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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

不確定要素が多すぎる

作者: 邏廻回
掲載日:2026/05/09

一部に残酷な表現を含みます。ご注意ください。


 すべては、完璧だった。


 「はい、これ。飲み物、忘れたんだろ」

 休み時間のチャイムが鳴り終わるのとほぼ同時に、僕はカバンから冷えたペットボトルを取り出し、結華の机に置いた。

「え……? あ、ありがとう。ちょうど買いに行こうと思ってたんだけれど。……でも、どうして私が忘れたって分かったのかしら?」

「顔を見れば分かるよ。喉が渇いてる時の顔だ」

 嘘だ。前のルートで、彼女が「あ、水筒忘れた」と呟いて自動販売機へ向かったのを確認している。

 そこから逆算して、僕はあらかじめ彼女の好きな銘柄を、最高のタイミングで差し出せるよう準備していただけだ。


「……あ」

 結華が、飲みかけのペットボトルを机の端に置こうとして、わずかに指を滑らせる。

 それが床に落ちるより速く、僕の手は、まるであらかじめそこにあったかのように、ボトルを下から支えていた。

「おっと。危ないよ」

「え……あ、ありがとう。すごい反応速度ね」

「たまたまだよ」

 たまたまなわけがない。これが十七回目だ。


 窓から差し込む陽光の角度、揺れるカーテンの隙間から見える校庭の風景。そのすべてが、僕の脳内にある「正解の記録」と寸分違わず重なっている。

 

「ねえ、昨日のテレビ見た? あの芸人の……」

「ああ、あの唐揚げを丸呑みしようとして失敗したやつだろ。面白かったな」

「……ええ、そう。よく分かったわね、私がそれ言おうとしたの」

「まあ、幼馴染だし」

 嘘だ。本当は、最初の五回は別の番組の話をして、彼女の反応が一番良かったのが今の話題だっただけだ。


 会話は淀みなく流れる。結華は心地よさそうに笑い、僕たちの間には一点の曇りもない、至福の時間が流れている……はずだった。

(よし。これで、今日も壊れずに済んだ)

 僕は指先で、ポケットの中にある「見えないスイッチ」を、愛おしむように撫でた。


「ねえ」

 不意に、結華が会話を止めた。

「……どうしたんだよ」

 僕が完璧な笑みで問い返すと、彼女の瞳が、凍りついたように僕を射抜いた。


「今の、……何?」

「何って?」

「……気持ち悪い」


 彼女が、自分の腕をさするようにして、椅子を引いた。

「今の会話も、そのペットボトルも。……さっきからおかしいわ。まるであなたが、私を動かしているみたい。私が次に何を言うか、どのタイミングで喉が渇くか、どこで手を滑らせるか……全部知っていて、先回りして、私が驚いたり困ったりする隙間を、無理やり埋めて回ってる」

「……考えすぎだよ、結華」

「考えすぎじゃないわ。あなたは私のことを見てるんじゃなくて、私の『次の動作』を監視してる。……それに、さっきから一回も目が合ってないわよ。あなたは私の瞳じゃなくて、私の指先や、呼吸のタイミングばっかり見てる」


(ボロは出していない。完璧だった。計算通りだ。なのに、どうして――)


「今の、あなたの目……。まるで、目の前にいる私を、見ていないみたい」


 その一言が、僕が築き上げた「完璧な一日」という城壁を、粉々に砕いた。


 彼女の、震える声。

 それは、僕を責めるものではなく、もっと深い、底知れぬ恐怖に突き動かされた、拒絶に近い響きだった。

 

