2
シャンデリアの輝くホールへと足を踏み入れる。
今夜は王城で舞踏会だ。少女にとっては結婚を賭けた勝負の場である。
少しでも条件の良い男を射止めんと、女側は去年から流行り始めた裾のふんわりと広がった花のようなドレスに加えた、鮮やかな流行色で美しく着飾っていた。
私はと言えばデザイン自体は人気の物だが、生地は従来同様暗く地味な色合いのドレスである。いくらシャンデリアが煌々と輝いていようとも、部屋全体を日中のように明るくさせる程の力まではない。ホールはやはりそれなりに薄暗いのだ。
その中では映えるのは、当然明るく鮮やかな色合いのドレスである。私のドレスは少々野暮ったく映ってしまう事だろう。
家の名誉のために言っておくが、新しいドレスを仕立てるお金がないわけではない。これだって新たに仕立てたものである。ただ流行色を取り入れられない、ふかーい事情があるのである。
孔雀にならなくとも、夫探しは父が適当な人を見繕ってくれるためあまり構える必要がない。母のお眼鏡に適えばまず間違いないだろう。なのでこういう場はダンスと食事を楽しもうと決めているのだ。
さてさて。ミナルゼとオリビアはもう来てるかなぁ。
はしたなくならない程度に頭を巡らす。そうして両親の行く先にある人だかりを見て、自然と舌に苦味が乗る。
人だかりの中心にいるその人にまず父が声をかけ、母に私と順に挨拶をした。見据えたその人は、後ろに撫でつけられた白髪混じりの暗い金の髪が鈍く光っていた。
恰幅が良く、流行に乗らないお堅い礼服に身を包んだこの男こそが、純血主義の筆頭、アルバトラ公爵だ。溢れ出す威厳に、私は毎回裸足で逃げ出したくなる。
しかし苦手な理由はそれだけではない。
公爵は私を見て和やかに目を細めた。
「君は年を追うごとに母親に似ていく。君が一人娘でさえなければ、ぜひうちに来てもらいたかったよ。マシェリー嬢の婚約は決まったのか?」
「決めかねているところです。今後娘と共にエスキオラ家を支えていく相手ですから、どうしても慎重になってしまう」
「マキウス家の次男との婚約の破談を即断出来た君なら、いい相手も見抜けるだろう」
私は笑みを貼り付けながら、アルバトラ公爵の発言を聞き流す。
おっとあれは我が友、ミナルゼとオリビアではないか。
「お父様」
「ああ。行ってきなさい」
「それでは失礼致します、アルバトラ公爵」
礼を取ってそそくさと友人達の方へ逃げた。
友人二人と軽い食事をした後は、二人と分かれて二曲ほど誘われるままに知らない人とダンスに興じる。
曲が終わればドレスの裾を摘まんで礼を取って離れようとした。しかしさっと行く手を塞がれた。
「少し抜けませんか?」
「ごめんなさい。約束があるの」
にっこりといなして逃げる。
まったくダンスに誘ってくる男は毎回毎回目をぎらぎらさせているから困る。
さて、ミナルゼとオリビアはどこで踊っているかと頭を巡らしたところ、知った顔を見つけて自然と笑顔になった。その人は壁に寄り掛かっており、私と目が合うなり柔らかな微笑を返す。
「グランツ。お久しぶりね!」
栗色の髪のその男性は、私の幼馴染であるグランツ・マキウス。マキウス伯爵家の次男である。
彼は穏やかに私を迎えた。
「やあ。マシェリー。君は見るたびに美しくなっていくね」
「うふふ。実は私も最近特にお母様に似てきたと思っているのよ」
うちのお母様は目を瞠るほどの美人さんだ。私はまだあの色気を醸し出せてはいないけれど、将来有望だと我ながら思う。
「そうだ。この前手紙で紅色が出せるよう試していると書いてあったけどどうなったの?順調?」
「残念だけどまだ理想の色は出せていないんだ」
そうなんだ。残念。
グランツの家であるマキウス家の管理するレザー領は、異国の染色技術を吸収して織物産業に成功している。現在の流行色の生地は、ほとんどこのレザー領で作られたものだ。
レザー領の織物といえば質は元々一級品ではあったが、色のバリエーション自体は乏しいものであった。そもそもこの国自体妙に暗い色を好む傾向にある。鮮やかなドレスが舞踏会を彩るようになったのは、実はここ最近。それこそマキウス家が染色技術を輸入してからだった。
こういった場で使われるようになるまでの道のりは、とても大変だっただろう。
純血主義者の間では異国の技術を取り入れる事にあまりいい顔をされなかった。そのうえある理由によりマキウス家の事業は暗礁から船を下ろす事からのスタートだった。
