13
11話から3話連続投稿しています。
闇の中を走っていた。
周囲には何も見えないのに、がさりがさりと草木を掻き分ける音が聞こえる。
足音はすぐそこまで迫っていた。気配が暗闇から手を伸ばし、私を突き飛ばす。
突然足場が消えた。
一瞬の浮遊感の後、重力に従って自分の身体が真っ逆さまに落ちていく。
そこで目を開いた。
しばし機能を停止していた耳が、浅く繰り返される呼吸音を拾った。瞳孔は見開かれ、まばたきをする事すら忘れる。
額に何かが当たった。驚いて横を見ると、アリアンナが気遣わしげにこちらを覗き込んでいた。後ろには橙色の光が見える。それがろうそくの火だと気付くのにしばらくかかった。
口を開こうとしたが、喉が渇いていて奇妙な喘ぎ声だけがこぼれた。
「水を飲まれますか?」
頷いた。水差しからグラスに水をそそがれる。
アリアンナは私が起きるのを手伝い、グラスを渡した。喉に流し込んだ水はぬるかったけれど、少しだけ気が落ち着いた。
汗で頬や額に貼り付いた髪を払ってくれる。その気遣いに溢れた丁寧な所作に安心感を覚え、ひとつ深い息をを吐き出した。
「大丈夫ですか?うなされていましたよ」
「ごめんなさい……」
どうやらそれで起こしてしまったようだ。何度か深呼吸を繰り返せば吐き気も引いてくる。
「ありがとう。大丈夫だから」
アリアンナはグラスを受け取り机の上に置く。ろうそくの火を消すと、部屋が暗闇に包まれた。
窓からは月明かりさえも入り込まず、アリアンナの姿もろくに見えない。しかし気配が近付いてくる事は分かった。
これはアリアンナだ。
そうと分かっているのに奇妙な焦りを抱く。鼓動は速くなり、息遣いも早くなる。
ベッドが、ぎしりと音を立てた。沈黙が怖くて口を開きかけた時、彼女の方が先に声を出した。
「寄ってください」
戸惑っていると、アリアンナがベッドに潜り込んでくる。押されるままに壁側に寄った。さほど大きくないベッドは二人入るととても窮屈だ。
ベッドの片側は壁についているため、私が落ちる事はない。しかしアリアンナが落ちかねないためもう少し寄ろうとしたら、引き寄せられた。
「嫌なら嫌と言ってくださいね」
言うなり頭を抱きこまれた。
体温と、そしてふわふわと柔らかいものが顔に当たる。
普段着ているものは体のラインが出るものではないだけにあまり気にしたことはなかったのだが。こうしていると彼女の胸が思いの外大きいものだと気付く。童顔巨乳か……。
恐怖も困惑も押しのけて真面目に不真面目な感想を抱く。沈黙を許可ととったのか、アリアンナは指を私の髪に絡めて優しく梳いた。
「うなされた夜は、ずっとこうしてもらいたいと思っていたんです」
彼女の声は穏やかだった。過去の傷を全て受け入れた、包み込むような声色だ。
一度は落ち込んだマキウス家の織物事業が軌道に乗る以前。グランツの手紙にあった話を思い出す。
混血であるが故に虐げられていた少女の話だ。あれはアリアンナの事だったのではないだろうか。
「アリアンナは、グランツに拾われてここに来たの?」
苦笑が伝わってきた。肯定する声も、やはり穏やかだ。
「私の世話はグランツに頼まれたのね」
「はい」
真面目な彼女だから、こんなにも使命感に燃えているのだろう。それがグランツへの恩返しになるから。
北は他の地域に比べて移民や混血への差別意識が大きい。
この土地は過去、不作続きで飢えに苦しんだ時期が続いた。その山を越えてすら、慢性的に食糧不足が続いている。王弟が異国の寒さに強い食物を持ち込む事でようやく飢えが緩和したのだ。それまでの間、少しでも食料を確保するための標的となったのが、周囲と見た目の違う、混血や移民だった。この領土は労働力を増やすために移民の規制も緩かったため、流れる人間もいたのだ。迫害された彼らの中には、酷い時には不作の原因とされ、悪魔と罵られ私刑にされた人間もいると聞く。
現在はその時代に比べて差別意識は多少の和らぎを見せているものの、名残は根強く残っている――そう授業で聞いた。
私の混血に対する知識など、せいぜい授業かグランツから聞いたものくらいだ。だからエリシアに偉ぶれるほど知っているわけではない。
自嘲を滲ませた事に気付いたのかは分からない。しかし彼女はささくれ立つ私を労わるように、頭を優しく撫でた。
「大丈夫です。あなたはもう、何にも脅かされたりはしません」
優しい声が、触れている個所から直に染み込んでくるような心地だった。
ここにいる間は全てを忘れてもいいのだと。
何にも怯える必要もないのだと。
暖かな心をもって恐怖を少しだけ溶かす。
「ありがとう」
アリアンナは何も言わず、腕の力を強くする事で答えてくれた。
確かに修道院では、日常が脅かされる事はなかった。
レターナイフを研いでいたところをアリアンナに見つかり取り上げられたり。
礼拝堂の来訪者や孤児院の子供達には変わらず遠巻きにされたり。
心を揺るがされる事もなく、何も考えずに過ごしていられた。
だからだろうか。アリアンナに言われるまで気付かなかった。
「誕生日おめでとうございます!」
昼下がりに告げられたそれに、ようやくこの日が自分の誕生日なのだと知った。
固まる私の前に、白やピンク、黄色の花で作られた、可愛らしい花束を差し出される。修道士や修道女、孤児院の子供達の誕生日は、月に一度纏めて行われる。しかし今日はその日ではない。
