不確定要素が多すぎる
一部に残酷な表現を含みます。ご注意ください。
すべては、完璧だった。
「はい、これ。飲み物、忘れたんだろ」
休み時間のチャイムが鳴り終わるのとほぼ同時に、僕はカバンから冷えたペットボトルを取り出し、結華の机に置いた。
「え……? あ、ありがとう。ちょうど買いに行こうと思ってたんだけれど。……でも、どうして私が忘れたって分かったのかしら?」
「顔を見れば分かるよ。喉が渇いてる時の顔だ」
嘘だ。前のルートで、彼女が「あ、水筒忘れた」と呟いて自動販売機へ向かったのを確認している。
そこから逆算して、僕はあらかじめ彼女の好きな銘柄を、最高のタイミングで差し出せるよう準備していただけだ。
「……あ」
結華が、飲みかけのペットボトルを机の端に置こうとして、わずかに指を滑らせる。
それが床に落ちるより速く、僕の手は、まるであらかじめそこにあったかのように、ボトルを下から支えていた。
「おっと。危ないよ」
「え……あ、ありがとう。すごい反応速度ね」
「たまたまだよ」
たまたまなわけがない。これが十七回目だ。
窓から差し込む陽光の角度、揺れるカーテンの隙間から見える校庭の風景。そのすべてが、僕の脳内にある「正解の記録」と寸分違わず重なっている。
「ねえ、昨日のテレビ見た? あの芸人の……」
「ああ、あの唐揚げを丸呑みしようとして失敗したやつだろ。面白かったな」
「……ええ、そう。よく分かったわね、私がそれ言おうとしたの」
「まあ、幼馴染だし」
嘘だ。本当は、最初の五回は別の番組の話をして、彼女の反応が一番良かったのが今の話題だっただけだ。
会話は淀みなく流れる。結華は心地よさそうに笑い、僕たちの間には一点の曇りもない、至福の時間が流れている……はずだった。
(よし。これで、今日も壊れずに済んだ)
僕は指先で、ポケットの中にある「見えないスイッチ」を、愛おしむように撫でた。
「ねえ」
不意に、結華が会話を止めた。
「……どうしたんだよ」
僕が完璧な笑みで問い返すと、彼女の瞳が、凍りついたように僕を射抜いた。
「今の、……何?」
「何って?」
「……気持ち悪い」
彼女が、自分の腕をさするようにして、椅子を引いた。
「今の会話も、そのペットボトルも。……さっきからおかしいわ。まるであなたが、私を動かしているみたい。私が次に何を言うか、どのタイミングで喉が渇くか、どこで手を滑らせるか……全部知っていて、先回りして、私が驚いたり困ったりする隙間を、無理やり埋めて回ってる」
「……考えすぎだよ、結華」
「考えすぎじゃないわ。あなたは私のことを見てるんじゃなくて、私の『次の動作』を監視してる。……それに、さっきから一回も目が合ってないわよ。あなたは私の瞳じゃなくて、私の指先や、呼吸のタイミングばっかり見てる」
(ボロは出していない。完璧だった。計算通りだ。なのに、どうして――)
「今の、あなたの目……。まるで、目の前にいる私を、見ていないみたい」
その一言が、僕が築き上げた「完璧な一日」という城壁を、粉々に砕いた。
彼女の、震える声。
それは、僕を責めるものではなく、もっと深い、底知れぬ恐怖に突き動かされた、拒絶に近い響きだった。
僕は、言葉を失った。
どれほど完璧に、どれほど丁寧に、因果を書き換えてきたとしても、彼女という「他者」の、その鋭敏な魂まで、制御することはできなかったのだ。
――もう、隠し通すことは、不可能だ。
この「完璧な日常」という名の、薄氷のような虚飾を、これ以上維持することは。
「…………」
僕は、視線を落とした。
手元で、震える指先が、あの日、彼女を失ったあの忌まわしい記憶を、鮮烈に呼び起こしていく。
血の匂い、ひしゃげる音、動かなくなった彼女の体。
