仰げば尊し
願はくば
花の下にて春死なん
その如月の望月のころ
先生はゆっくりと短歌を詠み上げた。発せられた日本語は、うすい色をした先生の唇の位置から高度を変えず、半開きの私の唇にまで届いた。
一音一音、私は噛み締めた。先生は目を閉じ、開き、潤んだ瞳で中空を見つめた。唇と同じくらい淡い、頬の朱の上を一筋の涙が伝った。
みんな先生の涙に気付いていたけれど、誰も何も言わなかった。私と同じく、みんな先生を見ていた。彼女の細い指先が、顔にかかった髪と涙を払うのを。
この人が好きだと、その時気付いた。
気付き、始まり、それから、終わり。
全部いっぺんに訪れた。
「余談ですが、私と奥さんの間には子どもがいないんです」
紺色をした先生の声。いつの間にか私も泣いていた。先生はきっと気付いていない。先生の、先生による詩歌の鑑賞。私は耳を澄ませる。
「だから、夫婦二人きりなんです。とても仲がいいんですよ。どうだーってくらい、仲が良くて。それで、二人で話すんです。死ぬときは一緒に死のうねって。
それはできたら夜がいい。奥さんと幸せな一日を過ごして、二人で最後の晩酌をして、ほろ酔いでね、お外に出るんです。
どこか小高い丘の、満開の桜の上には、満月が見える。きっと小さな満月です。控えめな、まん丸な、私の奥さんみたいな。
花と満月を眺めながら、桜の下に二人でゆっくり仰向けになるんです。手を繋いで。
それで、いっしょに、死んでしまえたら、どんなに幸せなことでしょう」
私は想像した。
冷たい夜の春風が、先生と奥さんの身体から均等に体温を奪ってゆく。二人同時に冷たくなるように、桜の花弁を月に巻き上げながら。
同じくらいの身長の、同じくらいの胸の膨らみ。頭の先から足の甲まで、先生達の身体には桜の花が降り注ぐ。けれどかたく繋いだ指の隙間にだけは、薄紅のひとひらすら入り込まずに。
――そして、私の中にも風が吹く。
開いてしまった私の蕾が、嵐に晒されて喘いでいる。
先生は女の人同士で結婚している。今時珍しいことではないけれど、先生の世代で、それをカミングアウトしている人は少ない。
先生はよく奥さんの話をする。自分たちのことをおばあさんたち、と言うこともある。今年でご引退される年齢だから、おばあさんと言うには早いと思う。先生は綺麗だ。まっすぐ伸びた背筋、柔らかな物腰、落ち着いた声。
先生が私の担任として教壇に立った三年前のあの日から、私はずっと先生に憧れていた。
さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張つて居ります
文化祭で、合唱曲を決めているときだった。
「先生はどんな歌が好きですか」
候補の曲を先生にも一つ挙げてもらおうと思ったのだろう、誰かが尋ねた質問に、先生は少し悩むそぶりを見せ、いたずらっぽい笑顔で宮沢賢治のその詩を諳んじた。
教室の温度が少しだけ上がった気がした。一番後ろの席だった私は、きれいに並ぶセーラー服の白い襟に、燃えるような虹を見た。
憧れだと思っていた。だから、誰にでも言えた。
「私はあのおばあちゃん先生が好き。あんな素敵な人に何十年も愛されて、きっと奥さんは幸せだろうな」
どの先生が好きか、と言われて、私は深く考えずにそう答えた。にやにや笑いとともに返ってきた言葉は、私を少しばかり動揺させた。
「へー、あなたもレズビアンだったの?」
瞬きほどの間、私は固まった。
「うん、そうなの」
そうだったの。
革命的な一言に、身震いするような衝撃を受けた。そうだったのだ。私は、女の人が好きなのだ。
打って変わって、友人はさして興味もなさそうに、知らなかったよ、と言って私から顔を背けた。