 僕は、言葉を失った。

 どれほど完璧に、どれほど丁寧に、因果を書き換えてきたとしても、彼女という「他者」の、その鋭敏な魂まで、制御することはできなかったのだ。


 ――もう、隠し通すことは、不可能だ。

 この「完璧な日常」という名の、薄氷のような虚飾を、これ以上維持することは。


「…………」


 僕は、視線を落とした。

 手元で、震える指先が、あの日、彼女を失ったあの忌まわしい記憶を、鮮烈に呼び起こしていく。

 血の匂い、ひしゃげる音、動かなくなった彼女の体。


「……僕は、……」


 喉の奥が、焼けるように熱い。

 僕は、絞り出すように、その「呪い」を、彼女に打ち明けた。

 やり直せる能力があること。

 彼女を失うたびに、時間を巻き戻し、不都合な現実を、すべて「なかったこと」にしてきたこと。

 この、完璧すぎる一日の裏側に、どれほどの、凄惨な「失敗」の記憶が、積み重なっているのかを。


 ……語り終えた後、教室を支配したのは、息が詰まるような沈黙だった。

 結華は真っ白な顔で、自分の指を白くなるまで握りしめている。

 

 やがて、彼女は立ち上がると、震える手で僕の胸元を強く掴んだ。逃がさないように、逃げ出さないように。


「……信じるわ。あなたが、そんなにボロボロな顔をしてるんだから」


 彼女は、泣いていなかった。ただ、逃がさないように、僕を見ていた。


「いい。これがルールよ。……これからは、絶対にやり直さないこと。失敗しても、喧嘩しても、気まずい沈黙が流れても、全部、そのままにしておくこと」


 彼女の指が、僕の胸を突き刺すように強くなる。


「間違えて、傷ついて、後悔して……そうやって、私と一緒に、ただの一回きりの時間を、泥臭く生きなさいよ」


 それは、僕というシステムを「人間」へと繋ぎ止めるための、あまりに過酷で、慈悲深いリハビリテーションの始まりだった。




 登校路の、いつもの角。

 見慣れた街路樹が、朝の光を透かして、淡い緑の影をアスファルトに落としている。


 以前の僕にとって、この場所は「舞台の幕が上がる直前」のような、高揚感に満ちた空間だった。

 僕は、彼女がいつ、どの歩幅で、どんな表情を浮かべて角を曲がってくるかを、秒単位で把握していた。彼女が家の玄関を出るタイミング、信号待ちでふと振り返る刹那、そして、僕の目の前で弾ける、あの無垢な笑顔。

 すべての因果を計算し、完璧なタイミングで「おはよう」と声をかける。

 それは、僕が設計した、一点の曇りもない「完璧な台本」だった。


 けれど、今は。


 ……いつ、来る。


 僕は、ただ立ち尽くし、刻一刻と過ぎていく時間を、震える指先で数えることしかできない。

 彼女の歩みが、一分、二分と遅れるたびに、僕の脳内では、制御不能な「不吉なシミュレーション」が、濁流のように溢れ出していく。


(もし、ここで彼女が躓いたら?)

(もし、向こうから来る自転車が、彼女の進路を塞いだら?)

(もし、彼女が僕の存在に気づかず、そのまま通り過ぎていってしまったら?)


 「やり直しのスイッチ」を封印してから、僕は「待つ」という行為ができなくなっていた。

 次に何が起こるか分からない。それだけで、喉の奥がじわりと熱くなる。

 視界の端で揺れる木の葉の音さえ、何かの破滅の予兆のように聞こえて、心臓の鼓動が、耳の奥で嫌な音を立てて鳴り響く。


 背後の気配に、身体が跳ね上がる。

 不意に、耳元で、弾けるような声がした。


「わっ!」


 背後から、結華が僕の背中を軽く叩いた。

 驚きで、身体が硬直する。肺の空気が一瞬で押し出され、喉の奥が引き攣るような、激しい動悸が襲う。


「……あ、……おはよう、結華」


 僕は、掠れた声で、必死に平静を装いながら答えた。

 結華は、僕の動揺など露ほども知らない様子で、いたずらっぽく笑っている。その瞳には、何の警戒心も、何の打算も、何の「死の予兆」も宿っていない。ただ、純粋に、僕を驚かせたことを楽しんでいる、無防備な輝きがあるだけだ。