「……僕は、……」
喉の奥が、焼けるように熱い。
僕は、絞り出すように、その「呪い」を、彼女に打ち明けた。
やり直せる能力があること。
彼女を失うたびに、時間を巻き戻し、不都合な現実を、すべて「なかったこと」にしてきたこと。
この、完璧すぎる一日の裏側に、どれほどの、凄惨な「失敗」の記憶が、積み重なっているのかを。
……語り終えた後、教室を支配したのは、息が詰まるような沈黙だった。
結華は真っ白な顔で、自分の指を白くなるまで握りしめている。
やがて、彼女は立ち上がると、震える手で僕の胸元を強く掴んだ。逃がさないように、逃げ出さないように。
「……信じるわ。あなたが、そんなにボロボロな顔をしてるんだから」
彼女は、泣いていなかった。ただ、逃がさないように、僕を見ていた。
「いい。これがルールよ。……これからは、絶対にやり直さないこと。失敗しても、喧嘩しても、気まずい沈黙が流れても、全部、そのままにしておくこと」
彼女の指が、僕の胸を突き刺すように強くなる。
「間違えて、傷ついて、後悔して……そうやって、私と一緒に、ただの一回きりの時間を、泥臭く生きなさいよ」
それは、僕というシステムを「人間」へと繋ぎ止めるための、あまりに過酷で、慈悲深いリハビリテーションの始まりだった。
登校路の、いつもの角。
見慣れた街路樹が、朝の光を透かして、淡い緑の影をアスファルトに落としている。
以前の僕にとって、この場所は「舞台の幕が上がる直前」のような、高揚感に満ちた空間だった。
僕は、彼女がいつ、どの歩幅で、どんな表情を浮かべて角を曲がってくるかを、秒単位で把握していた。彼女が家の玄関を出るタイミング、信号待ちでふと振り返る刹那、そして、僕の目の前で弾ける、あの無垢な笑顔。
すべての因果を計算し、完璧なタイミングで「おはよう」と声をかける。
それは、僕が設計した、一点の曇りもない「完璧な台本」だった。
けれど、今は。
……いつ、来る。
僕は、ただ立ち尽くし、刻一刻と過ぎていく時間を、震える指先で数えることしかできない。
彼女の歩みが、一分、二分と遅れるたびに、僕の脳内では、制御不能な「不吉なシミュレーション」が、濁流のように溢れ出していく。
(もし、ここで彼女が躓いたら?)
(もし、向こうから来る自転車が、彼女の進路を塞いだら?)
(もし、彼女が僕の存在に気づかず、そのまま通り過ぎていってしまったら?)
「やり直しのスイッチ」を封印してから、僕は「待つ」という行為ができなくなっていた。
次に何が起こるか分からない。それだけで、喉の奥がじわりと熱くなる。
視界の端で揺れる木の葉の音さえ、何かの破滅の予兆のように聞こえて、心臓の鼓動が、耳の奥で嫌な音を立てて鳴り響く。
背後の気配に、身体が跳ね上がる。
不意に、耳元で、弾けるような声がした。
「わっ!」
背後から、結華が僕の背中を軽く叩いた。
驚きで、身体が硬直する。肺の空気が一瞬で押し出され、喉の奥が引き攣るような、激しい動悸が襲う。
「……あ、……おはよう、結華」
僕は、掠れた声で、必死に平静を装いながら答えた。
結華は、僕の動揺など露ほども知らない様子で、いたずらっぽく笑っている。その瞳には、何の警戒心も、何の打算も、何の「死の予兆」も宿っていない。ただ、純粋に、僕を驚かせたことを楽しんでいる、無防備な輝きがあるだけだ。
「ふふ、驚いた? 今日は少し遅れてしまったわ。……でも、ちょうどいいタイミングで捕まえられたようね」
彼女は、楽しげに僕の隣に並び、軽やかな足取りで歩き出す。
結華は、悪戯が成功した子供みたいに笑っている。
なのに僕の心臓だけが、まだ止まりそうなほど暴れていた。
彼女の自由な一歩が、僕の予測を、僕の設計を、軽々と踏み越えていく。