始めは相手にもされていなかったが、いい仕事に評価がつかないわけがない。今では絶賛されているのだから、私も鼻高々である。だって幼馴染だし。
とはいえ純血主義を掲げるうちがそう易々と評価をあげるわけにもいかない。私が着ているドレスが流行色ではないのも、そこら辺が事情が絡んでいる。同年代には華やかにしている子だっているのにさ。
まあ、それはいいのだ。
「紅色が出せたら絶対に教えてね」
「いいけど、どうしてだい?」
私は口を押さえて声を立てずに笑った。秘密だと答えれば、彼は困った様子で苦笑する。失敬な。悪戯を考えているわけではないんだからね。子供時代は数々の遊びにグランツを引っ張り回したため、疑われるのも無理はないけどさ。
こうして不本意な疑惑を持たれてしまう程度には、私達の関係は長い。
それでもこうして親しく話すのは、実は久しぶりではあったりする。
グランツ・マキウスは、かつて私の婚約者だった。
つまり今は違う。
彼の家に問題があるが故に、婚約をエスキオラ家側から一方的に破談にしたのだ。
父が婚約を取り消した理由はただひとつ。
彼の家が純血主義に反したからだ。
現在マキウス家の当主を務めるグランツの兄が、異国の女性を家に迎え入れたのである。三年前の事だった。
私はエスキオラ家の一人娘であるため、家督を継がなければならない。よって婿養子を取る事になる。エスキオラ家を支えるべき婿の実家に異民の血が入る事を問題視しているのだ。
三年前から両親共にグランツの事を悪く思っている節は見当たらない。手紙のやり取りだってしているようだ。しかし親には親の事情があるのだろう。先程のアルバトラ公爵を見ていれば、婚約を続けていれば厄介な目に遭っていたのは分かっている。
婚約破棄して二年は人前で話す事はほぼ不可能だった。互いの家を行き来する事もなくなり、私達は顔を合わせる事もなくなった。手紙のやり取りだって始めの頃は許されなかった。
その間グランツは事業を手伝い営業に精を出していたようで、その努力が実り徐々にマキウス家への風当たりが弱まったのだ。
それでも純血主義を掲げるうちと以前のような付き合いが出来るわけでもないんだけどね。
グランツが動かないため、私も何となくその場に留まった。
お腹はすいたし、あまり長く彼と一緒にいるわけにもいかないのだけど、なかなか離れる踏ん切りがつかない。グランツ側から立ち去る言葉をくれたなら、私もじゃあねと軽く言えるのに。
グランツがとても興味深い話を持ち出してくるから、さらに離れるタイミングを逃してしまう。
「そういえば知っているかい?今街ではナギルという食べ物が人気なんだ」
「ナギル?」
麦を使った新しい料理だろうか。ギの文字だけで想像する。
「コマという穀物が主に使われているらしい。それを茹でてこう……三角の形に握るんだ。中に具を詰めた物が人気だね。私も食べたけどふっくらしていて不思議な食感だったよ」
絶句した。
だって、それは、まさか。
「おにぎり?」
「え?いや、ナギルだよ」
いやいやいや。それはおにぎりじゃないのか。おにぎりだよね。
「えーっ!何それ超食べたい!」
グランツが目を丸くした。
いけない。前世の記憶に引き摺られてしまった。笑ってごまかす。
ああでも食べたいなぁ。それにおにぎりだけではない。
鳥の串焼き、揚げパン、じゃが揚げ、綿菓子。
街の市場に出ている屋台の、定番中の定番だ。チープな味だが市場の賑やかさと相俟って非常に美味しく感じる。それにあそこは異国の料理も集まっていて、バラエティーに富んでいる。うう。考えただけでもよだれが。
以前はグランツに連れ出してもらっていた。食べ物を市場で買って、抜けたところにある広場で一緒に食べるのだ。しかし婚約を解消してからは当然そんな機会もない。
学校帰りに買いに行こうかなぁ。従者と御者のおじさんには賄賂つけて黙ってもらって。おぉぉ。案外いけるんじゃないか?彼らには悪いが共犯確定だ。
今の私は完全にお嬢様スイッチがオフになっている。酷いくらい顔に出ている事だろう。
私にこの味を覚えさせた張本人は笑うばかりだ。けっ。自分は自由に買いに行けるからって。
「それほど食べたいかい?」
「ええ。とても気になるわ。具はどんな種類があるのかしら」
シャケ派の私としてはあるととても嬉しいのだけど。しかしあの市場にはとんだゲテモノが混ざり込んでいる事があるため、期待は抑えておくに限る。