「ふふ、驚いた? 今日は少し遅れてしまったわ。……でも、ちょうどいいタイミングで捕まえられたようね」


 彼女は、楽しげに僕の隣に並び、軽やかな足取りで歩き出す。

 結華は、悪戯が成功した子供みたいに笑っている。

 なのに僕の心臓だけが、まだ止まりそうなほど暴れていた。

 

 彼女の自由な一歩が、僕の予測を、僕の設計を、軽々と踏み越えていく。

 彼女が「人間らしく」振る舞えば振る舞うほど、予測不能な「不確定要素」が増えていく。

 僕は、彼女の行動に振り回される、無力な観客に成り下がってしまった。


 彼女の隣を歩きながら、僕は、ポケットの中の「スイッチ」を、思わず強く握りしめてしまう。

 この、予測できない、いつ壊れるかも分からない、あまりにも危うい「自由」を、今すぐ、僕の管理下にある「正着」へと書き換えてしまいたい。


 ……けれど、僕は、それを、止める。

 震える指先を、誰にも見えないように、強く、強く、押し殺して。




 体育館には、熱を帯びた空気が充満していた。

 体育館シューズが床を擦る高い音、突き刺さるようなホイッスルの音、そして、全力で駆け回る生徒たちの荒い息遣い。

 球技大会に向けた合同体育。男女混合バレーのコートは、生命力に溢れた、眩しいほどに「生」を感じさせる光景だった。


 けれど、僕だけは、その奔流の中で一人、窒息しそうなほどの圧迫感に包まれていた。

 ネットの向こうから放たれたサーブが、放物線を描いてこちらへ落ちてくる。レシーブされたボールが、高く、僕の頭上へと上がった。


(……トスだ。僕が、彼女に上げる)


 目の前で、結華が助走を始める。彼女の黒い髪が、激しい動きに合わせて弾むように揺れる。

 僕の脳内には、かつて「完璧な形」として刻まれていた、シミュレーションが即座に展開される。

 結華がもっとも打ちやすく、もっとも美しくスパイクを叩き込める、一点の曇りもない軌道。指先の角度、ボールの回転数、跳躍のタイミング。すべてが、僕の管理下にある「完璧な振付」として、目の前に展開される。


 ――けれど。


 指先が、わずかに、滑った。


 ボールが指に触れた、コンマ数秒の瞬間。

 手首の角度が、ほんの数ミリ、僕の想定した「正解」から逸れた。

 放たれたボールは、結華の打点よりも低く――。


 ――ボトッ。


 ボールがネットの白帯を叩き、自陣へ力なく転がった。

 その、取るに足らない乾いた音が、僕の脳内では、世界がひび割れる音として響き渡った。


(……やり直したい)


 指先が、ポケットの中の「スイッチ」を求めて、無意識に痙攣する。

 時間を巻き戻して手首の角度を修正できれば、この不格好な綻びを消し去り、完璧な軌道を取り戻せるのに。指先は、目の前の汚れた現実を、美しい完成図へと書き換える機会を、狂ったように求めていた。