彼女が「人間らしく」振る舞えば振る舞うほど、予測不能な「不確定要素」が増えていく。
僕は、彼女の行動に振り回される、無力な観客に成り下がってしまった。
彼女の隣を歩きながら、僕は、ポケットの中の「スイッチ」を、思わず強く握りしめてしまう。
この、予測できない、いつ壊れるかも分からない、あまりにも危うい「自由」を、今すぐ、僕の管理下にある「正着」へと書き換えてしまいたい。
……けれど、僕は、それを、止める。
震える指先を、誰にも見えないように、強く、強く、押し殺して。
体育館には、熱を帯びた空気が充満していた。
体育館シューズが床を擦る高い音、突き刺さるようなホイッスルの音、そして、全力で駆け回る生徒たちの荒い息遣い。
球技大会に向けた合同体育。男女混合バレーのコートは、生命力に溢れた、眩しいほどに「生」を感じさせる光景だった。
けれど、僕だけは、その奔流の中で一人、窒息しそうなほどの圧迫感に包まれていた。
ネットの向こうから放たれたサーブが、放物線を描いてこちらへ落ちてくる。レシーブされたボールが、高く、僕の頭上へと上がった。
(……トスだ。僕が、彼女に上げる)
目の前で、結華が助走を始める。彼女の黒い髪が、激しい動きに合わせて弾むように揺れる。
僕の脳内には、かつて「完璧な形」として刻まれていた、シミュレーションが即座に展開される。
結華がもっとも打ちやすく、もっとも美しくスパイクを叩き込める、一点の曇りもない軌道。指先の角度、ボールの回転数、跳躍のタイミング。すべてが、僕の管理下にある「完璧な振付」として、目の前に展開される。
――けれど。
指先が、わずかに、滑った。
ボールが指に触れた、コンマ数秒の瞬間。
手首の角度が、ほんの数ミリ、僕の想定した「正解」から逸れた。
放たれたボールは、結華の打点よりも低く――。
――ボトッ。
ボールがネットの白帯を叩き、自陣へ力なく転がった。
その、取るに足らない乾いた音が、僕の脳内では、世界がひび割れる音として響き渡った。
(……やり直したい)
指先が、ポケットの中の「スイッチ」を求めて、無意識に痙攣する。
時間を巻き戻して手首の角度を修正できれば、この不格好な綻びを消し去り、完璧な軌道を取り戻せるのに。指先は、目の前の汚れた現実を、美しい完成図へと書き換える機会を、狂ったように求めていた。
「どんまいどんまい! 次、一本いこうぜ!」
背後から、あまりに軽やかな、屈託のない声が飛んでくる。
「ごめん結華、今のトス低かったね」 「いいえ、私の方こそごめんなさい。次は絶対に決めるわ」
結華は明るく笑い、僕の肩を軽く叩く。
彼女たちにとって、これは単なる、授業中の取るに足らない「エラー」に過ぎない。
けれど、一度刻まれた失敗は、僕の現実を汚れたままに留め、消えない傷跡として、僕の心臓を狂わせ続けていた。
……狂いそうだ。
僕は、震える呼吸を隠すように、強く、自分の喉を、手で押さえた。
放課後の図書室。
窓から差し込む西日は、舞い上がる埃の粒子を黄金色に輝かせ、穏やかな静寂を教室に投げかけている。
向かい合って座る結華は、真剣な表情でノートにペンを走らせていた。時折、集中しすぎたせいか、小さく鼻歌を漏らすこともある。
その、あまりにも「普通」で、平和な光景。
僕は、自分が手に入れた「成功」を、指先で確かめるように、何度も何度も噛み締めていた。
やり直しのスイッチを封印し、この「一回きりの、傷つく可能性のある日常」を、守り抜いているのだという、歪な充足感。
……けれど。
――カラン、と。
隣の席の生徒が、ペンケースからペンを落とした。
その、乾いた、取るに足らないプラスチックの音が、僕の鼓膜を刺した瞬間。
視界が、剥がれ落ちた。
(……っ!)
