第九話 適性なし
「ヒロ・ローレン」
名前が呼ばれた。
ヒロは静かに壇上へと歩いた。
段差を一段上がる。
目の前に、透明な水晶が置かれていた。
普段は無色透明で、静かにそこにある。
ヒロはその前に立って、水晶をまっすぐに見つめた。
(頼む)
胸の中で、もう一度そう思った。
何色でもいい。
どの属性でも、一つでもいい。
ちゃんと光ってくれ。
ヒロは水晶に両手を当てた。
冷たかった。
透明な球体の表面が、掌にひんやりと触れる。
ヒロは目を閉じた。
体の中に意識を向けた。
魔力回路を意識して。
その中に流れているものを、外に押し出すイメージで。
三年間、本で読んで頭に入れてきた手順を、丁寧になぞった。
一秒。
二秒。
三秒。
何も起きなかった。
(焦るな。もっと集中して)
ヒロは息を整えた。
もう一度、体の内側に意識を沈めた。
魔力回路を探す。
流れを感じようとする。
でも。
何も、なかった。
回路があるはずの場所に、何も感じない。
流れているはずのものが、流れていない。
押し出そうとしても、押し出せるものが、ない。
五秒。
十秒。
水晶は、透明なままだった。
光の欠片も、ない。
広間が静かになっていくのを、ヒロはどこか遠くで感じていた。
検定官が水晶を確認した。
もう一度確認した。
それから、低い声で告げた。
「……魔法適性、なし」
「魔力の発現、確認できず」
広間の空気が、変わった。
ざわめきとも、沈黙とも取れない、奇妙な静けさが漂った。
ヒロは水晶から手を離した。
自分の掌を見た。
何も変わっていない。
普通の、八歳の子供の手だった。
記憶が、ぼんやりとしていた。
壇上を降りてから、その後のことをヒロはあまりはっきりと覚えていない。
検定官が何かを言った気がする。
ガリウスとエリナが駆け寄ってきた気がする。
セナが何か言おうとして、でも言葉を見つけられずに黙っていた気がする。
会場を出てから、屋敷に帰るまでの道のりも、よく覚えていない。
ただ、空が青かったことだけは、妙にはっきりと覚えていた。
嫌になるくらい、青かった。
自分の部屋に戻って、扉を閉めた。
ベッドの端に腰掛けた。
本棚を見た。
六十冊を超える本が、整然と並んでいた。
魔法概論。
属性魔法の基礎。
魔力回路の仕組み。
魔法陣入門。
戦闘魔法の理論。
魔物の生態書。
ヒロは一冊一冊の背表紙を、目で辿った。
全部読んだ。
全部、頭に入っている。
属性ごとの特性も、魔法陣の構造も、魔力回路の仕組みも。
三年間かけて、全部知った。
全部、知った。
なのに。
魔力は、出なかった。
適性は、なかった。
(あんなに、勉強したのに)
その言葉が、頭の中に浮かんだ瞬間、ヒロの目の奥が熱くなった。
五歳の朝から、本を読み始めた。
毎日走った。
体幹を鍛えた。
腕立て伏せを数えた。
セナと一緒に庭を走った。
魔法が使えるようになったら、と思い続けながら、全部やってきた。
(魔法が使えたら、絶対にヒーローになれると思ってた)
前世でできなかったことを、今度はちゃんとやれると思っていた。
スキルもある。
知識もある。
あとは魔法さえ使えれば、と。
そう、ずっと信じていた。
なのに。
(魔法適性、なし)
検定官の声が、頭の中で繰り返された。
魔力の発現、確認できず。
当たり前のように皆が持っているものが、自分にはない。
この世界では魔法を持たない方が稀だと言っていた。
三年間読んできた本には、適性なしの子供が出ることは極めて少ないと書いてあった。
极めて少ない。
その極めて少ない方に、自分が入った。
ヒロの目から、涙が流れた。
拭おうとしたが、止まらなかった。
(なんで)
声に出したつもりはなかったが、唇が動いた。
(なんで、俺だけ)
前世でもそうだった。
消防士になれなかった。
警察官になれなかった。
何度も何度も、届きそうで届かなかった。
それでも諦めないで、この世界に転生してきて。
三年間、こつこつと積み上げてきて。
なのにまた、ここでも。
(あんなに頑張ったのに)
その言葉が頭の中で弾けた瞬間、嗚咽が漏れた。
八歳の体は、大人の意志よりも先に泣き崩れた。
ヒロはベッドに突っ伏して、顔を枕に押し付けて、声を殺して泣いた。
前世の記憶がある三十二歳の魂が、八歳の体を震わせながら、泣いた。
格好悪かった。
情けなかった。