「どんまいどんまい! 次、一本いこうぜ!」


 背後から、あまりに軽やかな、屈託のない声が飛んでくる。


「ごめん結華、今のトス低かったね」 「いいえ、私の方こそごめんなさい。次は絶対に決めるわ」


 結華は明るく笑い、僕の肩を軽く叩く。

 彼女たちにとって、これは単なる、授業中の取るに足らない「エラー」に過ぎない。

 けれど、一度刻まれた失敗は、僕の現実を汚れたままに留め、消えない傷跡として、僕の心臓を狂わせ続けていた。


 ……狂いそうだ。


 僕は、震える呼吸を隠すように、強く、自分の喉を、手で押さえた。



 放課後の図書室。

 窓から差し込む西日は、舞い上がる埃の粒子を黄金色に輝かせ、穏やかな静寂を教室に投げかけている。

 向かい合って座る結華は、真剣な表情でノートにペンを走らせていた。時折、集中しすぎたせいか、小さく鼻歌を漏らすこともある。

 その、あまりにも「普通」で、平和な光景。

 僕は、自分が手に入れた「成功」を、指先で確かめるように、何度も何度も噛み締めていた。

 やり直しのスイッチを封印し、この「一回きりの、傷つく可能性のある日常」を、守り抜いているのだという、歪な充足感。


 ……けれど。


 ――カラン、と。


 隣の席の生徒が、ペンケースからペンを落とした。

 その、乾いた、取るに足らないプラスチックの音が、僕の鼓膜を刺した瞬間。


 視界が、剥がれ落ちた。


(……っ!)


 一瞬、世界の色彩が、鮮血のような赤に塗りつぶされる。

 目の前の、穏やかにペンを拾い上げる結華の背後に、あの、ひしゃげたフロントガラスの残骸と、アスファルトに散らばった、赤い花びらのような、彼女の……。


 ――ガシャッ、という、金属がひしゃげる音。

 ――キィィィ、と、鼓膜を切り裂くような、タイヤの摩擦音。

 ――鼻腔を突く、鉄錆の匂い。


 図書室の静寂は、瞬時にして、あの忌まわしい事故現場の「音」へと書き換えられていく。

 目の前の結華の背中が、動かなくなった彼女の、冷たく白い、あの背中に重なって消えない。

 西日の色が、事故の直後に見た空の色と、重なった。


「……ねえ、聞いてる? さっきから返事がないのだけれど」


 結華の声。

 それは、地獄の底から響くような、あの鈍い衝撃音から、僕を強引に現実へと引き戻した。

 僕は、異常なほどに激しく脈打つ心臓を、必死に抑え込む。

 視界の端では、まだ、あの「死んだ彼女」の残像が、ノイズのように明滅している。


「……ああ。ごめん、ちょっと考え事をしていて」


 結華は、いたずらっぽく笑う。

 その笑顔は、完璧なはずだった。

 なのに、僕の網膜には、笑っている結華の顔に、白いシーツの感触だけが、ちらつく。


(……消したい。戻したくない。思い出したくない)


 脳の奥底で、理性が悲鳴を上げる。

 今、指先を、あの「スイッチ」に触れさせればいい。

 この、言いようのない不安も、この、彼女の笑顔の裏に潜む死の予兆も、すべて「なかったこと」にできる。

 この、静寂を切り裂く不穏な裂け目を、消し去ることができる。


 右手の指先が、無意識のうちに、ポケットの中の「見えないスイッチ」を、獲物を狙う獣のように、痙攣するように求めて動く。

 指先が、勝手にスイッチを探してしまう。


(……ダメだ。ルールを、破るわけにはいかない)