一瞬、世界の色彩が、鮮血のような赤に塗りつぶされる。
目の前の、穏やかにペンを拾い上げる結華の背後に、あの、ひしゃげたフロントガラスの残骸と、アスファルトに散らばった、赤い花びらのような、彼女の……。
――ガシャッ、という、金属がひしゃげる音。
――キィィィ、と、鼓膜を切り裂くような、タイヤの摩擦音。
――鼻腔を突く、鉄錆の匂い。
図書室の静寂は、瞬時にして、あの忌まわしい事故現場の「音」へと書き換えられていく。
目の前の結華の背中が、動かなくなった彼女の、冷たく白い、あの背中に重なって消えない。
西日の色が、事故の直後に見た空の色と、重なった。
「……ねえ、聞いてる? さっきから返事がないのだけれど」
結華の声。
それは、地獄の底から響くような、あの鈍い衝撃音から、僕を強引に現実へと引き戻した。
僕は、異常なほどに激しく脈打つ心臓を、必死に抑え込む。
視界の端では、まだ、あの「死んだ彼女」の残像が、ノイズのように明滅している。
「……ああ。ごめん、ちょっと考え事をしていて」
結華は、いたずらっぽく笑う。
その笑顔は、完璧なはずだった。
なのに、僕の網膜には、笑っている結華の顔に、白いシーツの感触だけが、ちらつく。
(……消したい。戻したくない。思い出したくない)
脳の奥底で、理性が悲鳴を上げる。
今、指先を、あの「スイッチ」に触れさせればいい。
この、言いようのない不安も、この、彼女の笑顔の裏に潜む死の予兆も、すべて「なかったこと」にできる。
この、静寂を切り裂く不穏な裂け目を、消し去ることができる。
右手の指先が、無意識のうちに、ポケットの中の「見えないスイッチ」を、獲物を狙う獣のように、痙攣するように求めて動く。
指先が、勝手にスイッチを探してしまう。
(……ダメだ。ルールを、破るわけにはいかない)
僕は、自分の爪が掌に食い込むほど、強く拳を握りしめた。
冷や汗が、背中を伝う。
結華が、少しだけ、不審そうに僕の顔を覗き込んだ。
「……あなた、顔色が悪いわよ? また無理してるんじゃない?」
彼女の、その「心配」さえも、今の僕には、鋭い刃のように感じられた。
彼女は、知らないのだ。
彼女の「日常」を維持するために、僕がどれほど、惨憺たる記憶の残骸を、一人で抱え込んでいるのかを。
彼女は、ただの、一人の人間として、今を生きている。
けれど、僕だけが、彼女の「死」を知っている。何度も、何度も。僕の記憶の中でだけ。
「……なんでもないよ。ちょっと、寝不足なだけだ」
僕は、精一杯の、完璧な嘘をついた。
目の前の結華は、それ以上、何も追求せずに、再びノートへと視線を戻した。
……よし。
これで、今日も、壊れずに済んだ。
僕は、震える指先を、ポケットの奥深く、暗い闇の中へと、強引に押し込んだ。
窓の外では、夕暮れが、ゆっくりと、街を血のような朱色に染め始めていた。
夕闇が、街の輪郭をぼやけさせていく。
街灯が灯り始めた帰り道、僕たちの足音は、静かな住宅街に規則正しく響いていた。
けれど、僕の意識は、決して「今」にはなかった。
視界の端、横断歩道の向こう側から、大型のトラックがゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってくるのが見える。信号はまだ、赤だ。車は止まるはずだ。ブレーキの摩擦音も、タイヤが路面を捉える感触も、すべては予測の範囲内にあるはずだった。
――なのに。
(もし、このタイミングで、信号の制御が故障したら?)
(もし、運転手が、一瞬のあくびのために、ブレーキを遅らせたら?)
(もし、彼女が、僕の予測を裏切るような、無謀な一歩を踏み出したら?)
