第十一話 ハーレシア国立学園へ
八歳から十歳までの二年間を、ヒロは静かに、しかし確実に積み重ねた。
判定の儀の結果が出たあの日から、世界は少し変わった。
街での視線は変わらない。
時々聞こえてくる声も変わらない。
でもヒロは、それに慣れることにした。
慣れることと、受け入れることは違う。
理不尽だとは今でも思っている。
でも、理不尽に怒り続けるためのエネルギーを、別のことに使った方がいいとわかっていた。
毎朝、夜明けと共に起きた。
庭を走った。
体幹を鍛えた。
腕立て伏せ、腹筋、スクワット。
八歳のときにはまだ満足にできなかった動作が、九歳になると形になり、十歳が近づく頃にはかなりの回数こなせるようになっていた。
スキルが、それを数字で示していた。
【身体強化 Lv.26】
【成長 Lv.8】
成長スキル 現在倍率:17.0倍
身体強化のレベルは着実に積み上がっていた。
同い年の子供と並べば、体格に大きな差はない。
しかし走ればずっと速く、体力は段違いに続く。
ガリウスに頼んで、街の武術道場に通い始めたのも八歳の終わり頃だった。
道場の師範は最初、八歳の子供が入門を申し込んできたことを苦笑していた。
しかし試しに一度走らせ、体幹を見て、表情が変わった。
「……体の使い方を知っている子だな」
「少し練習してました」
「何のために剣を習いたい?」
ヒロは迷わなかった。
「強くなるためです。魔法が使えないので、それ以外の方法で戦えるようになりたい」
師範はヒロの顔をじっと見てから、静かに頷いた。
「入門を許可しよう」
それから二年間、ヒロは週に三度、道場に通った。
素振りから始まり、型を覚え、足運びを叩き込まれた。
道場の門下生の中には年上の者も多かったが、ヒロは半年で同い年の生徒全員に追いつき、一年後には道場内で一、二を争う動きを見せるようになっていた。
師範は何も言わなかったが、稽古の後にヒロを呼んで別の技術を教えてくれるようになった。
魔法を使った一般的な剣士とは異なる、純粋な体術と剣技を組み合わせた戦い方。
「魔法がない分、体で補うしかない。お前にはその素質がある」
師範はそう言いながら、ヒロの構えを静かに直した。
(これが俺の戦い方になる)
ヒロは木刀を握りながら、そう思っていた。
セナとの連絡は、途絶えたわけではなかった。
文を送ると、返事は来た。
ただ以前のように週に一度屋敷に来ることはなくなり、やり取りは月に一度か二度の手紙だけになった。
セナの手紙はいつも、王立学園の特別クラスでの勉強の話が中心だった。
魔法の授業が面白い、四属性があるとこんな魔法が使えることがわかった、先生にこんなことを言われた。
ヒロはそれを読みながら、返事を書いた。
道場でこんな技を習った、本にこんなことが書いてあった、身体強化がここまで上がった。
お互いの話を書いた。
でも、文の中にあった以前の気安さは、少しずつ薄れていた。
会っていない時間が、積み重なっていた。
(仕方ない)
ヒロはそう思うことにしていた。
(でも学園に行けば、また会える)
ハーレシアの義務教育は、十歳から十三歳までの三年間。
全国の子供が通う、全寮制の国立学園だ。
王立学園の特別クラスはその中の上位組織として機能しており、三属性以上の者が入るとされていた。
セナは今、その特別クラスの一員として、先に学園に入っているはずだった。
(同じ場所に行けば、また話せる)
それを、ひとつの目標にしていた。
十歳になる春の前日、ガリウスがヒロを書斎に呼んだ。
「明後日、王都に発つ。準備はいいか」
「できてる」
「荷物はなるべく少なくしろ、長旅だから」
「本は何冊まで持っていっていい?」
ガリウスは苦笑した。
「……五冊まで」
「十冊にして」
「七冊だ。妥協しろ」
「わかった」
ヒロはすでに持っていく本の選定を終えていた。
戦闘技術の理論書、魔物生態書の改訂版、ハーレシア地理書、冒険者ランク制度の解説書。
それから一冊だけ、魔法理論書を持っていくことにした。
もう読み込んだ本だが、学園では魔法の授業もある。
使えなくても、理解していることと理解していないことでは違う。
頭の中に知識があれば、何かの役に立つかもしれない。
(何かの役に立つかもしれない)
その言葉が、今のヒロの行動原理になっていた。
エリナが夕食の後、ヒロをそっと抱きしめた。
「元気でね」
「うん」
「つらいことがあったら手紙を書きなさい。すぐに会いに行くから」
「全寮制だから来れないよ」
「関係ない。お母さんは行く」
ヒロは少し笑った。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃなくてもいいのよ。大丈夫じゃないときに大丈夫って言わなくていいから」
ヒロは少しだけ、エリナの背中に手を回した。
「……うん」
王都への道のりは、馬車で三日かかった。
ルーデン市は王都から見て東に位置しており、街道を使えばおよそ百五十キロの距離がある。
ヒロは馬車の窓から外の景色を眺めながら、持ってきた本を読んだり、眠ったりして過ごした。
二日目の昼頃、遠くに王都の城壁が見えてきた。
「あれが王都か」
ヒロが呟くと、ガリウスが頷いた。
「ルーデンとは規模が全然違うぞ。迷子になるなよ」
「なる気はないけど、地図は持ってきた」
「さすがだな」
王都に近づくにつれて、道行く人の数が増えた。
同じように馬車で移動する家族の姿も多かった。
子供連れの家族ばかりだ。
義務教育の入学時期が重なっているのだろう。
窓から見える子供たちの表情は様々だった。
わくわくした顔、不安そうな顔、泣いている子、親の手を強く握っている子。
ヒロはその顔たちを眺めながら、自分の胸の中を確認した。
緊張はある。
でも不安かと言われると、少し違う気がした。
(とにかく、やることをやるだけだ)
覚悟は、もうできていた。
王都グランセルは、ルーデンの十倍以上の規模を持つ都市だった。
城壁の内側に広がる街並みは整然としており、中央に向かうにつれて建物が大きくなっていく。
その中心に、王城と並ぶように建っているのが、ハーレシア国立学園だった。
石造りの重厚な建物が、いくつかの棟に分かれて立ち並んでいる。
敷地は広大で、訓練場、魔法演習場、図書館、寮棟、食堂棟と、ひとつの街のような構造をしていた。
馬車が学園の正門前に着いたとき、ガリウスが外を見て感心したような顔をした。
「でかいな、本当に」
「本で見た通りだった」
「お前はここの図を見てたのか」
「地理書に載ってた」
ガリウスは苦笑した。
学園の前には、同じように入学を迎える家族たちが集まっていた。
子供の手を握る母親、背中を叩いて送り出す父親、兄弟で一緒に入学する姿。
ヒロはそれを眺めながら、荷物を馬車から下ろした。
「ヒロ」
ガリウスが、ヒロの肩に手を置いた。
「何があっても、帰る場所はある。それだけは忘れるな」
「うん」
「行ってこい」
ヒロは頷いた。
荷物を背負って、正門の方へと歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、泣きそうになるとわかっていたから。




