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第一話 始まり

新作始めました。

よろしければどうぞ。


 五月の昼下がりは、おそろしいほど穏やかだった。

 オフィス街の歩道に並ぶ街路樹が、初夏の風にゆらゆらと揺れている。


 その下を、ひとりの男がとぼとぼと歩いていた。

 コンビニの袋を片手にぶら下げて、スマートフォンの画面を眺めながら。

 結城英雄、三十二歳。

 中堅の商社に勤める、どこにでもいるサラリーマンだ。


 身長は百七十五センチで体格は悪くないが、スーツ姿でコンビニ弁当を提げて歩く姿は、特別目立つわけでも、特別みすぼらしいわけでもない。

 ただ、平凡だった。

 あらゆる意味で、平凡だった。


 今日の昼飯は鶏そぼろ弁当と、麦茶のペットボトル。

 食欲もなかったが、食べなければもたない。

 そういう判断で、機械的に選んだだけだ。


 英雄はスマートフォンの画面をぼんやり眺めながら、誰かが投稿した猫の動画を三秒ほど見て、興味を失ってアプリを閉じた。

 空を見上げると、青かった。

 憎らしいくらいに、青かった。


 結城英雄という人間を語るうえで、外すことのできない話がある。


 彼は幼い頃から、ヒーローに憧れていた。

 テレビで特撮ヒーローを見るたびに、画面に張りついて目を輝かせていた。

 正義の味方が悪を倒し、傷ついた人々を守る、あの姿に。

 心の底から、焦がれていた。

 保育園の卒業文集には迷いなく書いた。

 「ぼくはヒーローになりたいです。みんなをまもれるつよい人になりたいです」と。

 小学校の文集でも同じことを書いた。

 さすがに「ヒーロー」という言葉は恥ずかしくなって「人を守れる強い人」と表現を変えたが、中身は同じだった。


 中学に入ると、英雄は体を鍛え始めた。

 地元のジムに通い、友達が遊んでいる時間に走り込み、腕立て伏せと腹筋を毎日欠かさなかった。

 自分でも気づいていた。

 体力や身体能力が、同年代の中では上位にあることを。


 それがひそかな自信になって、「もしかしたら本当になれるかもしれない」と、夢を手放さずにいられた。

 高校二年生の秋に、地元の格闘技ジムの体験入会に行った。

 結果は散々だった。

 何年もキャリアを積んだ先輩に、一分も経たずにボコボコにされた。


 力も速さも、本物とは比べ物にならなかった。

 「センスはある。でも本気でやる気があるなら、もっと早く始めないとキツいぞ」


 インストラクターにそう言われた。

 英雄はその言葉を、笑顔で受け取って、家に帰ってから布団をかぶって一時間ほど動けなかった。

 それでも諦めなかった。


 大学を卒業して、消防士の採用試験を受けた。

 筆記も体力試験も通過した。

 しかし訓練中に右足首を捻挫し、無理をして悪化させ、最終的に退職勧告に近い形で辞めることになった。

 次に警察官の採用試験を受けた。


 これも受かった。

 警察学校の寮生活が始まった。

 だが二ヶ月で退職した。

 理由はいくつかあった。

 集団生活への不適応、上下関係の厳しさ、体力的な問題。

 どれも言い訳といえば言い訳だ、と自分でもわかっていた。


 要するに、自分にはヒーローになるための何かが足りなかった。

 才能なのか、根性なのか、あるいは精神力なのか。

 何が足りなかったのかも、今となってはよくわからない。

 二十六歳の春、英雄は今の会社に入社した。

 事務職として採用されて、今年で七年目になる。

 仕事は可もなく不可もなく、人間関係も特に問題はない。


 昇進して係長になったのが去年のことで、部下が三人いる。

 ヒーローへの憧れは、今もどこかに残っている。

 ただそれはもう「夢」ではなく、埃をかぶった「思い出」になっていた。

 押入れの奥に仕舞い込んで、もうずっと開けていない、あの頃の記憶。

 英雄はそれについて、もう深く考えないようにしていた。


 交差点が見えてきた頃、英雄はコンビニの袋をもう一方の手に持ちかえた。

 昼休みも残り二十分ほどしかない。

 食べながら午後の資料でも確認しようかと考えていた。


 そのとき。

 英雄の目が、ひとつの小さな影を捉えた。

 横断歩道の手前に、女の子が立っていた。

 五歳か、六歳くらいだろうか。


 黄色い帽子をかぶって、小さな水色のリュックサックを背負っている。

 ひとりで信号の前に立って、何かを見つけたようにきょろきょろと首を巡らせていた。


 保護者の姿はない。

 迷子かな、と英雄が思ったそのとき。

 女の子の体が、ぴょこんと動いた。

 信号は赤だった。


 それでも女の子は、まるで当然のように横断歩道へと踏み出した。

 道路の向こう側に、誰か知っている人が見えたのかもしれない。

 あるいは、信号の赤と青の意味が、まだきちんとわかっていないのかもしれない。


 「あ――」

 英雄の喉から、音にならない声が漏れた。

 同時に、耳に届いた。

 エンジンの唸り。

 重くて、太くて、猛々しい轟音が、交差点の横から迫ってくる。

 青信号で交差する方向から、大型トラックが直進してきていた。


 スピードは落ちていない。

 女の子は道路の真ん中にいる。

 ドライバーは気づいていない。

 英雄の頭の中で、思考というものが止まった。

 体が動いていた。


 後から冷静に振り返れば、あの数秒間は奇妙なほど鮮明に覚えている。


 足が地面を蹴った感触。

 風が耳を切る感覚。

 周囲の雑踏の音が、遠のいていくような錯覚。

 コンビニの袋が手から離れ、地面に落ちた。

 英雄は全速力で横断歩道に飛び込んだ。


 女の子の体を両腕で抱え込み、自分の体ごと回転させながら、歩道の外へと力いっぱい押し出した。


 女の子が歩道の上に転がる。

 英雄がそれを確認した。

 次の瞬間。

 凄まじい衝撃が、英雄の体を貫いた。

 音が、聞こえなくなった。


 仰向けに倒れていた。

 空が見えた。

 青い空だった。

 さっきと同じ、憎らしいくらいに青い空が、そこにあった。


 英雄は瞬きをした。

 体が動かない、と気づいた。

 動かそうとしているのに、信号が届いていないような感覚だった。


 痛みは、ほとんどなかった。

 ただ、体の感覚が遠のいていくのがわかった。

 まるで、潮が引いていくように。

 遠くで、誰かが叫んでいる。

 サイレンが鳴っている気がする。


 女の子の泣き声が、どこかから聞こえてきた。

 英雄はそれを聞いて、少しだけ息を吐いた。

 (あ、助かったのか。よかった)

 本当によかった、と思う。

 視界の端が暗くなってきた。

 空が、どんどん遠くなっていく。

 英雄は青空を見つめながら、頭の中でぼんやりと思った。


 (子供を助けて、自分がトラックに轢かれるとか……笑えないな)

 どこか間抜けな終わり方だ、と思う。

 ヒーローを夢見て三十二年。

 なれないまま、会社員として生きてきて。

 最後の最後に、ようやく誰かを守れたと思ったら、自分がやられた。

 (でも……助けられてよかった)


 それだけは、本当にそう思えた。

 あの子が無事なら、それでいい。

 これがこの男の最後の選択なら、悪くはなかった。

 英雄の目蓋が、ゆっくりと重くなっていった。

 青い空が、どんどん遠ざかって。

 やがて、何も見えなくなった。


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