ハロー フォー ユー
簡素なベッドに白いシーツ。あとは壁掛けのハンガーに二、三着の私服と、ほとんど袖を通していない制服が掛かっている。本はたくさん。切れかけた蛍光灯が明滅しながら部屋を照らしており、それらがおおよそ私の全て。
そう、引きこもりだ。
本当なら学校に行かなきゃいけない身分だけれど、そういった義務から逃げて、部屋の中に引きこもっている。
ベッドに潜り込む際いつも思っているのは、このまま私の世界が終わってしまえばいい、ということ。誰にも悟られることなく、ある日の眠りを境に私は空白の存在になっていて、世界から私の痕跡だけきれいさっぱり消えてしまう。
そういう風な消え方が、私には望ましい。
しかし眠りは覚め、私の現実は来てしまう。倦怠感に抱きしめられた身体は、やはりあるのだ。
その日もいつものように目が覚める。
曜日感覚はおろか、最近は時間の感覚さえ怪しい。普段から私の部屋は窓も遮光カーテンもがっつり閉め切り、日光のわずかな侵入すら許さないからだ。
それなのにどうして、カーテンがはためいて日光が漏れているというのだ。
私はベッドから半身を起こし、毛布をどけてのそりと立ち上がる。背中まで伸びた黒髪をだらしなく垂らしながら、窓の方までトボトボと歩いていく。
カーテンを開けると、窓が小さく開いているのに気付く。窓の開き幅は、ちょうど猫が身体をよじって通過出来るくらい。間違いない、あのバカ猫の仕業だ。
何ということだ。脱走を謀ったであろうチビ太(こんな名前だが立派な巨デブ猫である)は、向かいのベランダの手すりにふてぶてしくも座っているではないか。
(な、何してるのっ!)
私は大いに慌てた。向こうのベランダとこちらのベランダは、距離にしておよそ二メートル弱。身体だけ大きい怠け猫のクセに、この距離をジャンプする運動能力は一体どこで培ったというのだろう。
私はベランダに出て、早くこっちに戻って来いと一生懸命に手を伸ばした。しかしチビ太は飼い主の焦りなど知ったこっちゃないと言わんばかりに、向かいの手すりでくつろいでいる。何ならあくびさえしてみせた。
すると突然、向かいのベランダの窓が開けられた。
立っていたのは男の子。年は私と同じ十五、六だろうか。背は私よりも少し高い。
その時チビ太がピョンと、向かいのベランダの床に降りた。タタタッと素早い動きで、男の子が開けた窓から部屋の中へと入っていく。
あ、という口の形で男の子が苦笑いした。彼は私に背を向け、チビ太を追いかける形で自分の部屋の中に消えて行った。
……エラいことになってしまった。先ほど感じていた焦りが百倍近くに膨れ上がっている。
チビ太を迎えに行かなければならない。しかしそのためには、相手の家にいく必要がある。目と鼻の先のご近所さんとはいえ、引きこもりの私が外なんかに出るのはハードルが高い。
そして、そんなことよりも一番問題なのは……あの男の子と再び顔を合わせなければならないことだ。
嫌だ。恥ずかしい。別にイヤらしい意味ではないが、平静を保ってられないだろう。年の近い相手と、しかも異性と顔を合わせるなんて、考えただけでも心臓がドキドキしてしまう。
とりあえず私は二階の自室を降りた。お母さんは買い物に出かけているのか、台所やリビングに姿はない。お父さんはこの時間は仕事でいない。となると今、家には私一人だ。