 僕は、自分の爪が掌に食い込むほど、強く拳を握りしめた。

 冷や汗が、背中を伝う。

 結華が、少しだけ、不審そうに僕の顔を覗き込んだ。


「……あなた、顔色が悪いわよ? また無理してるんじゃない?」


 彼女の、その「心配」さえも、今の僕には、鋭い刃のように感じられた。

 彼女は、知らないのだ。

 彼女の「日常」を維持するために、僕がどれほど、惨憺たる記憶の残骸を、一人で抱え込んでいるのかを。


 彼女は、ただの、一人の人間として、今を生きている。

 けれど、僕だけが、彼女の「死」を知っている。何度も、何度も。僕の記憶の中でだけ。


「……なんでもないよ。ちょっと、寝不足なだけだ」


 僕は、精一杯の、完璧な嘘をついた。

 目の前の結華は、それ以上、何も追求せずに、再びノートへと視線を戻した。


 ……よし。

 これで、今日も、壊れずに済んだ。


 僕は、震える指先を、ポケットの奥深く、暗い闇の中へと、強引に押し込んだ。

 窓の外では、夕暮れが、ゆっくりと、街を血のような朱色に染め始めていた。



 夕闇が、街の輪郭をぼやけさせていく。

 街灯が灯り始めた帰り道、僕たちの足音は、静かな住宅街に規則正しく響いていた。


 けれど、僕の意識は、決して「今」にはなかった。

 視界の端、横断歩道の向こう側から、大型のトラックがゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってくるのが見える。信号はまだ、赤だ。車は止まるはずだ。ブレーキの摩擦音も、タイヤが路面を捉える感触も、すべては予測の範囲内にあるはずだった。


 ――なのに。


(もし、このタイミングで、信号の制御が故障したら?)

(もし、運転手が、一瞬のあくびのために、ブレーキを遅らせたら?)

(もし、彼女が、僕の予測を裏切るような、無謀な一歩を踏み出したら?)


 脳内の「最悪のシミュレーション」が、止まらない。

 僕は、無意識のうちに、結華と車道の間に、自身の身体を割り込ませていた。彼女の細い手首を、あるいは制armの袖を、まるで、今にも消えてしまいそうな命を繋ぎ止めるかのような、強すぎる力で、後ろへと引き寄せた。


「……っ、一体、何をするのよ」


 結華が、驚きと、不快感を露わにして僕の手を振り払おうとする。

 僕は、荒い呼吸を隠せないまま、彼女を背後に隠すように、車道を見つめたまま声を絞り出した。


「……危ないだろ。もし、車が突っ込んできたら……」


 防衛本能。あるいは、自分自身への言い訳。

 僕は、彼女を守っているのだ。不確かな未来から、予測不能な「事故」から、彼女を。


 けれど、僕の言葉を遮ったのは、結華の、ひどく冷ややかな、突き放すような声だった。


「……過保護すぎるわよ。……ねえ、あなたは、私を守っているつもりかもしれないけど」


 彼女は、一歩、僕から距離を取った。

 街灯の淡い光が、彼女の瞳に、深い、底知れない影を落としている。


「今の私には、あなたが……私を、檻に閉じ込めようとしているみたいに見えるわ」


「……なんだよ、それ」


「あなたが、私を『安全な場所』に閉じ込めて、動けなくしようとしている。……私が、間違えることも、傷つくことも、予測できないことが、そんなに怖いの?」


 心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

 言い返せなかった。


 僕は、彼女の「自由」を恐れているのだ。

 彼女が、自分の意思で、予測不能な一歩を踏み出し、その結果として、僕の知らない「痛み」を抱えることを、耐えられないのだ。


 本当に怖かったのが、車なのか、結華なのか。もう、自分でも分からなかった。

 僕が描き出した設計図から彼女が逸脱し、僕の知らない痛みや、僕の予測できない悲しみを背負う瞬間、僕が築き上げた「完璧な世界」は崩壊してしまう。


 僕は、彼女の安全を守るという大義名分を掲げながら、その実、彼女の意志を、僕の掌の中に閉じ込めようとしている。彼女を、僕の書き換えた「正解」という名の、見えない檻の中に。