真剣に考え込んでいると、名前を呼ばれた。釣り上げられるように顔を上げれば、自分より高い位置にある顔が微笑む。
「出来る事なら私が君を街に連れ出したい。……だけど今の私には君を外に連れ出す事は出来ないから」
「仕方ないわ。こればっかりは」
今の私達では、せいぜいこうして話すのがやっとだ。
「連れ出してはやれないけれど、君の屋敷に行く時に持って行くよ」
淡く浮かんだ微笑には、切なさしか窺えない。
再会してからというもの、グランツはよくこんな風に笑うようになった。
それは何気ない瞬間に浮かべるもので。仲の良かった幼馴染と好きに話せないもどかしさなのかとも思ったが、それとは少し違う気がした。だけど私にはその細かな種類を判別する事は出来ない。
どうしたのか訊ねても、自覚がないのかグランツは質問の意味を理解しなかった。
妹分としては非常に歯痒いところだ。
人の気も知らない彼は、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ああでも。すぐに顔を出すのは難しいかもしれない」
その時、不意にホール内の空気が変わった。人々がざわめき、空気が張りつめたのだ。
周囲を見回せば、皆の視線は一点に集中している。
その先を追って息を飲む。
丁度曲を終えて演奏が止まっていたその最中、日のように明るい金髪の男性が悠然とホールの中央へと足を進めていた。
第二王子のシルヴァスト殿下だ。
しかしいくら王子と言えども、彼が現れただけではこんな空気は生まれない。
原因は間違いなく、彼にエスコートされている白銀の髪を持つ令嬢だ。
「エリシアだわ」
流行色のひとつである、澄み渡った湖を髣髴とさせる水色のドレスを身に纏う彼女を見つめる。目がいくのは当然ながら見事に結い上げられた美しい髪である。ドレスに合わせて、青を基調とした装飾で彩られていた。
「不満そうだね」
上から小さな笑い声が降りてきた。
そりゃそうだ。私は大いに不満である。
「あの美しい色には、絶対赤が映えるのに」
確かに寒色系のドレスの方が似合うだろう。だけど白銀の髪を単体で見るなら、推薦するのは赤一択だ。想像するだけでうっとりしてしまう。
「マシェリー。顔がにやけているよ」
「いいの。みんなあの二人を見ているんだから」
「そんな調子で学校では大丈夫かい?」
「そうなの。聞いてよ。あの髪、本当に憎らしいのよ」
曲が流れ出したのを良い事に、ここぞとばかりにエリシアの髪が如何に魔性であるかを熱く語る。
混血の話なんて純血主義の親に気軽に出来るはずもないし、使用人に話したら漏れる恐れがある。心置きなく話せるのは、純血主義者ではない彼だけだ。
ひたすらエリシアの髪について語っていたけれど、グランツは嫌な顔ひとつ見せない。それどころかとても楽しそうだ。そういえば昔雪について熱く語った時も、彼だけはこんな風に楽しそうにしていたっけ。
語り終えてすっきりとした私に、グランツはやはり辟易した様子もなくくすくすと笑った。
「マシェリーは昔から雪を眺めるのが好きだったからね。私が足跡をつけると怒るくらいに」
グランツは私を見つめながら、暖かな瞳をふと寂しげに細めた。
曲が終盤に差し掛かる。
そうにも拘わらず、みんな動かないまま一点だけを見つめていた。
多くの視線を受けながらも、シルヴァスト殿下は歯牙にもかけない。一方エリシアは非常に緊張した面持ちだった。
ついこの間まで平民で、こんな華やかな場所とは無縁だったのだ。心中お察しする。私だって生まれる前は庶民だったから気持ちは分かる。今は慣れたけど、注目されると足が震えちゃうよね。物凄く高そうなものが目の前にあったら慄くよね。触れないよね。すんごい威厳があって偉そうな人が目の前に来ると縮こまっちゃうよね。
「さっきの話だけど。城に勤める事になったんだ」
「んー?」
見せびらかすようにホール中央をめいいっぱい使って踊る二人に気を取られて、返事がおざなりになった。
聞き流しかけた言葉を完全に滑り落ちる前に捕まえて、目をしばたたきながらグランツに注目する。
「もしかしてシルヴァスト殿下の元に?」
「ああ。前々から誘われてはいたんだけど、家の事業が軌道に乗るまではと断っていたんだ」
先程エリシアとダンスをしていたシルヴァスト殿下は、グランツの友人でもある。
二人ともクインシード王立学校の同級生で、学校が終わるなり一緒に街に繰り出していたらしい。なんと羨ましい。