ああ、どうしよう。お母さんが帰って来るまで待っておいて、迎えに行かせようか。いやしかし、チビ太を相手の家にいつまでも置いておくのは、いくらなんでも迷惑が過ぎる。
私はガックリとうなだれた。そうか、私が行くしかないのか……。
今の私が着ているのは色気の欠片もない、中学校で指定だったジャージ。少しはマシなものに着替えておこう。
いや、ちょっと待て。相手は既に私のジャージ姿を見ている。もし私がオシャレな物に着替えて行ったなら――
「コイツ、わざわざ気合い入れてきちゃったよ。ぷっ」
――絶対こうなる。やめよう、慣れないことはすべきじゃない。
深呼吸を二度繰り返す。心臓が激しく脈打つ。背中に生じる汗は出来る限り無視する。そうして私は靴を履き、家の玄関を出た。
丁度、あの男の子が胸にチビ太を抱えて出てきたところだった。
ヤバい。こっちに歩いて来る。頭の中は、栓が抜かれた風呂桶の水状態。つまりグルグル回ってどうしようもない、ということだ。あ、珍しい。チビ太は知らない人を警戒するのに、男の子には黙って抱えられている。
って、言ってる場合か。あっという間に、男の子は私のそばに来てしまう。
無表情のチビ太を差し出しながら、男の子は私を見てニコッと笑った。
私はバカ猫を受け取ると、バッと物凄い勢いで頭を下げた。男の子の反応は見ない。私はその姿勢を一秒ほどキープした後、顔を上げ際にきびすを返し、自分の家へと戻っていく。
急いでドアを閉め、ヘナヘナと玄関にへたり込む。
ミッションは、無事に終わった。少し不愛想だったが、相手に出来るだけ良い印象も悪い印象も残さないという意味では、上出来だったと思う。
チビ太を抱いたまま部屋に戻る。窓を閉め切り、鍵も二重にロックする。そして遮光カーテンを閉め切る。再び引きこもりの部屋の出来上がりだ。
頭の中に、先ほど見た彼の笑顔がシャボンのように次々浮かんでは弾けていく。一体何だったんだ、あのキラキラした感じは。
気付けば手が震えていた。私の震える手は、無意識の内にカーテンにかかっていた。私は自分の目の幅だけ、そろぉ~っとカーテンを開けた。彼がまた、ベランダに出てこないかと思ったからだ。
ベランダに、何かが落ちている。風に揺れるそれを目をこらして見てみると、どうやら紙飛行機らしかった。
何、あれ? 私は窓を開けると、その紙飛行機に手を伸ばした。
文字が書いてあるのが見えたので、分解して広げてみる。
『こんにちは。
可愛い猫だね。』
その可愛らしい丸文字を、私の目は何往復もした。
ニャーン
もう長い間、家族以外の人間と顔を合わせていない。家族と会うといってもその頻度は月に一回あるかないかで、私がトイレやお風呂なんかで一階に下りる際、チラっと目を合わせる程度である。
小学生の頃から数え、かれこれ五年以上こんな感じだ。つまり私は、もう長いこと人と会話をしていない。
そこに、あの紙飛行機だ。
『可愛い猫だね。』
男子にしてはやたらと可愛らしい文字だったが、送り主は件の男の子で間違いないだろう。
ベッドに仰向けになって、その手紙を眺める。あれからだいぶ時間が経っており、手紙から目線を外して時計の方を見遣ると、針は夜の九時を示している。
私はベッドで伸びている身体を無理やり引っ張り起こすようにして、半身を持ち上げた。
……書こう、返事を。
『い、いきなり手紙なんて何のつもりよ!