「……っ」


 僕は、唇を噛み締める。

 街灯の下、アスファルトに伸びる僕たちの影は、まるで引き裂かれるように、バラバラな方向へと、長く、寂しく、伸びていた。


 彼女は、自由な、どこまでも自由な、一人の人間として、そこに立っている。

 結華は、いつでも僕の知らない方向へ歩いていける。


 その当たり前のことが、どうしようもなく、怖かった。


 二人とも、それ以上何も言えなかった。


 何も、答えられなかった。ただ、街灯に照らされた彼女の瞳が、ひどく遠い場所を見つめているように見えた。


 その気まずい沈黙を、打ち破ったのは、彼女の、努めて軽い、どこか自分に言い聞かせるような声だった。


「……ねえ。今週末、どこか行かない?」

「え?」

「あなた、最近ずっと顔色悪いし。……リハビリ。普通の高校生ごっこでもしましょうよ」


 彼女は、まるで朝の挨拶でもするかのように、不自然な明るさを装った。

 僕は戸惑う。

 僕にとって「予定外の外出」とは、計算不可能な変数が入り込む、制御不能な危険地帯そのものだった。


 けれど、彼女は止まらない。僕の動揺を、見透かしたような視線を向けて。


「今回は、“完璧なデート”は禁止ね」

「……は?」

「行き先も細かく決めない。行列があったら並ぶし、迷ったら迷う。失敗しても、そのまま。……いい?」


 彼女は、僕に「正解」を求めないことを、条件として突きつけてきた。

 効率の悪さ、無駄な時間、予期せぬトラブル。それらすべてを、彼女は「人間らしさ」と呼ぼうとしていた。


 僕は、返答できなかった。

 ただ、彼女の、強がりのような、けれど切実な瞳を見つめ返すことしかできなかった。


 ――けれど、翌日。

 僕は結局、その約束の場所へと向かってしまっていた。


 待ち合わせ場所は、駅前。

 僕は、予定時刻の三十分前から到着していた。


 本来なら、僕はここで「最適な合流タイミング」を計算しているはずだった。

 電車の遅延、人混みの密度、結華の歩行速度、駅出口の混雑状況。すべてを予測し、彼女が現れた瞬間に、最も自然で、最も完璧なタイミングで声をかける。


 だが、今は、それをしない。

 ただ、待つ。


 それだけで、胃の奥が、鉛のように重く、軋む。

 視界に入るすべてが、不確定な、制御不能な、いつ壊れるか分からない「エラー」の塊に見えた。


 結華は、予定より七分遅れて現れた。


「ごめん、乗り換え間違えた」

「……そう」

「何その顔。たった七分で、世界が終わったみたいな顔してるじゃない」


 彼女は、いたずらっぽく笑う。

 僕は、笑えない。

 この七分間に、どれだけの「死のシミュレーション」が僕の脳内を駆け抜けたか、彼女には知る由もない。


 二人は、駅前の喫茶店に入った。

 結華はメニューを眺めながら、楽しそうに、けれど、どこか迷うように呟く。


「どうしようかなぁ。期間限定にするか、定番にするか……」

「……早く決めた方がいい」

「だから、そういうのよ」


 彼女は、苦笑した。


「あなた、“迷う時間”を無駄だと思ってるでしょ」

「……」

「でも私は、この時間、けっこう好きよ」


 僕は理解できない。

 最適解が存在するなら、そこへ最短距離で到達すべきなのだ。

 けれど、彼女は「悩む」という、非効率で無意味な過程そのものを、慈しむように味わっていた。

 そこで僕は、初めて気づかされる。自分が「過程」を、いかに切り捨てて生きてきたのかを。


 流れで立ち寄った、ゲームセンター。

 結華が唐突に、対戦ゲームを始めようと言い出した。


 僕は、無意識に「勝つための最適行動」を積み重ねる。相手の癖を読み、最小限の動きで、最短の勝利を掴み取る。

 けれど、結華は、コントローラーを置き、不満そうに頬を膨らませた。


「……それ、楽しい?」

「勝っただろ」

「“勝つためだけ”なら、CPUと変わらないじゃない」


 その言葉が、僕の胸を、鋭い棘のように刺した。

 僕は、言葉に詰まる。


 ――そのあと、僕は。