「大出世じゃない。あなたなら絶対に上手くやれるわ」
さすが我らが頼れるお兄さん。ああでもグランツは真面目だから、何でもかんでも抱え込みかねないか心配だ。
「ちゃんと息抜きはするのよ。あまり思い詰めないようにね。頑張るのはいいけど、無理は禁物よ」
「ありがとう。どうにもならなくなったら君に会いに来るよ。マシェリーの笑顔は私にとって万病に効く薬だからね」
まったくうまいんだから。
「その時は美味しいお茶を手ずから淹れて、存分に見せてあげるわ」
グランツは笑ってはいるけれど、暖かみのある瞳はろうそくの火のように頼りなく、やはりどこか寂しげだ。
「マシェリー。もし、貴族の現状を変える事が出来たなら――」
声が途切れる。
先を促したけれど、彼は何でもないと言って淡く微笑むだけだった。
そうして、殿下とエリシアのためだけに流れていたかのような優美な演奏は、指揮を下した。
*****
翌日の私の頭は、おにぎりの事でいっぱいだった。
従者に相談したところ、自分では判断出来ないと執事に相談に行きそうだったため慌てて引き留めた。だって執事に渡ったらそのままお父様コースだもの。へたしたらお母様に伝わってしまう。
代わりに御者に頼んだら、買っておくと言ってもらえた。本当は自ら買いに行きたいのだけど、登下校は従者も一緒のため仕方ない。
ああ。早く学校終わらないかなぁ。
昼休みという事で、サロンまでの道のりをるんたったと進む。心の中だけで。
この国には昼食という概念がない。代わりにお茶の時間があり、昼下がりに食べるのはサンドイッチやお菓子などの軽食だ。
「マシェリー、あなた不機嫌な顔しているわよ。一体どうしたというの?」
「もしかして昨日の舞踏会の一件で?」
「ああ。昨日はあの混血が図々しくもシルヴァスト殿下と踊っていましたものね。気分が悪くなるのも無理もないわ」
ちょいちょいちょいちょい。待ちなさい。違う。違いますから勝手な解釈はやめてくれ。
「寒いからつい」
「今年は去年よりも寒いわよね~」
「やだオリビア。あなた毎年同じ事を言ってるわよ」
ミナルゼがくすくすと笑った。話が逸れてホッとする。
どうやら無意識に怖い顔になっていたようだ。
私は油断すると、それはそれはもう間抜けな顔になる。母の顰蹙を買うくらいに。それで幼少期から散々注意を受けたのだ。「淑女たるものそのようなな間の抜けた顔を人に晒すんじゃありません」は、一時期母の口癖にまでなっていた。
故に訓練の賜物で、人目のあるところではいやに冷たい不機嫌に見える表情になってしまう、らしい。にやけないようにしているだけのつもりなので、自分ではよく分からない。とにかくそれで周囲を怯えさせる事が度々あった。うーん。加減が難しいなぁ。頬をちょっと揉みほぐす。
というわけで、こちらも注意力散漫になった事は認める。しかしお互い相手が悪かった。
よそ見をしていた相手が私にぶつかった。黒褐色の髪を持つ下級生の男の子。この国は金髪や茶髪が主だ。つまりこの子は混血である。
お互い顔を見合わせたまま固まった。
このまま何事もなく、すみません、いえいえでお別れ出来たらどんなに良かったか。
しかしだ。そうはいかないのがこの学校である。
「穢らわしい。どういう教育を受けているのかしら」
「マシェリー、怪我はない?」
平民は貴族に道を開けるべし。学校に存在する暗黙のルールである。
混血に至っては廊下の真ん中さえ歩いてはいけない理不尽さ。
他にも、平民はサロンにおいて日当たりの良い席の使用は禁止で、混血はそもそもサロンの出入りを禁止なんてものまである。
とにかくそんなルールがあるものだから、ミナルゼもオリビアも眦を釣り上げて下級生を責め立てる。
彼女達は親の教えに素直に従う、根っからの純血主義なのだ。
年下相手とは思えない罵詈の数々に、さすがの私も事なかれ主義を貫く事は出来なかった。切り上げさせようと口を開きかけた。
そこで現れたのが彼女だった。
「子供相手に恥ずかしくないんですか」
私と下級生の間に颯爽と割り込み、胸を張って対峙する。
正義感をたぎらせる強い双眸に既視感を覚えた。
「エリシア……ルノアール」
目の前がちかちかと明滅を始める。
それはさながら、秘密の扉を開く呪文だった。
今まで平面として頭に入れていた情報の数々が、自ずと組み合わさって立体を作り上げる。
全てが組み上がった時、私は意識を手放した。