でも……猫のこと、ありがと。あの子はチビ太って名前で』
ッ! ダメだダメだ、お前が何のつもりだ。手紙なんだから、もっと言葉の選び方というものがあるだろう。
『拝啓 お向かいの君。
この度はお手紙ありがとうございます。猫の件では大変なご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ありませんでした。
さて、猫の名前ですが』
……私はバカか。一体誰に送る手紙だから、こんなにかしこまる必要があるというのだ。
あーでもない、こーでもない。気付けば私の周りには、クシャクシャにして放り投げた出来損ないの手紙がいくつも転がっていた。
手紙を書くなんて初めての経験だったが、こうまで難しいものだとは知らなかった。自分の書いた文章を読んだ相手が、どんな反応をするか。そんなことを考えると、怖いような恥ずかしいような感じがして上手く言葉が綴れない。
ええい、もうこうなればシンプルイズベストの方向で行ってやろう。
『こんにちは、向かいに住む者です。
猫はチビ太という名前です。
さっきはチビ太がご迷惑をお掛けしました。』
私的には攻めすぎている感じもするが、一発目はこんなものだろう。
結局それを書き上げた時、時計の針は深夜一時を回っていた。ベランダに出ると、夜のひんやりとした空気が肌をくすぐった。
彼に倣って紙飛行機の形にしたそれを、向かいのベランダにいざ、飛ばす。
もうそちらは寝静まっている様子だったので、簡単に実行出来る――はずだったのだが、私の手はどうしようもないくらいに震えた。今さらになって怖気づいている自分がいる。
しかし、ここまでやって(といっても、手紙を書いただけだが)引き返すわけにはいかない。私は気を取り直し、紙飛行機を持ち直す。
手首をスナップさせながら紙飛行機を離すと、それは空気抵抗を受けながらも無事に向かいのベランダに辿り着いた。
あーぁ、届けちゃった。
あーぁ、読まれちゃうよ。
頭の中の小人さんが暴走気味になる。もともと夜行性だった私の目は冴えに冴えて、ベッドに潜ってもなかなか眠ることは出来なかった。仕方なく、チビ太を呼び寄せてモフモフした。
この巨デブ猫は、抱き心地だけは素晴らしい。
☆☆☆
それは、消し去りたい記憶。
――ねー、なんか臭くない?
――あー、綾乃ちゃんの匂いだ。
――げっ、綾乃菌ついちゃった!
――なあ、綾乃もう学校来んなよ。
言葉の一つ一つが、私を苦しめる。逃げようとしても、刃物のように鋭利な言葉たちは、どこまでも追いかけてくる。
なんで私が、こんな目に遭わなきゃいけないのだろう。何も悪いことしてないのに、どうして皆イジワルするのだろう。
「だって、綾乃キモいじゃん!」
逃げても逃げても、刃物が尽きることはない。
両親は気付いてくれなかった。私も私で、親や先生に告げ口したところで更にイジメが激しくなるだけだと知っていたから、誰にも相談しなかった。
だから幼い私は、鋭利な言葉を前にして、耳を塞ぐことしか出来なかった。
ニャーン
――小学生の頃の夢を見た。
私が引きこもるより以前の出来事で、時々こうして夢に見ては、自己嫌悪に駆られる。
早く、忘れなきゃ。
寝ぼけ眼をこすり、時計を見遣る。十二時。おそらく正午だ。
上手く働かない頭が、ぽやぽやしながら昨日の出来事を反芻する。
チビ太が向かいの家に迷惑を掛けて、その家の男の子から手紙が来て、こっちも返事を書いて、そして……返事はっ!?
私は慌ててベッドから飛び起き、窓へと駆ける。カーテンを開ける。
――あった。
ベランダにて、着地している紙飛行機が風に揺れていた。向かいの彼が返事を書いて、こちらに投げておいたようだ。
窓を開けてベランダに出ると、眩しく鋭い陽光が私に降り注いだ。それに目を細めながら、紙飛行機を拾い上げる。大事に抱えるように持って、ベッドへと戻る。
何が書いてあるのか。私の返事に気を悪くして、嫌なことを書いてるんじゃないだろうか……そんな邪推をしてしまう。手紙の中身を確認するのを恐れる気持ちが、そのまま手の震えとして現れていた。
深呼吸して震えが収まるのを待ってから、恐る恐る紙飛行機を広げた。
『チビ太か、カワイイ名前だね。
君の名前は?