 わざとではなく、本当に、操作をミスした。

 ジャンプを誤り、キャラクターが画面外へと落下していく。敗北。


 すると、結華は、なぜかさっきよりずっと楽しそうに、声を上げて笑った。


「あはは! 今のひどい!」

「……」

「でも、今の方が“あなたと遊んでる”感じがする」


 僕の胸に、小さな、けれど消えない違和感が残る。

 完璧ではない、綻びのある時間の方が、彼女は、あんなに嬉しそうだった。


 ……意味が分からなかった。

 負けたのに。

 ミスしたのに。

 なのに。


 気づけば、自分まで笑っていた。


 帰り道。

 結華はクレープを食べながら、楽しそうに歩いている。

 途中でクリームを口元につけ、僕に笑われ、不満そうに睨み返す。


 その、どうでもいい、些細な、取るに足らないやり取り。

 失敗しても、壊れない、予定のない時間。


 僕は、一瞬だけ、「こういうのでよかったのかもしれない」と思いかける。

 けれど、同時に、強烈な、逃げ場のない恐怖が芽生えていた。


 この幸福は、完璧に管理されていない。

 つまり――いつ、どこで、どんな風に、壊れてしまうか分からないのだ。


 結華が楽しそうであればあるほど、僕の不安は、逆説的に、増大していく。


 ――そして、その日は、やってきた。



 翌日。

 僕は、前日の外出で、ほんの少しだけ、「普通」に希望を抱き始めていた。

 完璧ではない時間でも、彼女は笑ってくれるのだと。

 だからこそ。


 待ち合わせ場所に、結華が現れないことが、僕の精神を致命的に破壊した。


 十分。

 二十分。

 三十分。


 連絡は、つかない。


 僕の脳内では、「昨日の笑顔」が、「死んだ結華」の映像へと、急速に、凄惨に反転していく。

 あの角を曲がったあと、車が。

 階段から。

 通り魔が。

 心停止が。

 誘拐が。


 しかも今回は、「楽しかった記憶」が、直前にある。

 だから、より一層、壊れる。

 幸福だった時間が、そのまま、彼女を失う恐怖の、燃料になってしまうのだ。


 四十分後。

 ようやく現れた結華は、服の袖を少し、汚していた。


「……ごめん、ちょっと遅れた」


 彼女は、どこか疲れたように言った。

 僕は、理由を知る由もない。ただ、目の前の彼女が、生きて、そこにいるという事実に、呼吸を忘れるほど圧倒されていた。


 けれど、安堵は、すぐに、抑えきれない「怒り」へと変わった。


「なんで連絡しなかった!」

「……え?」

「どれだけ心配したと思ってるんだ……! また死んだんじゃないかって……!」


 僕は、叫んでいた。

 彼女の袖の汚れも、その表情も、見ようともせずに。


 結華は、静かに、僕を見つめた。

 その瞳には、驚きを通り越した、深い、深い、悲しみがあった。


「……私は、死んでない。迷子を見つけたら、交番まで送っていただけよ」


 彼女は、スマホの充電が切れていたのだと、淡々と説明した。

 彼女は、目の前の困っている子供を、見捨てることができなかった。

 彼女は、僕の「予定」よりも、目の前の「人間」を優先したのだ。


 僕は、息を荒くしたまま、何も言えなかった。


 すると、結華は、決定的な、残酷な一言を口にした。


「ねえ。あなたは、“私が生きてること”より、“私が予定通りに動くこと”の方が大事なの?」


 思考が、停止する。


「あなたが怒っているのは、今ここにいる私に対してじゃない。あなたの頭の中にある、“死んだ私のデータ”に怯えているだけでしょ」


 その言葉は、僕の心を、深く、深く、抉った。

 僕は、彼女を守るために、彼女を、自分の「正解」という名の、生きた死体へと作り替えていたのだ。


 最悪の空気。

 取り返しのつかない沈黙。


 僕の脳内では、「この会話を修正したい」という衝動が、狂ったように暴走し始める。

 もっと優しく言えた。

 怒鳴らなければよかった。

 今なら、まだ、間に合う。

 巻き戻せば。

 やり直せば。