脳内の「最悪のシミュレーション」が、止まらない。
僕は、無意識のうちに、結華と車道の間に、自身の身体を割り込ませていた。彼女の細い手首を、あるいは制armの袖を、まるで、今にも消えてしまいそうな命を繋ぎ止めるかのような、強すぎる力で、後ろへと引き寄せた。
「……っ、一体、何をするのよ」
結華が、驚きと、不快感を露わにして僕の手を振り払おうとする。
僕は、荒い呼吸を隠せないまま、彼女を背後に隠すように、車道を見つめたまま声を絞り出した。
「……危ないだろ。もし、車が突っ込んできたら……」
防衛本能。あるいは、自分自身への言い訳。
僕は、彼女を守っているのだ。不確かな未来から、予測不能な「事故」から、彼女を。
けれど、僕の言葉を遮ったのは、結華の、ひどく冷ややかな、突き放すような声だった。
「……過保護すぎるわよ。……ねえ、あなたは、私を守っているつもりかもしれないけど」
彼女は、一歩、僕から距離を取った。
街灯の淡い光が、彼女の瞳に、深い、底知れない影を落としている。
「今の私には、あなたが……私を、檻に閉じ込めようとしているみたいに見えるわ」
「……なんだよ、それ」
「あなたが、私を『安全な場所』に閉じ込めて、動けなくしようとしている。……私が、間違えることも、傷つくことも、予測できないことが、そんなに怖いの?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
言い返せなかった。
僕は、彼女の「自由」を恐れているのだ。
彼女が、自分の意思で、予測不能な一歩を踏み出し、その結果として、僕の知らない「痛み」を抱えることを、耐えられないのだ。
本当に怖かったのが、車なのか、結華なのか。もう、自分でも分からなかった。
僕が描き出した設計図から彼女が逸脱し、僕の知らない痛みや、僕の予測できない悲しみを背負う瞬間、僕が築き上げた「完璧な世界」は崩壊してしまう。
僕は、彼女の安全を守るという大義名分を掲げながら、その実、彼女の意志を、僕の掌の中に閉じ込めようとしている。彼女を、僕の書き換えた「正解」という名の、見えない檻の中に。
「……っ」
僕は、唇を噛み締める。
街灯の下、アスファルトに伸びる僕たちの影は、まるで引き裂かれるように、バラバラな方向へと、長く、寂しく、伸びていた。
彼女は、自由な、どこまでも自由な、一人の人間として、そこに立っている。
結華は、いつでも僕の知らない方向へ歩いていける。
その当たり前のことが、どうしようもなく、怖かった。
二人とも、それ以上何も言えなかった。
何も、答えられなかった。ただ、街灯に照らされた彼女の瞳が、ひどく遠い場所を見つめているように見えた。
その気まずい沈黙を、打ち破ったのは、彼女の、努めて軽い、どこか自分に言い聞かせるような声だった。
「……ねえ。今週末、どこか行かない?」
「え?」
「あなた、最近ずっと顔色悪いし。……リハビリ。普通の高校生ごっこでもしましょうよ」
彼女は、まるで朝の挨拶でもするかのように、不自然な明るさを装った。
僕は戸惑う。
僕にとって「予定外の外出」とは、計算不可能な変数が入り込む、制御不能な危険地帯そのものだった。
けれど、彼女は止まらない。僕の動揺を、見透かしたような視線を向けて。
「今回は、“完璧なデート”は禁止ね」
「……は?」
「行き先も細かく決めない。行列があったら並ぶし、迷ったら迷う。失敗しても、そのまま。……いい?」
彼女は、僕に「正解」を求めないことを、条件として突きつけてきた。
効率の悪さ、無駄な時間、予期せぬトラブル。それらすべてを、彼女は「人間らしさ」と呼ぼうとしていた。
僕は、返答できなかった。
ただ、彼女の、強がりのような、けれど切実な瞳を見つめ返すことしかできなかった。
――けれど、翌日。
僕は結局、その約束の場所へと向かってしまっていた。
待ち合わせ場所は、駅前。
僕は、予定時刻の三十分前から到着していた。
本来なら、僕はここで「最適な合流タイミング」を計算しているはずだった。
電車の遅延、人混みの密度、結華の歩行速度、駅出口の混雑状況。すべてを予測し、彼女が現れた瞬間に、最も自然で、最も完璧なタイミングで声をかける。
だが、今は、それをしない。
ただ、待つ。
それだけで、胃の奥が、鉛のように重く、軋む。
視界に入るすべてが、不確定な、制御不能な、いつ壊れるか分からない「エラー」の塊に見えた。
結華は、予定より七分遅れて現れた。
「ごめん、乗り換え間違えた」
「……そう」