でも、止められなかった。
五歳の朝に初めて本を開いたときのこと。
夜遅くまで魔法陣の図を睨んでいたこと。
セナに魔力収束のことを説明したこと。
水晶に手を当てた瞬間のあの冷たさ。
そして、何も光らなかった透明な水晶。
全部が、波のように押し寄せてきた。
どれだけ泣いたのかわからない。
窓の外の光が、少し傾いてきた頃。
ヒロはようやく、泣き止んだ。
目が熱かった。
頭が重かった。
体の力が、全部抜けたようだった。
ヒロは天井を見上げた。
(……これで終わりじゃない)
そう思おうとした。
でも、その言葉はまだ、うまく信じられなかった。
今夜は、まだそれでいいと思った。
今夜だけは、泣いても許してほしいと、誰にともなく思った。
前世で三十二年間、ヒーローになれなかった。
そして今世でも、またひとつ、道が閉じた。
窓の外には、あの青い空があった。
もうすぐ夕暮れで、青が橙に変わりかけていた。
ヒロはしばらく、その色が変わっていくのを、ぼんやりと眺めていた。
翌朝、ヒロは朝食の席に座れなかった。
食欲がなかったわけではない。
ただ、食堂に向かう廊下を歩いていたとき、厨房の方から使用人たちの声が聞こえてきて、足が止まった。
「……やっぱり、適性なしだったんですね」
「信じられない。あれだけ本を読んで鍛錬もして……」
「魔力が出ないというのは、生まれつきのことですから。勉強量とは関係ないですよ」
「でもそれにしても……ローレン家のご長男がまさかね」
声はそこで途切れた。
誰かが気づいて、話を止めたのだろう。
ヒロは踵を返して、自分の部屋に戻った。
結局その日の朝食は、マリアが部屋まで持ってきてくれたパンとスープだけだった。
三日間、ヒロはほとんど部屋から出なかった。
本を開こうとしても、文字が頭に入ってこない。
庭に出て走ろうとしても、体が動かなかった。
正確には動かせないわけではない。
ただ、動かす理由が見つからなかった。
三年間、魔法を使えるようになるためにやってきた。
その前提が崩れた今、何のために走るのかが、わからなかった。
スキルの画面を開いても、見る気になれなかった。
【身体強化 Lv.18】
【成長 Lv.6】
数字は変わっていない。
でも今は、その数字が何を意味するのかが、ひどく遠く感じた。
(魔法が使えない体が、いくら鍛えても)
そこまで考えて、ヒロは目を閉じた。
窓から差し込む光が、部屋の中を静かに照らしていた。
三日目の夕方、扉をノックする音がした。
「ヒロ」
ガリウスの声だった。
「……入っていいか」
「うん」
扉が開いて、ガリウスが入ってきた。
背の高い父親が、部屋の中をざっと見回した。
散らかってはいない。
ただ、本棚もベッドも、全てが三日前と同じ場所に同じままある。
ヒロがほとんど動いていないことは、見ればわかった。
ガリウスは何も言わずに、ベッドの端に腰を下ろした。
ヒロの隣に、肩が触れるくらいの距離で。
しばらく、ふたりとも何も言わなかった。
部屋の空気が静かに漂った。
やがてガリウスが、口を開いた。
「実は父さんも、ほとんど魔法が使えないんだ」
ヒロは少し顔を上げた。
「知ってる?」
「……え」
「父さんは一属性しか持っていない。しかもその一属性も、火種ひとつ起こせないくらい微量だ。実質的には、使えないのと同じだよ」
ヒロは黙って父親の顔を見た。
ガリウスは遠くを見るような目をしていた。
「だから商人になった。魔法が使えないなら、別の得意なことをやればいいと思って。荷物を運んで、人と話して、信頼を積み上げる。それで今がある」
「……それは、魔法が弱いだけで、適性がないわけじゃない」
ヒロが静かに言った。
ガリウスは少しだけ笑った。
「そうだな。お前の方が、ずっと状況は厳しい。父さんの話と一緒にするのは違うかもしれない」
「……」
「でも」
ガリウスが、ヒロの肩に手を置いた。
大きくて、温かい手だった。
「お前がヒロであることは、何も変わらない」
その言葉が、静かに部屋に落ちた。
「魔法の適性がどうであれ、お前は俺とエリナの息子だ。三年間ずっと本を読んで、毎日走って、一度も諦めなかった。それは本物だ。水晶の光がどんな色でも、それは消えない」
ヒロは、唇を引き結んだ。
泣くつもりはなかった。
でも目の奥が熱くなるのは、どうしようもなかった。