僕はタケルっていいます。』
そんなことが書いてあった。
昨日見たっきりの彼の笑顔が、頭の中いっぱいに広がる。そんな自分が恥ずかしくなってベッドに身を投げて、枕に顔を埋める。すると暗闇の中でまたあの笑顔が浮かんできて、私は更に恥ずかしくなった。
改めて、手紙の内容を凝視する。
『君の名前は?』
どうやら悪い受け取り方はされていなかったみたいで、それだけで私は安心した。
それから。
相手の作った不思議なペースに私が何となく乗ってしまった形で、紙飛行機による一日一往復のやりとりが始まった。
相手の書く主な内容は、言ってしまえば実にくだらないもの。最近あの作家の本が面白いとか、学校でこんなことがあったよ、とか。本当に他愛もないことだった。
けれど、それも悪くはなかった。知らない誰かと繋がる――自分のする話に共感してくれるのが楽しかったし、相手の話に私が反応して、相手がまたそれに反応するのが面白かった。
手紙の交換に全く不安が無かったかと言えば、嘘になる。どんな企みがあってこんなことをするのか、相手が私の言葉を笑っていないか不安だった。
気恥ずかしい気持ちだって、少しはあった。けれど、タケル君の手紙の文面から滲み出る優しい雰囲気は、私の心配や緊張を和らげた。何より、彼が私に向けた笑顔は、裏表の無い優しい人が浮かべる笑顔だったと思うから。
私の中での彼が、日を追って大きくなっていく。常に、タケル君のことを考えている自分がいる。
彼と顔を対面させたのはあの日一度きりだったけれど。
(私まだ、誰かと繋がってていいんだ)
そう思うと、ちょっとだけ嬉しかった。
ニャーン
『あの作家さんの最新作を買って読んだけど、とても面白かったよ。
貸してあげようか?』
『嬉しいけど、遠慮します。
ありがとう。』
タケル君との文通はとても楽しかった。
けれど、楽しいと思っても……彼のベランダに紙飛行機を投げた後には毎回、罪悪感に駆られる。
きっと彼は、文通相手である私のことを、普通の女の子だと思い込んでいる。本来なら私の抱えている問題をこっちから最初に明かすべきだったのに、言いだせぬままズルズルと引きずって、結局普通の女の子を演じている。
本当の私は全然普通じゃない、彼の考えも及ばないような問題のある子なのだ。
けれど、それを言ってタケル君との関係が壊れてしまうことを考えると、私はたまらなく怖かった。だからいつまでも言いだせずにいる。
きっと本当のことを知ると、もう手紙を書いてくれないかもしれない。紙飛行機による繋がりがなくなってしまうと、一生会えなくなってしまう。
それくらい、ベランダ同士の距離は遠いものなのだ。
『今まで隠していてごめんなさい。
実は私――』
そこまで書いた手紙を、私はクシャクシャに丸めてポイッと投げ捨てた。
(どうしよう、チビ太)
私はチビ太を抱きしめた。普段はイタズラ好きで飼い主を困らせるバカ猫だが、私が抱きしめたい時は、大人しく抱きしめられてくれる。
ある日、手紙の中にこんなことが書かれていた。
『今日、夜の八時にベランダに出てきて。
絶対だよ。忘れちゃダメだからね。』
胸の鼓動が早くなるのを感じる。決して楽しい時のドキドキではない。これは他でもない、焦りによるものだった。
ベランダに出てこいという理由は分からないが、彼と会うとなると、会話をする必要が生じてくる。そうなると間違いなく、私の問題がさらけ出されてしまう。絶対彼は私に幻滅する。もう文通が出来なくなる。
