第五話 魔法
ハーレシアという国において、魔法はごく当たり前のものだった。
特別なものでも、珍しいものでも、何でもない。
この世界に生きる人間にとって、魔法とはそれほど日常に溶け込んだものだった。
それをヒロが肌で理解したのは、生後半年も経たない頃のことだ。
朝、厨房から漂ってくる食事の香りと一緒に、パチパチと小さな音がした。
コックのトーマスが手のひらをかざして、竈に魔法で火を入れていた。
着火用の火打ち石など、最初から使う気がないのだろう。
昼、洗濯物を干しているマリアの手元から、温かい風がふわりと吹いていた。
乾きを早めるための温風魔法だ。
夕方、庭師のレントが花壇に水をやるとき、指先から細い水の流れを出していた。
ジョウロは、傍に置いたまま使われていなかった。
誰も特別な顔をしていない。
「魔法を使います」と宣言する者もいなければ、使われた側が驚く者もいない。
息をするように、歩くように。
ただそこに、魔法がある。
(そういう世界なんだ、ここは)
ヒロは赤子の体で天井を見上げながら、そう理解した。
前世で読んでいたなろう小説では、魔法は特別な才能を持つ者だけのものだった。
でもハーレシアは違う。
魔法は才能ではなく、この世界に生きる人間が当然のように持つものだった。
三歳になった頃には、その認識はさらに深まっていた。
ヒロの言葉もずいぶん流暢になり、使用人たちに話しかけることも増えた。
「トーマス、その火どうやって出してるの?」
「これですか? 魔力を指先に集めて、温度を上げるイメージでやるんですよ。子供の頃から練習してれば誰でもできるようになります」
「マリア、その風はどこから来てるの?」
「掌の内側に魔力を溜めて、外に押し出す感じですかね。難しくないですよ、八歳の儀が終わればヒロ様もすぐ覚えられます」
誰に聞いても、同じような答えが返ってきた。
特別なことではない。
当然のことだ。
ヒロ様も八歳になればわかります、と。
(八歳の判定の儀……か)
ヒロは何度もその言葉を耳にしながら、内心でそれを繰り返した。
この世界では八歳になると、正式に魔力の量と属性を計測する儀式があるらしい。
それ以前でも日常的に魔法は使えるが、自分がどの属性を持ち、どれだけの力があるかを正確に知るのはその儀式が初めてになる。
使用人たちが「八歳になれば」と繰り返すのは、そのためだった。
(俺の魔力は、どの属性で、どれくらいあるんだろう)
その問いに答えを出す手段が、今はまだない。
ただ、興味はあった。
使用人たちが当たり前のように使うその力が、自分の中にもあるのかどうか。
(まあ、今考えてもわからないことは考えても仕方ない)
ヒロはそう結論づけて、今日の鍛錬に戻った。
【身体強化 Lv.7】
【成長 Lv.3】
成長スキル 現在倍率:7.5倍
スキルは着実に上がっている。
今できることを、今やる。
それだけだ。
その日が来たのは、晩秋の風が少し冷たくなり始めた頃のことだった。
朝から屋敷の中がなんとなく慌ただしかった。
使用人たちがいつもより早く動き回り、食堂の大きなテーブルには上等なクロスが敷かれていた。
ヒロが不思議に思ってエリナに聞くと、彼女は少し嬉しそうな顔で答えた。
「今日ね、うちに大切なお客様が来るの」
「お客様?」
「ガリウス様のお知り合いでね……魔法師の方よ」
「魔法師? トーマスみたいな?」
エリナは少し笑った。
「トーマスとは全然違うわ。一級魔法師の方よ。ハーレシア魔法師協会でも、指折りの方なの」
ヒロは首を傾けた。
「一級って、一番すごいってこと?」
「そうね。魔法師には等級があって、一級というのは国でも数十人しかいない最上位の方たちよ」
エリナはそう言いながら、ヒロのくせのついた前髪をそっと整えた。
「今日は行儀よくしていてね。大事なお客様だから」
「うん」
ヒロは短く返事をしたが、頭の中はすでにフル回転していた。
国でも数十人しかいない最上位の魔法師。
トーマスが竈に灯す炎も、マリアの温風も、確かに魔法だ。
でも、一級魔法師の魔法とは、どれほど違うのか。
(ちゃんと見てみたい)
客が到着したのは、昼を少し回った頃だった。
ヒロは二階の廊下から、こっそりと玄関の様子を覗いていた。
馬車が一台、屋敷の門をくぐってきた。
御者が扉を開けると、中から降り立ったのはひとりの老人だった。
白い顎髭を蓄えた、背の高い老人。
年齢は六十代か七十代か、正確には判断しがたいが、顔には深い皺が刻まれていた。
ただ、その目だけがやけに鋭かった。
深い藍色の瞳が、屋敷の全体をさっと見回す。
(……なんだ、この人。全然違う)
同じ「魔法師」という括りの中に、トーマスとこの老人が並べられていることが、にわかには信じがたかった。
空気が違う。
佇まいが違う。
その老人の周囲だけ、空気が少し違う密度を持っているような感覚があった。
ガリウスが玄関まで出てきて、深く頭を下げた。
「ベルトラン先生、遠いところをよくおいでくださいました」
老人——ベルトランはゆっくりと頷いた。
「久しぶりだな、ガリウス。元気そうだ」
「おかげさまで。どうぞ、中へ」
ふたりが屋敷の中へ入っていく。
ヒロは廊下を小走りで移動し、階段の踊り場からさらに様子を伺った。
(同じ魔法師でも、これほど違うものか)
ヒロの胸の中で、じわじわと何かが熱くなっていった。
昼食の席には、ヒロも同席することになった。