 指先が、無意識に、ポケットの中の「スイッチ」へと伸びる。


 その瞬間。


 結華が、僕の手を、強く、強く、掴んだ。


「……今、逃げようとしたでしょ」


 彼女の声は、静かだった。

 けれど、泣きそうなほど、震えていた。


「消さないで」


 彼女は、僕の瞳を、逃げ場を奪うように、真っ直ぐに見つめる。


「私たちがぶつかったことも、傷つけ合ったことも、全部なかったことにしないで」


 僕は、息を呑む。


「もし今、それを無かったことにしたら……私は一生、あなたの『正解のルート』の中でしか生きられなくなる」


 彼女は、自らの意志を、僕の支配に、抗うように、叫ぶ。


「お願いだから、間違えたままの私を許して。……それと……間違えてしまう、あなた自身も」


 ――……沈黙の中で、遠くを走る車の音だけが、やけに鮮明に聞こえた。

 握られた手が、震えている。

 それが、自分なのか、結華なのか、もう分からなかった。


 僕は、その瞬間、初めて理解した。


 守りたかったんじゃない。

 彼女が壊れる瞬間を見るのが、耐えられなかっただけだ。


――最悪の空気だ。

 取り返しのつかない、鋭い言葉の残響が、二人の間に重く、淀んだ沈黙として降り積もっている。

 今なら、まだ、間に合う。巻き戻せば、やり直せば。

 指先が、無意識のうちに、ポケットの中の「スイッチ」を求めて、痙攣するように震えた。


けれど。

 僕は、指先を、ポケットから引き抜いた。

 スイッチには、触れなかった。


目の前には、まだ、解消されない怒りと、拭いきれない傷跡がある。

 僕は、震える唇を噛み締め、絞り出すような声を、彼女へと投げた。

「……ごめん」


そして、震える手で、結華の、その汚れた袖を、そっと、掴み返した。


「……どうしたの、急に」


 結華は、顔を上げずに、低く、突き放すような声で言った。

 彼女の瞳には、まだ怒りと、拭いきれない傷跡が、暗い影のように宿っている。


「……謝って、済むことじゃないって、分かってる。……でも、……」


 僕は、言葉を継ぐことができなかった。

 傷つけた事実は消えない。怒りを、その痛みさえも、今の僕には、どうしようもないほどに重く、受け止めることしかできなかった。


 僕たちは、しばらくの間、ただ、立ち尽くしていた。

 街の喧騒が、遠い世界の出来事のように、ぼやけて聞こえる。

 

「……やっぱり、ごめん。自分でも、整理しきれない」

「……最悪な、気分だ」


 僕は、自分自身に対して、そしてこの、あまりにも不甲斐ない状況に対して、吐き捨てるように呟いた。


「……そうね」


 結華が、わずかに、本当にわずかに、視線を僕の方へと向けた。

 その瞳には、まだ、隠しきれない拒絶の残滓があった。けれど、それは同時に、僕という人間を、拒絶しながらも、見捨てていないという、微かな、抗いようのない「生」の証でもあった。


「……でも、これが……『普通』の人間なのよ」


 彼女は、自嘲気味に、けれど、どこか強がりに似た響きで、そう言った。


 僕たちの前には、依然として、不確定で、予測不能な、恐ろしいほどに「不確かな明日」が、暗い霧の向こうに広がっている。

 いつまた、最悪の事態が起こるか分からない。

 いつまた、僕たちが、取り返しのつかない過ちを犯すか、誰にも分からない。


 けれど、もう、僕たちの手元に、「セーブデータ」を上書きする魔法は残っていない。


 僕は、結華の、傷ついたままの、けれど確かにそこに存在する、その横顔を見つめる。

 

 バグやエラーを抱えたまま、書き換えられない痛みを、その手で抱えたまま。


続きが書きたい病を発症したので書きました。人によっては蛇足かも。

この話だけでも読めるようにしたつもりです。


楽しんでいただければ幸いです。

よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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