第三話 初めての練習
最初に感じたのは、温かさだった。
次に、狭さ。
それから光。
一気に視界を埋め尽くした光に、英雄は反射的に泣いた。
泣くつもりはなかった。
ただ体が、肺が、喉が勝手に動いて、か細い声が出た。
「生まれた! 元気な男の子ですよ!」
女の声が聞こえた。
英雄の小さな体が、大きくて温かい手に包まれた。
視界はまだぼやけている。
焦点が合わない。
ただ、ぼんやりとした輪郭の中に、涙を流している女性の顔と、その隣で目頭を押さえている男性の姿が見えた。
「……生まれた」
男性の声が、震えていた。
「無事に、生まれてきてくれた……!」
(父さんと、母さんか)
英雄は小さな胸の中で、そう思った。
見ず知らずの他人だ。
前の人生では会ったこともない人たちだ。
でも、涙を流して自分の誕生を喜んでいる。
それだけで、胸の奥がじわりと温かくなった。
英雄の目から、もう一度涙が流れた。
今度は体が勝手に泣いているのか、自分が泣いているのか、区別がつかなかった。
母親の腕が、英雄の体を包んだ。
温かかった。
とても、温かかった。
(スキルの確認は……後でいいか)
英雄は思った。
今は、これでいい。
今は、この温かさだけを感じていよう。
始まったのだ。
赤子から。
スキルは二つだけ。
チートも、豪華な出自も、特別な武器も、何もない。
ただ、自分の意志と、二つのスキルだけがある。
「ぁ……ぅ……」
英雄の口から、意味のない声が漏れた。
まだ言葉が出ない体だった。
(でも、大丈夫だ)
英雄はぼんやりとした視界の中で、小さな拳を握った。
成長スキルがある。
身体強化がある。
そして何より、三十二年分の憧れと、諦めなかった記憶がある。
それがあれば、始められる。
ハーレシアの空は、窓の向こうにあった。
赤子の目には、まだはっきりとは見えない。
でもそれは、きっと青いのだろう。
前の世界と同じ、青い空。
ヒーローを夢見て、なれないまま終わった男が。
今度こそ、本当のヒーローになるための、長い旅の始まりだった。
誰にも知られることなく、小さな産声だけを残して。
結城英雄は、ハーレシアに生を受けた。
赤子というのは、思っていたよりもずっと不便なものだった。
体が動かない。
言葉が出ない。
お腹が空いたり、眠くなったり、不快だったりすると、泣く以外の手段がない。
英雄が「ここは異世界で、自分は転生してきた存在だ」という事実を改めて認識したのは、生まれてから一週間ほどが経った頃だった。
それまでは、赤子の肉体が持つ本能があまりにも強くて、ろくに思考もできなかった。
眠い。
お腹空いた。
温かい。
そういった原始的な感覚ばかりが波のように押し寄せてきて、三十二年分の記憶と思考は、ずっと後ろに押しやられていた。
(なるほど、赤子の脳というのは、こういう感じか……)
ようやく少し落ち着いて考えられるようになった頃、英雄は思った。
脳の容量そのものが小さいのか、あるいは刺激の処理で精一杯なのか。
前世の記憶はちゃんとある。
ただ、それを扱うための器が、まだ追いついていない感じがした。
(まあ、焦っても仕方ないか。赤ちゃんに無理をしても意味はない)
英雄はそう結論づけて、まずは素直に赤子として生きることにした。
生まれた家は、思っていたより広かった。
英雄が初めてその全貌を把握したのは、生後三ヶ月ほどが経ち、目がある程度ものを捉えられるようになってからだ。
天井が高い。
窓から見える庭には、緑が豊かにある。
部屋の調度品はどれも上質で、木製の家具には丁寧な彫刻が施されている。
使用人らしき人物が、何人か屋敷を行き来しているのも見えた。
(……これは、裕福な部類だな)
英雄は内心でそう確認した。
父の名はガリウス・ローレン。
ハーレシア王国の中でも中規模の都市、ルーデン市で商会を営む商人だった。
商会といっても小さな雑貨屋ではなく、周辺の農村と都市を結ぶ物流を仕切る、地域では名の通った存在らしい。
屋敷は市街地の一角にあり、使用人が常に数人は働いている。
食卓には毎食、肉や野菜が並んだ。
パンは柔らかく、スープはいい香りがした。
(前世でも食うには困らなかったけど……これはなかなかいい環境だな)
英雄はそう思いながら、母の胸に抱かれて窓の外を眺めていた。
母の名はエリナ・ローレン。
穏やかな顔立ちの、茶色い髪をした女性だ。
英雄を見るときの目が、いつも柔らかかった。
「ヒロ、今日はご機嫌ね」
エリナがそう言って、英雄の頬をそっと撫でた。
英雄の転生後の名前は「ヒロ」になっていた。
案内人のはからいか、あるいは偶然か、前世の「英雄」という名の中に宿る「ヒロ」という音が、異世界の言語でもそのまま通じる形で名づけられたらしい。
ガリウスが「ヒロ」という名をどこから思いついたのかは不明だが、英雄にとっては前世と繋がりのある名前で呼ばれることが、何よりもありがたかった。
(ヒロ……英雄。変わらないな、俺の名前は)
英雄はぼんやりと思いながら、窓の向こうの空を見た。
ハーレシアの空は、前の世界と同じ青さだった。
スキルの存在を実感したのは、生後半年ほどの頃だった。
英雄が気づいたのは、ある朝のことだ。
目が覚めたとき、頭の中に薄く光るような感覚があった。
視界の端に、まるで文字が浮かび上がるように、情報が見えた。
【スキル一覧】
・身体強化 Lv.1
・成長 Lv.1
(……ステータス画面?)