エリナに言われて、いつもより少しきちんとした服に着替え、髪も整えてもらった。
食堂に入ると、すでにガリウスとベルトランが席についていた。
ヒロは自分の席に静かに座った。
ベルトランの視線が、すっとヒロに向いた。
「これがご子息か」
「はい。ヒロと申します。三歳になったばかりで……失礼があるかもしれませんが」
「構わん」
ベルトランはそれだけ言って、ヒロをじっと見た。
ヒロも、その視線を真っすぐに受け止めた。
逸らすつもりはなかった。
三歳の子供が、一流の魔法師の視線を正面から受け止める。
それが不思議だったのか、ベルトランの口の端がわずかに動いた。
「……変わった目をしているな」
「そうですか」
「歳の割には、落ち着いている」
「よく言われます」
ガリウスが苦笑した。
「本当に不思議な子でして。赤子の頃から、やけに落ち着いていて……」
ベルトランは少し考えるような顔をしてから、また食事に視線を戻した。
ヒロも同じようにスプーンを手に取りながら、しかし内心では(この人は何か見えているのかもしれない)と少しだけ緊張していた。
昼食が終わり、大人たちが商談の話を始めた頃、ヒロは使用人に連れられて庭に出た。
庭の隅にある木のベンチに腰掛けて、屋敷の食堂が見える窓をぼんやりと眺めた。
(強い魔法って、どんなものなんだろう)
毎日見ているトーマスやマリアの魔法は、生活のための魔法だ。
火を起こして、風を出して、水を流す。
便利ではあるが、それは言わば道具の延長線上にあるものだった。
でも一級魔法師という存在が使う魔法は、きっとそれとは次元が違う。
(ヒーローになるためには、この世界の戦い方を知らなきゃいけない。魔法がどこまで強くなれるのか、早く知りたい)
「坊や」
突然、声がした。
ヒロが顔を上げると、ベルトランが庭に出てきていた。
老人は庭をゆっくりと歩きながら、ヒロの方へと近づいてきた。
「ひとりで何を考えていた?」
「先生の魔法を見てみたいと思っていました」
ヒロは正直に答えた。
ベルトランは少し眉を上げた。
「なぜ」
「使用人たちの魔法とは違うと思って。同じ魔法なのに、さっきから先生のまわりだけ空気が違う気がしているので」
老人はしばらくヒロの顔を見ていた。
それから、ゆっくりとベンチの脇にしゃがみ込んで、ヒロと目線を合わせた。
「見たいか?」
ヒロは一瞬だけ間を置いて、頷いた。
「見たいです」
ベルトランは立ち上がり、庭の中央へと歩いた。
ヒロはベンチから降りて、少し距離を置いてそれを見守った。
老魔法師は、右手をゆっくりと前に伸ばした。
目を閉じる。
数秒、何も起きなかった。
庭の風が、枯れかけた葉を揺らす音だけがした。
そして。
ベルトランの掌の上に、小さな光の玉が生まれた。
青白い、静かな光。
掌ほどの大きさの、丸い光の塊が、ふわりと空中に浮かんだ。
ヒロは、思わず息を飲んだ。
(全然違う)
トーマスが竈に灯す炎も、確かに魔法だった。
でもこの光は、密度が違った。
光の中に、重さのようなものがある。
その青白い玉のまわりだけ、空気が違う質を持っているような感覚があった。
ベルトランは手を動かした。
光の玉が、その動きに合わせてふわりと移動した。
庭の空中を、ゆっくりと弧を描いて飛んでいく。
「これは照明魔法の基礎だ。魔法の中でも最も単純な部類に入る」
ベルトランが静かに言った。
「しかし、使う者の魔力量と制御精度によって、同じ魔法でもここまで変わる」
光の玉が、ベルトランの言葉に合わせるように大きくなったり小さくなったりした。
青から白へ、白から薄い金色へ。
色が変わるたびに、庭の空気が少しずつ変わって見えた。
(これが武器になれば……)
ヒロは動くことを忘れて、その光を見つめていた。
ベルトランが光の玉を消した。
じわりと光が薄れていって、やがてなくなる。
庭が、元の秋の色に戻った。
「どうだ」
老魔法師がヒロを見た。
「……全然違いました」
ヒロは素直に言った。
「何が違った」
「密度が違う気がしました。トーマスの炎とは、光の中に詰まっているものの量が違う感じで」
ベルトランが、わずかに目を細めた。
「三歳でそれを感じ取るか」
「なんとなくですけど」
「……なんとなくでも、感じたなら大したものだ」
老魔法師はそれだけ言って、ヒロの顔をもう一度じっと見た。
「お前、魔法を何に使いたい」
ヒロは迷わなかった。
「人を助けるために使いたいです」
ベルトランは少し間を置いた。
「商人の家の三歳児が言う言葉ではないな」
「そうかもしれません」
「八歳の儀が楽しみだ」
老魔法師はそれだけ言って、踵を返した。
「なぜですか」
ヒロが思わず声をかけると、ベルトランは歩みを止めないまま答えた。
「そういう目をした子が、どんな結果を出すかは気になる。それだけだ」
屋敷の扉が、静かに閉まった。
ヒロは庭にひとり残って、老人が消えた扉をしばらく見つめていた。
(八歳の判定の儀)
使用人たちも、ベルトランも、口を揃えてその儀式の名前を出す。
あと五年。
その時まで、今できることをやり続けよう。
体を鍛えて、スキルを上げて、魔法のことも少しずつ知っていく。
ヒロは庭に目を向けた。
さっきまでベルトランが立っていた場所に、枯れ葉がひらひらと落ちてきた。
ハーレシアの秋が、静かに深まっていく。
三歳のヒロは、小さな拳をそっと握って、もう一度走り出した。




