものが形を成したそのもののように感じる。
世界のすべてを、自己すら完全に切り離した客観性が彼の黒い瞳には宿っているのだろう。
賢者様の目を見つめるたびに、私はまるで深い谷底に落ちるような、または湖の底に沈んでいくような感覚に陥る。
だが、恐怖は感じない。
賢者様の魔力はとがるような荒々しさが全くない。それは重厚で、押し包まれるようであるが、清廉さに溢れている。
賢者様の近くでは、古く雄大な巨木を見上げているような気持ちになるのだ。
そして私は知っている。
その手の温かさと、それに与えられる心の安らぎを。
賢者様はおそらく誰よりも公平で、誰よりも優しい。
その心は、黒くもなく白くもない。
きっと、透き通った灰色だ。
そしてそれは澄み渡ることはなく、濁り切ることもない。
「…………賢者様」
無意識に、ぽつりと呟いてしまう。
私たちは自分から願ったこととは言え、彼に非道を押し付けてしまうのだ。
無論、責任から逃げるわけではない。
しかし、私たちが振り下ろす刃としてしまうことに違いはない。
そして彼は物言わぬ刃ではなく、意志を持つ人であるのだから。
私の心はひどく痛む。
私はいつのまにか、服の胸のあたりを握りしめていた。
周りでは私以外も重苦しい雰囲気を発していた。
そんな中、母上が明るい口調で言う。
「あら、もしかしてクレアちゃんは賢者様にご執心なのかしら?」
思わず、倒れそうになった。
「は、母上! この状況でなにを言っているのですか!?」
ほ、本当に何を言い出すのやら。
母上が少し変わっているのは重々承知だが、この空気で言うことではないだろう…!
いや、空気を換えるために言ったのだろうか……?
「いえでも、賢者様の去った後を真剣に見つめ続けてから、胸を苦しそうに押さえたものだから……てっきり……。でも、クレアちゃん否定はしないのね?」
ニコニコと言っている母上を見る限り、それはないと確信した。
つまり、本気で言っている。
「なに! クレアよ、賢者殿にほれているのか?」
ああ……!
父上まで乗ってきてしまった。
「あ、ありません、そのようなことは!!」
……否定したものの、声が上ずってしまった。
「ほうほう、なるほどな」
父上は、ニヤニヤと頷く。
あれは絶対わかっていない。
「わ、私は賢者様には畏敬の念しか抱いていません! そんな、恐れ多い気持ちを持ち合わせてはいません!!」
「ほうほう」
「あらあら」
私がさらに言っても二人は取り合わない。
仲間たちや、遠巻きの重鎮たちも生暖かい視線を私に送る。
違う! 私はそんな俗っぽい気持ちを以って賢者様に向かい合っているのではない!
というようなことを言おうとしたとき、それは始まった。
――――――ッッ!!
ぞわり、と首筋を冷たいものが撫でるような、おぞましさを覚えた。
それに遅れて感じる、抗うことを意識できないほどの魔力の奔流と重圧。
息をすることも忘れてしまう。
筆頭宮廷魔術師の爺やは、震えながらも素早く精神を整える瞑想の型をとった。
声をだそうとしても喉が震えて、意味のない言葉しか出てこない。
とっさに窓の外を見ると空に黒い靄が広がり、渦を巻いていた。
「始まったようだな……!」
父上も、外を見ながら苦しそうに言った。
そうしていると赤を帯びた黒い光が、太く天上に立ち昇った。
次の瞬間、すべては赤黒く輝く紋様に覆われた。
それはどうしようもないほど、不安を搔き立てる光景だった。
不規則で、秩序というものを一切感じさせない曲線と直線が入り混じった禍々しい光の筋が世界を侵食した。
その光は段々と、力強く輝いていく。
そして視界と意識がその色に塗りつぶされた。
***
気づくと息苦しさも赤黒の線も、跡も残らず消えていた。
何事もなかったかのように、世界は元のままだった。
いや、私たちが感じていないだけで実際は大きく変わったはずだ。
今この大陸から、原ネズミという存在は消えたのだ。
なんという魔法だろうか。
どれほどの研鑽の果てに、そのようなことが可能になるというのか。
まさにお伽話の領域だ。
だが、これでまだ終わりではない。
これから始まるのは、神の御業と言われるような領域だ。
――――――ぶわああぁっ!!!!
まるで強風が吹き抜けるような、あるはずのない音が聞こえた。
そして魔力が波動となって世界を突き抜けた。
ごごごごごっ!! っと世界が悲鳴を上げるように、地面が鳴り響く。
夕焼け色の空は魔力の波動によって、水面の波紋のように雲が吹き散らされていた。
そして真っ白な線が、空に描かれ始める。
あるものは円を、あるものは三角形を、あるものは五芒星を……。
次々と図形が描かれ、それらは組み合わさって複雑になっていく。
さらに大小の文字の羅列が走り、それに絡みついていく。
そうして出来たものは、空を埋め尽くす巨大な魔法陣だった。
神秘的で荘厳な雰囲気を放ちながら、それは光り輝く。
――これは、時戻しの大魔法。
この魔法は、範囲内の生きとし生けるものの時間を巻き戻すのだそうだ。
範囲はこの国全土。この部屋だけが賢者様の結界によってその効果は届かなくなっている。
肉体も記憶も、巻き戻された分の変化は無かったことになる。
そして巻き戻す時間は、四か月。
最初の発症例から、ひと月ほど前まで遡行させることになる。
そうすれば、今回の大量感染は終息する。
――――しかしこれは一体、どれほど罪深いことなのか!?
秋の実りに向けて、栄養を蓄えていた植物は新芽の出る前に戻る。
子を産む時期を控えた獣は、春先以前のやせ細った体に戻る。
人はどうなるのか。
あるいは、何かの目標を達成したことが無かったことになるだろう。
あるいは、夫婦となり、愛し合ったことが無かったことになるだろう。
あるいは、祝福され生まれた子供が、まだ生まれていないことになるだろう。
そして、多くの者が味わうことになることがある。
いたはずの人間が、いなくなるのだ。
病により、寿命により、事故により、事件により、何によっても死んだ者は、戻らない。
死者は生きていない。だから、この魔法では生き返ることはない。
賢者様曰く、「たとえ時間を戻したところで、死が生になることは無い」とのことだが、そもそも死んだ者を蘇らせることなどあってはならないこと。
だからそこかしこで、――人々にとっては――あるはずの無い墓標があり、そこにはあるはずの無い名が刻まれていることになる。
それは、どれほどの混乱を引き起こすのだろうか。
長年連れ添った相手が、愛して一緒になった者が、愛おしい子供が、気の置けない友人が、温かな隣人が、消えていなくなる。
それは、なんという恐怖だろうか。
現実を受け入れられない者だって多く出る。
あるいは打ちのめされ、衰弱する者も出る。
精神を病む者、命を絶つ者だっているだろう。
また木々は冬に立ち枯れするものがあるだろうし、獣も冬越え出来ないものがあるだろう。
それらすべてを、我々は背負うのだ。
今生きる者を守るために、人以外の生き物を巻き込み、人であっても死者と過去を貶める。
それが、私たちの選択したもの――――。
夕日が、世界を紅く染める中。
魔法陣から柔らかな白い光が降り注いでいく。
そのひどく美しい、まるで神話のような光景に、私は打ちひしがれた。
涙がぽつりと零れ始めて、やがて途切れることなくあふれ出した。
胸の中のどの感情がそうさせるのか。
私には、わからなかった。
無事、ここまでたどり着けました。
エピローグを数話書いて、次章に行こうと思います。