一、
草内航は、舞台の世界では知らない者はいない有名な舞台作家である。
悲劇の脚本を書かせたら右に出るものはなく、幾度も大衆を感動の渦に巻き込んだ。
漆のような透き通る黒の髪に何もかもを知り尽くしているような鋭い光を放つ瞳を持ち、その端麗な容姿に、作品だけでなく彼自身に関心があるファンも少なくない。
さらに俳優としての声もかかりはじめている航は、今とてもいい波に乗っていた。
そんな航だったが、ここ数日間原因不明の激しいスランプに陥っていた。
明日新作の打ち合わせだと言うのに、何一つ案が浮かんでいないだけでなく、食事すら億劫になるほどの重症さに航は自身の事でありながら理解出来なかった。
陰鬱な午後。がらくた、資料、漫画、雑誌の散らかった部屋を見渡して、航は深いため息をもらす。
とにもかくにも設定だけでも何かしら搾りださなくては、と航は眉間にシワをよせ手近にあった雑誌を手に取った。
『二泊三日で行く、いい湯の旅』
そう記載された表紙を見て、ぼんやりと航は思う。
「温泉か……最後に行ったのは……小学生の時だったな」
古い記憶をさかのぼり、今から14年前を思い出す。
小学校6年生になりたての春先、家族で旅行に行ったのはあとにも先にもこの一度きり。
幼い頃の思い出だが、航は鮮明に思い出すことができた。
父の手に引かれて初めて旅館を見上げたあの時の感覚が、なんとも不思議だったこと。そびえ立つ城のような立派な外観。名前はもう覚えていないが、とても美しかったこと。女将さんが美人で子供ながらにときめいたこと。
懐かしい思いに浸りながら、航はぱらぱらとページをめくっていく。
数ページを適当に眺めているうちに、航は次第に本気で温泉旅行に行きたくなっていた。
「ここ、いいな」
明日の打ち合わせの事などすっかり忘れ、航は手帳を取出し、すぐさま予定を確認すると目星をつけた旅館に電話を掛けた。