そんなことを考えると、私の気持ちは憂鬱な思いで溢れた。
けれど、いつまでも隠し通せることではないということは分かっていたし、いつかこんな時が来るだろうとも思っていた。仕方のないことなんだ。
もう、この関係も潮時だろう。今日を最後に文通は終わる。私は覚悟を決めた。
けど――やっぱり、もう少しだけタケル君と仲良くしていたかった。
私は耳が聴こえない。
生まれた時は人並みに聴力を持っていた。聴力を失ったキッカケは、小学校時代に体験したイジメだ。
イジメの原因は、今では思い出せないほど些細なこと。でも小学生にとってそれは重要ではない。生まれ持って気の弱い私は、ターゲットとして都合が良かった、ただそれだけだ。
ひたすら浴びせられた暴言。私を苦しめようとする悪意の塊は、私の心をどんどん追い詰めていく。
やめて、とは言い出せなかった。私に出来ることといったら、それらの言葉が聞こえないよう、必死に耳を塞ぐことだけ。聞こえない、聞こえない、私には何も聞こえない。そう自分に唱え続けた。
するとある日突然、本当に何もかも聞こえなくなってしまった。
両親は様々な医者の所を渡り歩いた。が、何せ原因が精神的な物だったので、私の聴力が戻ることは無かった。カウンセラーにかかっても結果は同様だった。
自分が負った障害を理由に、私は学校を拒否した。中学校にはほとんど行っていない。そして月日は流れて、今に至っている。
この先の人生、私の聴力が戻ることはない。だから、部屋から出ることも、きっとない。
ニャーン
その夜、八時の少し手前。
私は、彼へ謝罪の手紙を書いていた。
耳が聴こえないこと、それが理由で家に引きこもっていること。それらを黙っていて本当にごめんなさい、というのも付け加える。
自分で書いたその文面を読み返すと、涙が一筋、私の頬を伝っていった。
今までにないくらい丁寧に紙飛行機を折って、私はベランダに出た。
慣れたはずの夜の寒気が、いつにも増して強く肌を突き刺すように感じた。思わず身体が震える。
見上げると、月が出ていた。きれいな三日月で、そばには気の早い一番星がちらついている。私がそれに見とれていると、どこからか流れてきた雲によって、明るい月が隠れてしまった。
視線を落とすと、タケル君がいた。この前会った時と同じように、彼は私を見て笑った。
ああ、この笑顔だ。
彼の書く手紙も好きだったけれど、私はこの笑顔に惹かれていたんだ。
彼はもう、明日から私に手紙を書いてくれない。笑顔を見れることもない。そう思うと、さっき流した涙がもう一粒だけ、ベランダの床に染みを作った。
私は彼に向かって、紙飛行機を飛ばした。
夜風を受けた飛行機は、ユラユラと頼りなさげに揺れながらも、乗せた私の言葉をしっかり彼のもとへ運んでいった。
地面に着く前に、彼はそれを掴む。飛行機を広げて、その中身に目を通している。
やがて彼はその視線を紙から私の方に移した。かと思えば。
重ねた人差し指と中指を額の前に当てた後、両手の人差し指を向かい合わせてクイッと曲げる。
「こんにちは」。
それは、私が唯一捉えることの出来る音――手話だった。
その時私は、本当にもう、何がどういうことなのか理解が追いつかなかった。え? なに? 彼も耳が聞こえないの? あーでも、うんん?
