8 それは食べ物ではありません
その文字なら読めますよ。赤べこよろしくコクコクと首を縦に振ると、黒髪の美少年は少しホッとしたように胸を押さえた。
『僕の名前はクラウディス・ルナガルデ。君は誰? どうしてここにいるの?』
深い赤色をした革の手帳と、オニキスとオパールが埋め込まれた美しい万年筆を差し出され、私は困ってしまった。うーむ……昨日も思ったのだけれど『魔術師・騎士・王族・貴族・宗教』の五つにはあまり近寄りたくない。にもかかわらず、目の前にいる彼は『魔術師・貴族』の二つの条件を満たしてしまっている気がするんだよね。
しかし、彼には助けてもらった恩があるし、まだ子どものようだし、なにより少し人恋しくなりかけてたというのもある。こんな筆記用具が自宅にあったら日用品じゃなくて観賞用にしていたなぁなどと考えながら、恐る恐る個人情報を開示した。
『アルテミシアです。昨日、気がついたらこの森にいました』
……うん、こうやって書いてみると不審者だね!
しかし、彼は疑わしそうにするのではなく、心配そうな表情を見せた。
『この森には凶暴な魔物が出現するから危ないよ』
まもの。魔物……って、モンスター?
と思考停止しかけたところで、目の前にいる彼が昨日大怪我を負っていたことに思い至る。
『怪我、大丈夫なの!?』
見たところ、普通に動いているようだけれど。ていうか、あなたの方こそどうしてここにいるんですか。
しかし彼は質問に答えず、次の質問を提示してきた。
『ここに来る前はどこにいたの?』
答えにくい問題だ。なにせこの世界に来たのは昨日のことだし。だからといって「異世界から転生してきちゃった」なんて言おうものなら確実に頭がおかしい子だよね。困った。
クラウディス君は一向に答えない私に、何か事情があるのかと思ったらしい。
『ここはボクの隠れ家で、魔力の結界が張ってあるから盗聴の心配はない。誰かに連れ去られてこの森に来たのであれば、送ってあげることが出来る。教会から逃げ出してきたのであれば、もっと安全なところに逃がしてあげることも出来るのだけれど』
教会?
またNGワードが一つでてきたよ。何故私が教会から逃げ出してきたと思ったのだろう。それに、どう考えても権力を持っていそうな発言内容だ。
そういえば先ほど背負われていたときに、唇が彼に触れたような気がする。もしかすると鑑定できるかもしれない。
人間相手にするのは初めてなので緊張したけれど、じっと美少年を見つめ……意識を研ぎ澄ます。知りたいと強く願い、目を閉じると、彼が何事が呟いたのが聞こえた。
【ステータス】
名前 クラウディス・ルナガルデ(=エルファーレン・セインロード)
種族 エルフ
職業 学生・宮廷魔術師団員
体力 56/107
魔力 630/873
性別 男
スキル 賢者の加護、???、???、???、???
備考 ???
相変わらずのゲーム表記に驚きつつも、一番驚いたのは魔力の量だ。さっき10上がって喜んでいた私が恥ずかしい。桁が違うじゃないか! しかも賢者の加護とか、何気に格好良くない……か? 効能効果は分かりませんが、パッシブ(受動)スキルっぽいし。
そして無視できないのが『種族:エルフ』ということろだ。ファンタジーだねぇ。耳がとんがっているのかと思ったけれど、見た目は普通なのかな。
などと、和んでいる場合ではない。意外にも通用しちゃった鑑定スキルだったけれど、欲しかった情報が手に入ってないではないか。いったい彼が何者なのか、そこが知りたいのだけれど……名前を知ったところで、王族なのか、貴族なのか、平民なのかすら分からないのでは意味がない。
まあ、彼が名乗った名前が嘘ではないと分かった以上、申し出が誠意に基づいたものだったと信じてもいいかなとは思う。
「エルファーレン・セインロード?」
それにしたって、この( )内にあるのは誰の名前だろうか? と、相手に聞こえないよう、唇だけ動かしてみた。
勿論のことながら、音は発せられなかったはずだった。
しかし、それは呪文のように周囲を凍りつかせた。
目の前の美少年の雰囲気が一気に変わる。まるでピシッとこの空間が氷付けにされたかのような肌寒さに震え、心臓が押しつぶされそうになるが、逃げ出そうにも体が動かない。
あれ? その名前は禁忌? 真名? ……黒歴史?
ブルブル震える私にクラウディス君……いや、クラウディス様は近づき、ニッコリと笑った。
いやいやいや、目が笑ってませんから! 綺麗ですけれど、至近距離では勘弁して欲しいですから!
何か話しかけられるけれど言葉が分からず、首を横に振る。なんか怖い。まじで怖い。子どもだと侮っていた私、今すぐ謝れ。どう考えても私の方が弱いですよね、すいません。なんか、プライバシー覗いちゃったみたいでごめんなさい。
一歩、彼が近づく。
一歩、私が後ずさる。
そんな一進一退を繰り返すも、あっという間に壁際まで追い詰められてしまう。生まれたての小鹿のように震える私の前で、彼は小さく口を開けた……と思ったら、
カプリと耳に噛み付かれた。
「っみっぎゃあああああああああああああああ!」
恐慌状態。もう、まさにそれ!
甘噛みだとかそんなこたぁ関係ない。食べられるかと思いました。主にカニバリズム(食人習慣)的な意味で。
もうこの世界嫌だ、怖い……。
みるみるうちに血の気が引き、涙目になってしまうが、ぐっとこらえる。
食われる前に反撃だ!
何とか力を振り絞って両腕を前に出す。触れる前に、すぐ近くにあった体温がすっと離れるのが分かった。そして、頭を撫でられた。
……なんだろう、この「もう注射は終わったからね、痛くないよ。よしよし」みたいな雰囲気は!
警戒心むき出しの猫のように見つめていると、彼はベッドの上に投げ出された筆記用具を手に取り、何事か書く。
『ごめんね。ちょっと魔法をかけたから。嘘をつくと……』
ガタガタ震えながら神妙な面持ちで文面を見守る私に向かって、クラウディス様はニッコリ笑った。
あああ、きっと爆発するんですね。魔法っていうよりも呪いじゃないか!!!
『嘘をつかなければ大丈夫。手荒な真似もしないから、質問に答えて』
うん、キリキリ個人情報を吐きましたとも。
年齢、性別、種族、スキル、鑑定スキルを使ったことから水筒強奪まで洗いざらいな!
容赦ない質問の嵐に、最後の方はペンを持つ右腕が痛かったです。証言内容が残る分、口頭尋問より性質が悪いよね。