「何その顔。たった七分で、世界が終わったみたいな顔してるじゃない」
彼女は、いたずらっぽく笑う。
僕は、笑えない。
この七分間に、どれだけの「死のシミュレーション」が僕の脳内を駆け抜けたか、彼女には知る由もない。
二人は、駅前の喫茶店に入った。
結華はメニューを眺めながら、楽しそうに、けれど、どこか迷うように呟く。
「どうしようかなぁ。期間限定にするか、定番にするか……」
「……早く決めた方がいい」
「だから、そういうのよ」
彼女は、苦笑した。
「あなた、“迷う時間”を無駄だと思ってるでしょ」
「……」
「でも私は、この時間、けっこう好きよ」
僕は理解できない。
最適解が存在するなら、そこへ最短距離で到達すべきなのだ。
けれど、彼女は「悩む」という、非効率で無意味な過程そのものを、慈しむように味わっていた。
そこで僕は、初めて気づかされる。自分が「過程」を、いかに切り捨てて生きてきたのかを。
流れで立ち寄った、ゲームセンター。
結華が唐突に、対戦ゲームを始めようと言い出した。
僕は、無意識に「勝つための最適行動」を積み重ねる。相手の癖を読み、最小限の動きで、最短の勝利を掴み取る。
けれど、結華は、コントローラーを置き、不満そうに頬を膨らませた。
「……それ、楽しい?」
「勝っただろ」
「“勝つためだけ”なら、CPUと変わらないじゃない」
その言葉が、僕の胸を、鋭い棘のように刺した。
僕は、言葉に詰まる。
――そのあと、僕は。
わざとではなく、本当に、操作をミスした。
ジャンプを誤り、キャラクターが画面外へと落下していく。敗北。
すると、結華は、なぜかさっきよりずっと楽しそうに、声を上げて笑った。
「あはは! 今のひどい!」
「……」
「でも、今の方が“あなたと遊んでる”感じがする」
僕の胸に、小さな、けれど消えない違和感が残る。
完璧ではない、綻びのある時間の方が、彼女は、あんなに嬉しそうだった。
……意味が分からなかった。
負けたのに。
ミスしたのに。
なのに。
気づけば、自分まで笑っていた。
帰り道。
結華はクレープを食べながら、楽しそうに歩いている。
途中でクリームを口元につけ、僕に笑われ、不満そうに睨み返す。
その、どうでもいい、些細な、取るに足らないやり取り。
失敗しても、壊れない、予定のない時間。
僕は、一瞬だけ、「こういうのでよかったのかもしれない」と思いかける。
けれど、同時に、強烈な、逃げ場のない恐怖が芽生えていた。
この幸福は、完璧に管理されていない。
つまり――いつ、どこで、どんな風に、壊れてしまうか分からないのだ。
結華が楽しそうであればあるほど、僕の不安は、逆説的に、増大していく。
――そして、その日は、やってきた。
翌日。
僕は、前日の外出で、ほんの少しだけ、「普通」に希望を抱き始めていた。
完璧ではない時間でも、彼女は笑ってくれるのだと。
だからこそ。
待ち合わせ場所に、結華が現れないことが、僕の精神を致命的に破壊した。
十分。
二十分。
三十分。
連絡は、つかない。
僕の脳内では、「昨日の笑顔」が、「死んだ結華」の映像へと、急速に、凄惨に反転していく。
あの角を曲がったあと、車が。
階段から。
通り魔が。
心停止が。
誘拐が。
しかも今回は、「楽しかった記憶」が、直前にある。
だから、より一層、壊れる。
幸福だった時間が、そのまま、彼女を失う恐怖の、燃料になってしまうのだ。
四十分後。
ようやく現れた結華は、服の袖を少し、汚していた。
「……ごめん、ちょっと遅れた」
彼女は、どこか疲れたように言った。
僕は、理由を知る由もない。ただ、目の前の彼女が、生きて、そこにいるという事実に、呼吸を忘れるほど圧倒されていた。
けれど、安堵は、すぐに、抑えきれない「怒り」へと変わった。
「なんで連絡しなかった!」
「……え?」
「どれだけ心配したと思ってるんだ……! また死んだんじゃないかって……!」
僕は、叫んでいた。
彼女の袖の汚れも、その表情も、見ようともせずに。
結華は、静かに、僕を見つめた。
その瞳には、驚きを通り越した、深い、深い、悲しみがあった。
「……私は、死んでない。迷子を見つけたら、交番まで送っていただけよ」
彼女は、スマホの充電が切れていたのだと、淡々と説明した。
彼女は、目の前の困っている子供を、見捨てることができなかった。
彼女は、僕の「予定」よりも、目の前の「人間」を優先したのだ。
僕は、息を荒くしたまま、何も言えなかった。
すると、結華は、決定的な、残酷な一言を口にした。
「ねえ。あなたは、“私が生きてること”より、“私が予定通りに動くこと”の方が大事なの?」