それでも、先生を、母親よりも歳上の人を、恋の対象として見ているわけではないと。
ことあるごとに先生の口から聞かされる奥さんへの愛の言葉に焦燥を感じたのは、私も、私のことをこんなに愛してくれる誰かに出会いたいと切に思ったからだと。
先生から目を逸らせないまま、自分の中にある花からは目を逸らした。
桜は実らない。
なのに、蕾は膨らんでいく。
咲いてしまったのだ、三年かけて。
「今日はどんな歌を詠んで下さるのかな」
そう隣の席に話し掛けていたのは、いつも先生の授業で眠そうにしている子だった。
先生が教壇に立つ最後のとき、私達を見送り、自らも教鞭を置く最後のホームルーム。
いつものように姿勢良く現れた先生は、私達に向かってにっこりと微笑んだ。
起立、礼。
みんな長い時間頭を下げた。
「門出の日にこんな歌を、と思わないでちょうだいね」
そう前置いて、先生はその歌を詠んだ。死、という単語の入った、でも奇妙に明るく、静謐で、淡々とした歌を。
余談ですが、といういつもの言葉から奥さんへの愛を語り、そのいつも通りさがかえって切なかった。
私、この人が好きだ。叶わなくとも、実らなくとも、この人が好きだ。
(先生)
例えば、この沈黙の間に、手を挙げて、みんなの前で打ち明けてみたら。
三年間待ち続けた私の春は、芽吹いてくれるとでもいうのだろうか。
涙も拭かないまま、私は自分の席に座っていた。黙って、一人で、一人の先生の生徒として。
「皆さんに、謝らないといけないことがあるんです」
先生は教え子の顔を一人ずつ見ていた。私と目が合うと、にっこり笑って、次の生徒を見た。
「三年間、嘘をついていてごめんなさい。いつ打ち明けようと思っていて、結局今日まで来てしまいました。
……先生の奥さんね、あなた達が入学する少し前に亡くなってるんです。
意味のない嘘でした。けれど、私と奥さんが出会ったこの学校で、あの頃と同じ制服を着ている皆さんに、私の好きな歌を紹介するとき、奥さんが、皆さんの中に、目の前に……いるような気がして」
桜の花の満開の下。
先生は微笑んでいた。
「ごめんなさいね、こんな自分勝手な話。でも、あなた達は私にとって一番愛しいものと同じなの。子どもがいないからというわけじゃないけれど、みんなのこと、自分の子どもみたいな、大切な宝物だと思っています。
卒業おめでとう。
どうか幸せな人生を、送ってください。
あなた達の行く先に、愛が満ちていますように。……」
帰り道に、私は先生の後ろ姿を見つけた。
小さい、細い背中だった。
一番愛しい人に語るつもりで、私達に授業をしていた先生。悲しい歌には涙ぐみ、優しい歌には微笑んで、日本語の素晴らしさを私に教えてくれた、大好きな人。
その公私混同を、私は責める気にはなれなかった。
十年後、二十年後、先生を思い出して、ひどい教師だったと思うだろうか。たぶん、無理だ。
だって幸せだった。先生が私達の中に奥さんを見て、私は先生から奥さんへの愛を授業に見て。
私は、この人の奥さんになりたかったんじゃない。
願わくば。
私は桜になりたい。
最後の瞬間、先生と奥さんが手を取り合って空を見上げたとき、ああ、いい生徒達を育てたね、と頬を綻ばせてくれる、綺麗な花に。
「……先生!」
心の嵐は止んでいた。私は一歩踏み出し、先生を呼んだ。
「あら、そんなに走ると転びますよ」
駆け寄ると、先生は赤い目を細めて私をたしなめた。
すみません、と会釈をして、私も笑う。
「私の好きな歌、聞いてくれませんか」
蕾を開くように、と言うほど華やかではないけれど。
先生のために私は口を開く。
この歌はあなたのための歌なのだ。
おもえば、いととし、ああ本当に。
おしまい