花束を受け取りながらそれでも困惑する私に、彼女はさらに何かを差し出した。
手紙だ。見慣れた流麗な字で、宛先に私の名前が綴られている。
「……これ、グランツから?」
アリアンナは頷いた。
一歩引いた私の手を取って、手紙を握らせる。
「マシェリー様。これは絶対に燃やさないで開けてください。あなたの大切な友達からの手紙が入っていると、私宛の手紙に書かれていました」
触ってみたが特にこれといって今までの違いは見つけられない。紙をいくつか詰めただけなのだから、重さなどほとんど感じない。それなのに鉄を詰めたように重たく感じる。
沈黙する私を、アリアンナがひどく心配そう覗き込んでくる。何でもないと笑おうとしたけれど、口角が上げられていない事は嫌でも分かった。
「手紙は、私が預かっておきましょうか?」
「……大丈夫。……少し、一人にしてくれる?」
自室に戻る。アリアンナは部屋の前まではついて来たけれど、中に入る事はなかった。
扉に凭れて息を吐き出す。気怠い足を無理に動かして、花束を机の上に置いた。椅子に腰かけて手紙を見つめる。
レターナイフは取り上げられてしまったので、封蝋を剥がして開く。便箋は三枚あった。
ひとつグランツ。残り二つは――
「ミナルゼと、オリビア……」
友達と聞いて真っ先に頭に浮かべたのは二人だったけれど、まさか本当にそうだとは思わなかった。事件以来二人とは顔を合わせてはいなかった。私の事などないものとされているのだと思っていた。
俄かに手が震えた。
綺麗というよりは可愛らしい字で、彼女達の言葉が綴られていた。
『親愛なるマシェリー様
ご無沙汰しております。
今まで手紙さえ書く勇気を持てなかった私をお許しください。
だけどどうしても、マシェリー様の誕生日に手紙を送りたかったのです。
十七歳の誕生日おめでとうございます。
直接祝えない事がとても悔やまれます。
もしかしたら、もう私に祝われたくはないかもしれませんね。
あなたが学校を去ると、校内は無法地帯へと変わってしまいました。
これが本当に国の未来を担う子息子女を育てる学び舎かと目を疑ったものです。
今にして思えば、あなたはこうなる事を防ぐために、私達貴族を抑えていてくださっていたのですね。
私やオリビアが同じ事をしようとしても上手くいきません。
このままではあなたに顔向けが出来ないため、エリシア・ルノアールと手を組みました。彼女もまた、学校の現状を嘆いている一人でした。
始めはたった三人でしたが、少しずつ理解をしてくれる仲間が集まっています。
みんなと共に、クインシード王立学校を元に戻す事に力を尽くしています。
いいえ。語弊がありました。
貴族も平民も、純血も混血も関係なく、国の未来を担う生徒を育成するための学び舎となるよう、私達の代で変えていきたいと思います。
マシェリー様のせっかくの誕生日にこのような堅い話をしてしまい申し訳ございません。
改めて。
誕生日おめでとうございます。
貴女がお戻りになる事を祈って。
ミナルゼ・スピアード』
『親愛なるマシェリー様
誕生日おめでとうございます。
祝うべき日にこのような手紙だけとなってしまう事をお許しください。
中央広場に出ていたお店で『ビリャの卵』という面白い物を見つけたので同封しようと思ったのですが、マシェリーが驚くからやめなさいとミナルゼに止められてしまいました。
これが面白い仕掛けをしていて、封を開けると勢いよく袋が震えるのです。
思わず袋を落としてしまい、エリシアに笑われてしまいました。
この手紙を書きながら、楽しかった日々を思い出して、切ない思いでいっぱいになります。
エリシアが命を狙われる事になった一端は、彼女の校内での行動にあると聞きました。
だけどそれを煽ったのも私達自身だったのですね。
私は自分の身を守るために必死で、そのような事にも気付けませんでした。
ミナルゼやエリシアと共に街に遊びに出かける事が最近増えました。
市場は見た事のない異国のものが多くあり、私達は何故これほど素晴らしいものを知りもせず毛嫌いし続けたのか、疑問に思ってしまいました。
なんて、実は前から異国のものには興味を持っていましたが、ずっと打ち明けられずにいました。だからマシェリーがあの日どれほどの緊張や恐怖を強いられたかはよく分かります。
あの時味方になっていれば、未来は変わっていたのでしょうか。
弱音ばかり言ってごめんなさい。
毎日忙しいけれど、その中で不意に物足りなさを感じてしまう事が多々あります。マシェリーが今この場にいたら。何度そう考えたか分かりません。
エスキオラ家の汚名がそそがれ、マシェリーが戻って来る日を心から願っております。
もちろん私だってそのための協力は惜しみません。
再び会える日を祈って。
オリビア・チェスキー』
友人の綴る、真摯な言葉。
今の私にはあまりにも眩しくて。込み上げるのは、惨めさと、後悔だった。
私は彼女達の綴る言葉の全てから目を逸らして、そのくせ燃やす事も出来ず、ベッドの下で埃被った鞄の奥底にしまい込んだ。
その後に開いたグランツの手紙は、誕生日を祝う言葉と、彼の身に起こったちょっとした話。そして私を恋う言葉だけで。
波立った心が少しだけ落ち着いた。