思考が、停止する。
「あなたが怒っているのは、今ここにいる私に対してじゃない。あなたの頭の中にある、“死んだ私のデータ”に怯えているだけでしょ」
その言葉は、僕の心を、深く、深く、抉った。
僕は、彼女を守るために、彼女を、自分の「正解」という名の、生きた死体へと作り替えていたのだ。
最悪の空気。
取り返しのつかない沈黙。
僕の脳内では、「この会話を修正したい」という衝動が、狂ったように暴走し始める。
もっと優しく言えた。
怒鳴らなければよかった。
今なら、まだ、間に合う。
巻き戻せば。
やり直せば。
指先が、無意識に、ポケットの中の「スイッチ」へと伸びる。
その瞬間。
結華が、僕の手を、強く、強く、掴んだ。
「……今、逃げようとしたでしょ」
彼女の声は、静かだった。
けれど、泣きそうなほど、震えていた。
「消さないで」
彼女は、僕の瞳を、逃げ場を奪うように、真っ直ぐに見つめる。
「私たちがぶつかったことも、傷つけ合ったことも、全部なかったことにしないで」
僕は、息を呑む。
「もし今、それを無かったことにしたら……私は一生、あなたの『正解のルート』の中でしか生きられなくなる」
彼女は、自らの意志を、僕の支配に、抗うように、叫ぶ。
「お願いだから、間違えたままの私を許して。……それと……間違えてしまう、あなた自身も」
――……沈黙の中で、遠くを走る車の音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
握られた手が、震えている。
それが、自分なのか、結華なのか、もう分からなかった。
僕は、その瞬間、初めて理解した。
守りたかったんじゃない。
彼女が壊れる瞬間を見るのが、耐えられなかっただけだ。
――最悪の空気だ。
取り返しのつかない、鋭い言葉の残響が、二人の間に重く、淀んだ沈黙として降り積もっている。
今なら、まだ、間に合う。巻き戻せば、やり直せば。
指先が、無意識のうちに、ポケットの中の「スイッチ」を求めて、痙攣するように震えた。
けれど。
僕は、指先を、ポケットから引き抜いた。
スイッチには、触れなかった。
目の前には、まだ、解消されない怒りと、拭いきれない傷跡がある。
僕は、震える唇を噛み締め、絞り出すような声を、彼女へと投げた。
「……ごめん」
そして、震える手で、結華の、その汚れた袖を、そっと、掴み返した。
「……どうしたの、急に」
結華は、顔を上げずに、低く、突き放すような声で言った。
彼女の瞳には、まだ怒りと、拭いきれない傷跡が、暗い影のように宿っている。
「……謝って、済むことじゃないって、分かってる。……でも、……」
僕は、言葉を継ぐことができなかった。
傷つけた事実は消えない。怒りを、その痛みさえも、今の僕には、どうしようもないほどに重く、受け止めることしかできなかった。
僕たちは、しばらくの間、ただ、立ち尽くしていた。
街の喧騒が、遠い世界の出来事のように、ぼやけて聞こえる。
「……やっぱり、ごめん。自分でも、整理しきれない」
「……最悪な、気分だ」
僕は、自分自身に対して、そしてこの、あまりにも不甲斐ない状況に対して、吐き捨てるように呟いた。
「……そうね」
結華が、わずかに、本当にわずかに、視線を僕の方へと向けた。
その瞳には、まだ、隠しきれない拒絶の残滓があった。けれど、それは同時に、僕という人間を、拒絶しながらも、見捨てていないという、微かな、抗いようのない「生」の証でもあった。
「……でも、これが……『普通』の人間なのよ」
彼女は、自嘲気味に、けれど、どこか強がりに似た響きで、そう言った。
僕たちの前には、依然として、不確定で、予測不能な、恐ろしいほどに「不確かな明日」が、暗い霧の向こうに広がっている。
いつまた、最悪の事態が起こるか分からない。
いつまた、僕たちが、取り返しのつかない過ちを犯すか、誰にも分からない。
けれど、もう、僕たちの手元に、「セーブデータ」を上書きする魔法は残っていない。
僕は、結華の、傷ついたままの、けれど確かにそこに存在する、その横顔を見つめる。
バグやエラーを抱えたまま、書き換えられない痛みを、その手で抱えたまま。
続きが書きたい病を発症したので書きました。人によっては蛇足かも。
この話だけでも読めるようにしたつもりです。
楽しんでいただければ幸いです。
よろしければ、何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。