英雄は内心で驚いた。
なろう小説でよく見るあれだ。
視界に直接情報が表示されるタイプのやつ。
(案内人、しっかりしてるじゃないか……)
英雄は感心しながら、その画面をじっと見つめた。
スキルを意識して「詳細」を見ようとすると、追加の情報が浮かんだ。
【身体強化 Lv.1】
保持者の肉体的基礎能力に恒常的な補正をかけるスキル。
筋力・速度・耐久性に加算ボーナスを付与する。
レベルが上がるにつれ、補正値も増加する。
【成長 Lv.1】
経験値の吸収効率を向上させるスキル。
あらゆるスキルの習得・成長速度が、通常の人間と比較して大幅に加速する。
現在の加速倍率:3.2倍
(3.2倍か……まあ、ゼロよりはマシだが)
英雄は思った。
チートと呼ばれるような数値ではない。
何十倍、何百倍という話でもない。
ただ、3.2倍でも積み重ねれば、長い目で見れば大きな差になる。
(でも、これって上がるのか? 成長スキルのレベルが上がれば、倍率も上がる?)
英雄がそう考えながらスキルの詳細を見ていると、さらに情報が追加された。
成長スキルはレベルアップにより成長倍率が上昇する。
Lv.1:3.2倍
Lv.2:5.0倍(推定)
Lv.3以上:未計測
(……成長スキル自体も成長するのか)
英雄はその一点で、少しだけ目の奥が光った。
成長が成長する。
スタートは地味だが、続けていけば加速していく。
雪だるまのような構造だ。
(面白いな。やっぱり、早めに動いた方がいい)
英雄はそう思った。
赤子の体には、まだできることが少ない。
でも、だからこそ今からできることをやっていこう。
英雄が体を動かす練習を始めたのは、生後七ヶ月頃だった。
他の赤子と比べて早いのか遅いのか、前世の知識ではわからない。
ただ、英雄には意識的に動かしたいという強い意志があった。
指を動かす。
腕を上げる。
足を蹴る。
赤子の体は、思ったように動かない。
思考と肉体の間に、もどかしいほどの乖離がある。
しかし英雄は諦めなかった。
毎日、できる範囲で体を動かした。
指の一本一本を、意識して動かす。
腕をゆっくりと上げ下げする。
足首を回す。
端から見れば、ただよく動く元気な赤子にしか見えなかっただろう。
エリナは「この子、本当によく手足を動かすのね」と笑っていた。
ガリウスは「活発な子になりそうだ」と嬉しそうだった。
英雄は内心で、(まあ、そうじゃないんだが)と思いながら、それでもその言葉を素直に受け取った。
(焦らなくていい。赤子の時期は土台を作る時間だ)
転機は、一歳を過ぎた頃に来た。
英雄が初めて自分の足で立ち上がったのは、一歳三ヶ月のことだった。
部屋の中央で、エリナに支えられながら、ゆっくりと足に力を入れた。
ふらつく。
当然だ。
一歳の子供の体は、まだ重心の取り方もままならない。
それでも英雄は、意識的に足の裏で床を踏みしめ、腹に力を入れ、ゆっくりと体を垂直に保とうとした。
ぐらぐらと揺れながら、英雄は三秒ほど自立した。
そして、ぺたんと座り込んだ。
「あっ! 立った! エリナさん、ヒロが立ちましたよ!」
使用人の女性が声を上げた。
エリナが目を丸くして、両手で口を押さえた。
「ヒロっ……! すごい、すごいわ!」
泣きそうな顔で英雄を抱き上げて、ぎゅっと抱きしめた。
英雄は少し息が詰まりながら、(わかった、わかったから少し緩めてくれ……)と内心で思った。