そんな混乱を知ってか知らずか、彼は私に紙飛行機を飛ばした。予め用意していた物のようだ。
着地したそれを拾い上げ、広げてみる。
『君は僕を忘れたみたいだけど、僕は君を忘れたことはないよ。
綾乃ちゃんとは小さい頃、よく一緒に遊んだね。
親の仕事の都合で引っ越したけど、最近こっちに戻って来たんだ。
君の耳が聴こえなくなったって聞いた時、ビックリした。
それでも僕、もう一度君とお話しがしたかったんだ。
だから、手紙のやり取りをしてる間に、一生懸命手話を覚えたよ。
これからもっと覚えるから、僕とたくさんお話してね。』
ああ、思い出した、何もかも。
まだ幼稚園に通っていた頃、引っ込み思案で恥ずかしがり屋な私の手を引いて、色々な場所で一緒に遊んだ男の子がいた。
私は、その男の子が好きだった。他の子にからかわれても、彼が私をかばってくれたからだ。
いつの間にか疎遠になっていて、もうずっと、その子とは会えないと思っていた。
だから……十年ぶりに再会しても、覚えてるわけないじゃん。
私は手紙から顔を上げた。
気付けば先ほどまで月を覆っていた雲は晴れており、タケル君のことを照らしている。ぼんやりした淡い光にあてられながら、彼は照れたように笑っていた。
私の中の、彼への想いが、どんどん大きくなっていく。やがてその想いが大きくなりすぎて、胸の中に収まりきらなくなって。
そしたら胸が決壊し、涙があふれた。
タケル君は四本の指先で左胸から右胸をなぞり、「大丈夫」と言う。
――大丈夫じゃないよ、もう。君のせいで。
音のない世界で何もかもに絶望して、今までずっと孤独に生きていた私に、彼が声をかけてくれた。
あふれても、あふれてもあふれても。やっぱり彼への想いが止まらない。
そしたら不意に、彼が手話でこんなことを言ったのだ。
「ずっと君が好きだったんだよ」。
タケル君がベランダの縁から手を伸ばしたので、私も彼の方に手を伸ばす。
一生懸命身を乗り出して手を思い切り伸ばしたら、指先のわずかな部分がちょんっと触れた。
指先だけの繋がりなのに、不思議とこんなに温かい。私はその温もりを握りしめる。刻み込むように、噛みしめるように、忘れないようにして、何度も何度も。
指先に残った温もりは、手を離した後でも、私の全身を温めてくれた。
そうやって体温を分かち合えるくらいには、遠いと思っていた私たちの距離は、近かった。
「ねえ、そっちに行ってもいい?」
☆☆☆
結んだ髪をフリフリさせながら公園を走り回る女の子と、それを追いかける男の子がいる。
ピタっ、とベンチの前で男の子が急に立ち止まる。
「綾乃ちゃん、何かいる」
ベンチの下を指さした。女の子もそこを見遣る。
「フニャァ」
ベンチの下に置かれたダンボール箱の中で、毛玉のような生き物が、今にも消えてしまいそうな声で鳴いた。開けきらない目には汚れが溜まり、身体はブルブルと震えている。
その小さな命を放っておくことなど、二人には出来なかった。
「飼ってくれる人を探そう」
男の子が言い出して、そこから二人が行動に移ったのは早かった。クレヨンで里親募集の張り紙を作り、色んなところに掲示した。近所の家を一軒ずつ回り、飼ってくれないかという交渉もした。
しかし、里親というものは簡単には見つからなかった。そうこうしている間にも、子猫は日を追って衰弱していく。
すると男の子がこう言った。
「この猫、綾乃ちゃんの家で飼えないかな」
名案だ、と女の子は思った。幸いにも彼女の家は一軒家。可能性は無いこともない。
しかしそのことを母親に相談すると、やはりというか、反対された。ペットなんて簡単に飼える物ではない、世話なんか出来っこない、ということを、母親は諭すような口調で言った。
女の子はシュンとして諦めかけた。すると、男の子が横に来て一緒に頭を下げてくれた。
「僕からもお願いします」
その言葉は何だか心強くて、諦めかけた女の子の心もいくらか立ち直った。そして二人は繰り返しお願いし続けた。母親は頭を抱えた末、世話をサボるようだったらすぐ捨てにいくからね、という条件付きで、子猫を家族にすることを許してくれた。
「やったね綾乃ちゃん。猫の名前、どうする?」
この猫が健やかにふてぶてしいデブ猫へと育っていくことなど、この時女の子は思ってもみなかった。なので、猫にはこんな名前を付けた。
「初めて見た時から決めてたの。チビ猫だから、チビ太」
「いい名前だね。たくさん可愛がろうね」
ハイタッチする二人の横で、チビ太が鳴いた。
ニャーン。
お読みいただきありがとうございました。
若干ご都合主義ですみません。でも僕はそういうのも好きなんです…。